※この作品はR-18です。

グレーゾーン   作:ヤン・デ・レェ

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イタリアにて

 

 

 

 

 

高校の夏休み。彼と一緒にイタリアに行った。彼の仕事の都合だった。あたしは本来ついていく必要なんかなかったが、駄々をこねてついて行った。

 

そこで、彼がどんな連中と、どんな仕事をしているのかを、ほんの少しだけ知ることができた。自分以外で、彼の欠片を大事に持ってる奴とも、あたしはこの時に初めて会ったんだ。

 

 

 

 

ツアーガイドもなしに、彼を呼び寄せた現地での知り合いは羽振の良さそうな男で、彼を呼びつけた割には腰が低く、何事にも丁寧に対応した。

 

初日の昼間に案内されたレストランで、その男から案内人兼世話役を紹介された。男は足早に去って行った。

 

紹介された男はロニーと言って、矯正具で歯並びをガチガチに固めた、目つきの悪いやつだった。こいつは、彼を目の前にすると普通のガキが父親に久しぶりに会った時のような表情を浮かべた。満面の笑みで、両手を広げて出迎えるそいつの肩に、彼が馴れ馴れしく手を置いた。あれは私の手だってのに。

 

肩に手を置かれたロニーは飛び上がるみたいに喜んで、愛想のいい顔で、明るいトーンで次から次に喋りまくった。お喋りなやつだ。自分の近況語りが済むと、今度は先輩の愚痴を話し、それからこれからのことを話し始めた。

 

 

 

 

初日は折角だから観光もしようと、誰が言い出すまでもなく決まった。とはいえ、観光地巡りじゃない、彼は案外買い物が好きだった。

 

ウィンドウショッピングをする前に、彼がロニーに向かって言った。

 

三万ユーロ、現金ですぐに頼めるか。

 

彼が短く伝えた。言われたロニーは頼られるのが嬉しくてたまらないとばかりに深く頷いた。

 

「勿論です、すぐにでもご用意します」

 

それが仕事で貰う金の前借りなのか、接待費なのかはわからなかったが、彼にもロニーにも大事だという感じはなかった。至極当たり前と言った調子で、彼はロニーに頼み、ロニーも喜んで応えた。

 

「何にお入用ですか。新しい靴ならこちらで仕立てます。スーツでもいい。どうですか?俺の馴染みのテーラーに見せましょう」

 

捲し立てるロニーにあたしはうんざりしたが、彼は常と変わらずゆったりとした物腰で時折相槌を打ち、最後までやつの話を聞いていた。親切なところがたまに憎い。

 

結局、あたしに服を仕立てる代わりに、彼がロニーに新品のスーツを奢ってやることになり話がまとまった。ロニーは誕生日プレゼントが待ち切れないのか、直属の部下に「至急」といい含めて金を用意させていた。

 

待っている間に彼に金のことを聞いた。現地で使う金が十分になかったからと、ロニーに先払いを頼んだのだという。やはり、仕事で貰う金だったらしい。

 

「随分信頼されてんだな」

 

私がそう言うと、彼は肩をすくめた。

 

使い走りから手渡されたセカンドバッグの中には、仕事で貰う金とは別に、追加で一万ユーロ詰まっていて、彼はそいつを惜しみなくロニーにくれてやった。ロニーはクリスマスと誕生日が同時に来たように大喜びだった。

 

 

 

 

買い物のあいだ、あたしは何度も着せ替え人形のように服を着ては脱いだ。彼は店員にとにかく似合う物を持ってきてくれと言い、あたしが来た服を片っ端から買っていた。彼の両手は私の服が入った袋で一杯になった。

 

買い物をしている間中、ロニーはあたしのことをじっと見つめていたが、それも自分がスーツを仕立てられる番になるとコロッと変わった。喜びを隠そうともせず、彼と互いにスーツを仕立てて贈り合っていた。彼はロニーから貰ったスーツはその場では着ないことにして、大事に袋にしまっていた。ロニーは照れくさそうな顔で、丁重にトランクに収められるそれを見つめていた。ロニーも同じように、包んでもらったスーツを後生大事に抱えていた。

 

買い物が終わると今度は仕事だ。ロニーの運転する車に乗り込んで、運ばれるままに向かった。目隠しを出そうとしたロニーを彼が制していたので、あたしは黙って目を瞑った。目的地に着くまで、エンジンの音以外はすべて遠くに聞こえた。

 

人っこ一人いない礼拝堂に案内されて、そこでお祈りの席に着いた。彼は長椅子の角に座ると、椅子の底に手を突っ込んだ。出てきたのは便箋だった。

 

