彼に拾われてすぐの頃だ。レヴィは覚えていないけれど、一度だけ彼に聞いたことがあった。
彼の仕事について、また彼が自分を拾った理由について。
彼は自分の仕事を帳尻を合わせることだと語った。悪い人には悪いことをするし、良い人には良いことをする。この場合、よいというのは好いという意味も含まれていた。
とはいえ、白状すれば、糧を得るためなら何でもやってきた。暗殺と仇討は専門だったが、専門外の人質救出や要人護衛もこなした。その全てを達成してきたから今があること。そのことに対して、ある種のプロフェッショナル意識、誇りのようなものを抱いてしまっていることは、確証のない事実だ。
だが、同時に誇りだけを持ち、何をも顧みることなく気高く生きることは彼の美学に反した。彼にとって、殺しとは生業である。得意なことである。唯一、彼が一番になれることだった。
けれども、殺しは殺しだ。
人殺しはどんなに弁明しても人殺しだった。たとえ仇討だと言っても、どんな極悪人を依頼で殺しても、そのことでどんなに感謝されても。悪党の血で手は洗えない。汚れは拭えない。彼の手は汚れてしまっている。そのことに、恥入りながら生きる日々だ。恥を忘れてしまえば、あるいは殺しを愉しむようになってしまえば、もはや彼は彼を殺したも同然だった。それはとても恐ろしいことだった。
彼の手はカサついている。何時も何時も。それは執拗に手を洗うからだ。朝起きて手を洗うことに始まり、朝食前に手を洗い、昼食前に手を洗い、夕飯前に手を洗い、レヴィを抱き締める前に手を洗う。日常と非日常の境目を跨ぐために、彼には必要不可欠な儀式だった。彼が信じる神はいない。だが、彼を信じる人がいる。故に、それは神聖な儀式なのだ。
彼はレヴィを拾ってから、もう何年も長期依頼を受けていなかった。時折出張にこそ出向くが、それもレヴィ同伴で、尚且つ彼女の学業に支障が出ない期間で終わらせられるものだけだった。それでも彼の仕事は山ほどあったし、日本での仕事も常に予約でいっぱいだった。
…逆を言えば、彼が短期間で終わらせられない仕事などほとんど存在しなかった、ということの証左でもあった。
仕事量自体は以前と変わらず、土日は家で過ごし、週五日を使って次から次に依頼を捌く手際は見事としか言いようがなかった。何も殺しの依頼だけではなかったが、彼が殺し以外の依頼を請け負うには、それ相応の特別な理由が必要だった。関係性と情も。
だから、日本に来てからも、国内での仕事を日帰りでこなして必ず夜には家に帰った。家に帰れば、よく手を洗って、風呂にも入ってからレヴィのことを抱きしめる。レヴィは彼が帰ってくる頃に合わせて風呂に入る。いつの間にかそうなっていた。だから、レヴィを抱き締めると彼と同じ匂いがした。それはレヴィが彼を抱き締めたときも同じで、むしろ彼女の方が強く意識していたことだった。
彼は無闇に惨たらしいこと、無闇に悍ましいことは美学に反すると言って、誓ってやらなかった。彼の中に引かれた一線を越えない仕事を選んでこなし、一線を越える仕事は代案を提示して請け負った。
彼は実に勤勉で、真摯で、同時に冷徹だった。理性が強すぎると言い換えてもいい。彼は自分が論理的に納得できない仕事には、たとえ死んでも請け負わなかった。そこにも例外はあって、金払いがよく、かつ悪党同士の殺しであれば時たま請け負うことがあった。逆に、金を受け取らずに、仕事だけを請け負うこともあった。これにもまた、それ相応の信頼関係と情が必要不可欠ではあったが。
仕事について、ぼかしながらも嘘を言わずに話し終えたことに彼は安堵していた。それから、レヴィを見た。
二人はダイニングを囲んで椅子に座り、真正面から向き合っていた。ダイニングテーブルの真上から暖色の電球が二人を照らしていた。テーブルの上では彼がレヴィに用意したミルクティーが湯気を立てていた。彼は自分用に用意したグラスを手に取り、冷たい水を一口含んだ。レヴィはカップに両手を添えて、その熱を感じ取るように指が忙しなく動かした。
しばらく沈黙が降りて、レヴィの目に力が入ると、口の端を引き締めて、それから彼女が口を開いた。三白眼がドロっとした視線を彼に注ぐ。対して、カパッと開いた口元から覗く白い歯が眩しい。口角を上げて、挑発的な笑みを浮かべていたが、手も指も、湯気の立っているマグカップからは離さなかった。
「それで?なんだよ、幻滅されるとでも思ってたのか?こちとら、端っから知ってたんだが?目の前で、道具をぶっ放してんのだって、あの時以来見てねぇが…逆を言やぁ、最初から黒なのは知ってたんだよ。最初っから、そうじゃねえか」