親愛なる先生へ、から始まる手紙は何変哲のない近況を報告するものだった。脇から覗き込むあたしを注意することもなく、彼はスラスラと読み進めていた。英語で書かれた手紙には、ところどころ意味の通じない、おそらくイタリアの地名らしきものと人名らしき固有名詞が見えた。読み終えた彼は手紙を十字架の下の卓に置かれていた蝋燭の火で炙った。灰になったのを確認すると、彼は手指についた煤を手を叩いて払った。

 

「先生、終わりましたか」

 

ロニーのやつが声をかけた。

 

彼はニコリと笑って、ロニーの後に続いた。礼拝堂が置かれている教会から少し歩いたところに停められていたジャガーに乗り込んだ。車が変わったのがわかった。ナンバーも別物。車種もだった。あたしが最後に乗り込むと、車はすぐに発進した。

 

街中を抜け出て、しばらく田舎道を進んだ。海沿いの家が見えてきて、周囲に他の車は見えなかった。目を細めると薄っすら見えるくらいの場所に別荘が見えたところで車は停まった。

 

すぐに済む、そう言って彼は車を降りた。あたしは呼吸を忘れたみたいに体に力が入って、間も無く脱力した。そこにロニーが声をかけた。

 

「心配することはない。先生は失敗しない。デル・サルトと一緒だ。本物の天才だ」

 

突然のことに身を固くして、ミラー越しにロニーと目が合ってギョッとした。憧れのヒーローを語るみたいに、ロニーは自信満々だった。話を聞くとは一度も言っていない。だが、自分の知らない彼の話には興味があった。

 

「あの人とは、いつ知り合ったんだ?」

 

ぶっきらぼうに聞いた。

 

「そっちこそ、先生とはどういう関係だ?」

 

「同居人さ。一つ同じ屋根の下で寝てる」

 

「へぇ…そうかい。でも、知ってるか?あの人はモテるんだ。男にも女にも、な。くれぐれも、変な気だけは起こすなよ?」

 

「痴情のもつれで海に浮かびたくはないだろ?」

 

ロニーは低く這うような声で言った。

 

「ハッ!変な気なんか起こすもんか。どうするかはあの人が決める。あたしはあたしの意見を言うだけだ」

 

あたしがキッパリと言うと、ロニーが目を細めた。フッと鼻で笑いながら首を傾けた。矯正具がギラリと光った。

 

「間違っちゃいない。間違っちゃいないが、賢明でもないな」

 

ロニーは前置きしてから念を押した。

 

「こっちの世界じゃ強い奴がルールだ。そして、あの人より強い人を、俺は見たことがない」

 

「出会った時からそうだった。今も変わらずそうだ。あの人が死ぬ日が来るなんて、それこそマリア様が俺たちの前に現れるくらいあり得ねえ」

 

「随分入れ込んでるんだな」

 

それが私の感想だった。

 

「悪いか」

 

ロニーは悪びれもせずに言い、ハンドルを握りながら背筋を伸ばした。

 

「それで、馴れ初めはいつだったんだ?あの人はどんなやつだった?」

 

あたしは改めて聴き直した。ロニーは指をハンドルに打ちつけた。しばらくトントンと音が続いてから、奴は口を開いた。

 

「随分世話になった。先生のお得意様のとこで這いずり回ってたガキにも、カポや親分連中と同じように接してくれた。何者でもないガキと同じ扱いをされても、誰もあの人を責められなかった」

 

ロニーはあたしの方を振り向いた。その目は、主人を誑し込む野良猫に噛み付く番犬のそれだった。

 

「その日以来、誰もが俺に一目置くようになった。俺は蔑ろにされなくなった。それからも、会うたびに色々なものを貰った。道端の猫だとしても気分がいいもんだぜ。勘違いだとしても、自分が選ばれた人間だと思える」

 

顔から力が抜けて、ロニーは自嘲的な笑みを浮かべた。

 

あたしは同情されているのか、共感されているのかわからなかったが、少なくともロニーが敵意を投げ捨てたことだけは理解できた。空気が弛んでいた。

 

「そして、案外それは間違いないもんだ。あの人が選んだものを、つまらない奴らが勝手にその通りに思い込んで、偽物を本物に仕立て上げてくれる。あの人は俺の人生を上等に仕立て上げてくれた。拾い上げてもらった恩を、お前も忘れるな」

 

ロニーはそう言った。それから胸ポケットをまさぐってタバコを探すが見つからず、そのままの姿勢で動きを止めた。車の外、海の方を見ていた。別荘から豆粒みたいな大きさの人影がこっちに近づいてきていた。

 

「話しすぎたな。俺が話したことは忘れろ。忘れなくてもいいが、あの人の前で話すなよ」

 

ロニーはそう言ったが、彼が車を降りてから、まだ1時間と経っていない。何であっても早すぎた。

 

「いや、あの人が早すぎるだけだ。何も言わねえ。あたしは自分のことで手一杯なんだ」

 

あたしはもっと何か言いたかったが、結局何も言えなかった。

 

ロニーは一度、愉快げに鼻を鳴らすと、慎重にエンジンをかけた。エンジンがかかる音に気づいた彼が、あたし達の方へ視線を送る。彼は海岸線と幹線道路の境界線をしっかりと跨ぐと、爪先を道路のアスファルトに軽く打ちつけて砂を払い、それからこちらに一度大きく手を振った。

 

「先生を拾って帰るぞ」

 

ロニーは一方的に言ってから車を出した。木陰から飛び出た車を彼の真ん前に着けて、彼は後部座席に身体を滑り込ませると、ロニーの肩を軽く叩いた。ロニーの眉がクッと上がった。いちいち喜んでやがる。疲れないのかな。でも、少し羨ましいと思った。案外、単純な奴なのかもしれない。

 

車は直ぐさま発進し、元来た道とは別のルートで市街地へと戻った。泊まる予定だったホテルの前まで送られて、別れを惜しむロニーにまた今度と彼が言った。彼の方から抱擁を交わし、あたしたちはロニーと別れた。

 

 

 

ホテルの部屋に入ってから、彼は真っ先に手を洗った。入念に手を洗うと、入浴を済ませて、それからあたしのことを抱きしめた。石鹸の匂いがした。それと彼の匂いも。彼が感じていた、多分、感じていた嫌な匂いは、そんなものはさっぱりしなかった。彼は苦しそうで、だから、あたしは彼の背中を撫でた。彼も、あたしの頭を撫でてくれた。

 

 

 

 

 

成長してたな、ロニーのやつ。

 

ルームサービスで頼んだ食事を待つ間、彼はしみじみとそう言った。

 

あたしと出会う前に過ごした時間。あたしが手出しできない、もうすでに積み上げられた時間。そう言うものが壁になって、今のあたしと彼を隔てているみたいだった。もどかしくて、無性に悔しかった。

 

何も言わずにバスルームに向かった。声がかけられたけど、あたしが何も答えないとわかると、待ってるとだけ言って彼はあたしを見送った。彼を待たせてシャワーを浴びた。日本の水とは違うんだ、髪がギシギシになったけど我慢した。鏡には、成熟しかけの女の体が映っていた。もう何だってしてやれるのに、あの人はそう言うそぶりを少しも見せない。ただ温かく身体を触れ合わせるだけ。頭を撫でられて、肩に手を置かれて、頬を撫でられて、抱きしめられて。それがどれだけ幸せなことなのか、そう言うことが当たり前の今がどんなに有難いことなのか、あたしだって理解してる。

 

けど、ああいう、ロニーみたいなやつが沢山いると思うと、それに沢山の知らない女もいると思うと、あたしは納得がいかなくて、どうしようもなくて、ムカッ腹がたってしょうがない。生まれた瞬間から知り合うことなんて出来なくても、今の全部が欲しいと思った。でも、多分、そうしたらそうしたで、あたしは何かに不満足を感じるんだろうな。

 

贅沢な悩みだった。飯も食えて、体も洗えて、怖いことから守ってもらえて、愛してもらってる。わかってる。でも、だから怖い。与えられすぎて、いつか全部を取り上げられるんじゃないか。失望された瞬間から、全部が色を失うんじゃないか。そう言う不安が込み上がってきて、一度生まれると消えてくれそうになかった。

 

結局、頭を冷やすつもりが悩みが深まっただけだった。今日買ってもらったばかりの服を着てみた。外行きの服で、今からすることといえば飯を食って寝るだけなのに場違いが過ぎると思った。でも、何かを台無しにしてしまいたくて、凝り固まった今を崩すきっかけが欲しくて、丁寧な包装を乱暴に破り捨てて綺麗な服に袖を通した。

 

彼は服を買ってくれたけど、結局褒めてもらっていない。そう気づいて、少し緊張した。何か言ってくれればいい。言ってくれなくても、また抱きしめてくれればいい。そう思ってバスルームを出た。彼の前に姿を晒した。

 

似合ってる、とっても。

 

叱るでもなく。驚くでもなく。彼はただそう言って喜んだ。優しい笑みが眩しい。彼がさり気なく、あたしのあちこちを視て、それから照れ臭そうに褒めるので、あたしはすっかりのぼせ上がった頭で席に着いた。

 

単純過ぎる。まるで弱かった。あたしはアンタに弱過ぎる。アンタはあたしに甘過ぎる。こう言う時は、もっとこう、ビシッと言うもんだ。叱りつけるなり、驚くなりしろよ。そんなに何でも受け入れられると、もっと好きになっちまうじゃんか。