レヴィは鼻で笑い飛ばした。声は大きくなかったけれど、はっきりと聞こえた。それは聞かせるための声だった。それから、笑みを深くして彼の方に声を張った。今度は、彼に届けるための声だった。
「考えてもみろ!あたしはアンタに拾われて、今日の今日までイイ思いしてきたんだぞ?あたし、アンタが思ってるよりも幸せだからな?アンタのおかげなんだわ。それに、そうだよ、あの日、あたしとアンタが出会した日さ、あの日、もうあたしは見てたじゃんか。見ちゃいけないもん、見ちまったから、だから、ここにいんじゃねえのか?もう、ずっと長い間、一緒だったろ?だからさ、別に…いいんだよ、んなことはさ」
そこまで言うと、レヴィの言葉は尻すぼみになり、ちょぼちょぼと口が閉じていった。ぼそぼそ口籠もり、自分で自分が、ずっと意識しないように、見ないように、考えないようにしてきたことにぶつかってしまったことに気がついたのだ。
レヴィは俯きそうになり、彼の心配そうな顔に気づいて持ち直した。それでも伏し目がちに彼を見ると、マグカップに視線を落とした。ミルクティーは濁っていて、レヴィの顔が今どんなものなのか映して見せてはくれなかった。
彼はレヴィの肩に手を伸ばそうとして、でも躊躇しているようで、のろのろと腕が伸びてきた。特別ゴツゴツしているわけでもない、綺麗な手だった。
でも、大切にされてきたレヴィの手の方が何万倍も綺麗な手をしていて、手でそれなのだから、彼にとってレヴィは綺麗の塊みたいなものなんだろう。
宝石に触るわけでもあるまいに、とレヴィの頭の中に、らしからぬ言葉が浮かんで沈んで。ポーッと頭の奥で湯が沸くような感じがしたので、変な空気を断ち切るように、遅遅として辿りつかない彼の手をレヴィの方から引っ張った。頬。彼の手首をレヴィが掴んで操作してやる。
「どうだ、アンタの大好きなレヴィ様の頬は。気持ちいだろ?」
彼が何度もウンウンと必死に頷くので、レヴィの方が唸ってしまった。彼の指先が、宝石を磨くように繊細な動きでレヴィの頬をくすぐった。クソぅ、やっぱりダメだ。レヴィは彼に弱くて弱くて。堪らず俯いた。顔は真っ赤だろう。彼の顔は優しさに満ちた、穏やかなものだろう。いつもと同じでいてくれるだろう。いつもと同じあったかい目で、あたしのことを見ているだろう、と。
レヴィはすっかり絆されていた。そして、そのことに安心して、満足して、幸福を感じていた。
ふと、思い出した。
レヴィは語り出す。ぽつぽつと。
「どうしてあたしだったんだろうな、あんなガキ、どこにだっているだろうに…替が効くもんだろ?なのに、どうして拾ってからも、ずっと一緒に暮らしてくれたんだろうな、どうしてそんなに優しぃんだよ、どうしてそんなに、甘やかすかな、そんなに大事か?そんな、大層なもんじゃないけど、いいのかな…」
レヴィは答えなんか求めてなかったのに、彼がハッキリと肯いてしまったせいで、聴かずにはいられなくなってしまった。何も確定させないまま、今のまま揺蕩って、ずっと二人で暮らしていくのも悪くない。むしろ、最高だ。幸せだ。気楽に流されることさえ肯定し合うことができるだろう。
でも、彼はレヴィに聞いてもいいよと言う。彼に気負った様子はない。大した話じゃないよ。当然のことだとでも言うみたいに。今更なことなのかもしれない。
ずっとずっと、それこそレヴィの人生の半分近くは既に彼との思い出で構成されていた。彼と一緒に積み上げた時間が、レヴィが信じるに足る、しっかりとした足場になった。揺らがぬ基礎に支えられて、レヴィは少し背伸びをした。
「ハッ……よくわかんねぇよ…でも、なんかさ、理由あんだろ、理由あんなら、聴かせろよ、いや、聴かせてくれ…うん…アンタの口から聴きたいよ。安心したいんだ……」
わかった。
彼はそう言ったような気がした。極端に無口なわけではないが、彼の語りは朴訥だ。だから、耳を澄ませた。聴きこぼさないように。その言葉の一つ一つに込められた熱を、レヴィ自身がしっかりと受け止められるようにと。そして、彼は語り出した。
彼は語った。
彼の話は途切れ途切れだった。
話の内容は、二人が出会った日の朝から始まった。
まだアメリカに住んでいた頃の話だった。
いつも通りの朝だったこと。寝起きにトイレに行き、それから入念に手を洗い、顔を洗い、朝食を流し込み、歯を磨いて、それから身支度を済ませたこと。