 

溺れる。溺れちまうよ。もう疾うの昔に堕ちてんのに。これ以上、どうしろっていうんだ?照れ臭そうにしやがって。気持ちの置き場に困ってんのはこっちだ。こんな高い服、もっとちゃんとした時に着ればよかった。包装も、もっと丁寧に外して、何だったら袋ごととっときゃよかった。あーあ。どれもこれも全部アンタのせいだ。

 

あたし達は二人で夕飯を食った。少し冷めたボソボソしたパスタと溶けかけのジェラートを食った。美味かったけど、味の良し悪しを聞かれたって困る。あの人と一緒なら、それで全部よかったことになる。何でもいいんだ。ホントに何でもさ。

 

おやすみなさいと彼が言い、おやすみとあたしが言って、違うベッドで寝た。今度からは、同じベッドで寝たいと思った。あたしのマットレスだけが特別冷たくて硬いなんてわけないのにな。アンタのとこは柔らかくて暖かそうに見えた。上等な寝具に負けて、あたしはいつの間にか眠っていた。

 

 

 

 

夜中に彼の手が頭に触れたことに、レヴィは気が付かなかった。彼に撫でられて、眉間に寄った皺が解けていたことも。

 

 

 

 

 

 

次の日もロニーに会った。この日はフェリーに乗って島に行って、そこで評判のレストランに案内された。ご馳走が沢山出されて、魚介が多かった。

 

恰幅のいい、いかにもイタリア人という感じのオーナーはロニーの知り合いらしく、あたし達はそこでしばらく過ごした。朝飯と昼飯を一緒に食って、それからエプロン姿のオーナーからメニュー表を渡された。

 

「もう食えねぇよ…」

 

そう言えば、彼にも聞いてみてくれと言われた。

 

「オーナーがもっと食えってよ」

 

彼にメニューを手渡したあたしは、おとなしく彼が次のメニューを選ぶのを待った。

 

その隙にレモネードだとか、さっぱりした飲み物が出されて、オリーブオイルのせいで胸焼け気味のあたしはそいつをガブガブ飲んだ。

 

「なあ、どっかいくのかよ、スーツなんて着直してさ」

 

彼が立ち上がった。メニューはいつの間にかなくなっていて、店内にはオーナーとロニー、あたし達以外は誰もいなかった。やけに静かだと思った。

 

彼は何かをロニーに耳打ちすると、手洗いだと言ってテーブルから離れた。足早に向かった店先には、ロニーが運転する車がつけてあった。冗談でも下手だな。どこまでトイレに行くつもりだよ。

 

オーナーからもここで待つように言われて、あたしが食後のデザートを貪りながらボーッとしていると、暫くして、彼がシャツ姿で戻ってきた。

 

「スーツはどうしたんだよ?」

 

あたしが聞くと彼は肩をすくめた。

 

泥が跳ねて、なんて。明らかな嘘だ。彼は砂浜を歩いたって砂粒一つ靴の中に入れないような人間だ。並の人間なら想像するだけで実際にはどんなに努力を重ねてもあり得ないことが、この人なら当然であり日常の中のありふれたものに過ぎないのだ。だから、私はピンときた。

 

「どうせ仕事だろ?」

 

あたしが言うと、さっきまで陽気で優しげに見えていたオーナーの目の色が変わった。彼は困ったような笑みを浮かべて、それからデザートと薄いコーヒーを頼んでいた。

 

夕暮れ前にレストランを出た。帰る頃にはオーナーも元通りの、いやそれ以上の上機嫌であたし達を見送った。

 

後から聞いた話によれば、あれがロニーのボスらしい。車の中でロニーはずっと彼と話していた。内容は背広を台無しにしたことへの謝罪だった。話を聞く限り、何がとはわからないが、ロニーはヘマをしたらしい。そしてどうやってかは皆目見当がつかないが、彼が咄嗟に背広を犠牲にしてロニーの命を救ったらしい。

 

彼は当然のように笑って言った。背広くらい安いものだ、と。ロニーは酔ったように顔を赤くして、首を縮めて恥じ入っていた。いや、照れ臭かったのかもしれない。

 

帰りはフェリーに乗ることなく、自家用機で本土に戻った。オーナーのご厚意というやつらしかった。

 

結局帰りの便までロニーに世話になった。あたしは何となく、あいつとはまたどこかで会いそうな気がした。

 

なんだかんだあったけど、イタリア旅行は楽しかった。なにせ隣には彼がいた。たまに仕事で消えちゃいたが、それでも学校に通っている時よりも長く一緒にいられた。料理の味とか、景色とか、そのうち忘れちまうだろうけど。彼と二人で、一緒に行ったことだけは忘れないだろうから。あたしはそれで満足だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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