黒尽くめのスリーピースに着替えると、ネクタイを締め、薄っぺらい金の腕時計を巻いて、灰色のコートを羽織り、ポケットをまさぐって、カーキ色に染められた革手袋を手にはめて、マフラーを巻いて、灰色の帽子を被ったこと。
仕事に使う鞄を手に持って玄関に向かい、いつも通りの履き慣れた靴に足を差し込み、それから泊まっていたホテルを出たこと。
曇り空だったこと。迎えの運転手に礼を言い、目的地まで向かったこと。
あの日、レヴィが路地裏で見たもう一人の男、高価な青いスーツを着て地に伏していた男がこの日のターゲットだったこと。
「そいつ、どんな奴だったんだ?」
その男のことも、レヴィは聞いた。彼は記憶を探ると、依頼の経緯から話し始めた。
まず、その依頼が来る以前から青いスーツの男は有名だった。マフィアやギャングとつるんで、間接的な脅しを巧みに使って金を稼いでいた。流れが変わったのは少し後のことで、その男が大きなマフィアと手を組んで土地転がし…不動産業界に参入したのが始まりだった。
青いスーツの男は安い土地を買い漁って、これを高く売りつけて富を成した。誰も住んでいないところも、誰かが住んでいたところも、だ。誰かが目的の土地に住んでいようものならば、そいつを追い出してまで。
その手口は陰湿なもので、直接的な犯罪とは見做されないような、マフィアとの繋がりを仄めかしたり、隠語を使って暴力を背景にした脅しをかけると言ったものだった。
追い出された人は、いわゆる社会的弱者である。もとより保障もない国だ。被害を訴える方法も知らなければ、警察も当てにならなかった。
バタバタと死んでいった。首を吊ったり、凍えて死んだり、飢えて死んだり。
そうした人の中に、よりにもよって協力していたマフィアの構成員の親戚がいたらしい。そんなものは口実で、ただ影響力を強めた男を消したかったのかもしれない。
いずれにせよ、彼の電話が鳴った。依頼内容は男を一人消すこと。報酬は十分。下調べを済ませてから、彼は依頼を請け負った。
だが、向こうで不手際があったらしい。件の男が逃亡したのだ。逃げると言うのはよくあることだった。姿をくらませても、彼から逃れることなどできない。
彼はあっさりと、スラムで着の身着のまま逃げ出した男を捕捉した。そして、時間をかけずにズカズカと追い詰めていった。
男の方には追い詰められている自覚などなかった。そんなものは感じさせなかった。彼は自然体でスラムの路地と路地を行き来した。風のように通り過ぎては、視線を巡らせて、気配を辿り、男の背中を視線の先に捉えた。
少し足音を鳴らしてやれば、男はすぐに早歩きになった。ふらりと寄り道をするように角に潜む。男が後ろを振り返るが、誰の姿もない。安堵のため息を吐いて、そっと男が路地裏に身を隠す。撒くつもり。隠れたつもりだった。
まんまと路地裏に自分から入り込んだ男は、袋小路の壁に縋った。コンクリートうちっぱなしの壁に背中を預けて息を吐いた。つい先程の違和感も忘れて、明日のことを考えていた。そこへ。
コツコツコツコツ…
ハッとして、顔を上げる。男が立っていた。灰色の街の薄暗い路地に溶け込む、灰色の男が。彼が。
男の体が跳ねた。撃たれたのだ。サプレッサーからガスの抜ける音がした。腰元の低さから繰り出される弾丸が、吸い込まれるように肝臓、肺、心臓をズタズタにした。引き金を引く音はしない。音もなく引き絞られ、弾が飛んだ。
二度、三度。
撃たれる。
撃たれる。
気がつけば倒れ伏し、何も思わずに虚空を見上げた。
壁には斑らに赤いものが飛び散っていた。赤いものが、分量を間違えた水っぽいインクみたいに垂れた。幾つもの筋を引いて。
路地を形作る黒ずんだ廃ビルが、黒い門のように聳えていた。隙間から見える雲の海。曇天は天国へと続いているのだろうか。天上界はあったのか、そこへと続く道は黒ずんで見えた。或いは、そこは地獄なのか。
チラリと光が差し込む。照らした先、かろうじて動く目で跡を追う。
そして見る。人影だ。
背の低い、スラムの子供だ。光を浴びる子供が男を見ていた。光の筋は彼の目にも、子供の目にも見えてはいなかった。
天使にしては汚らしい。
じゃり。靴底が擦れる音が響く。
あぁ、彼がいた。彼だ。鳩に餌を撒くように。予備動作もなく銃口が向けられた。澱みのない動きで。
ガスの抜ける音がまた空に溶けた。
トドメの三発。吐き出された薬莢が硬く冷たい地面と擦れて、チリリと鈴のように鳴った。
じゃり。スニーカーのソールが擦れる音がした。
誰かの後退り。
彼は顔を上げた。そして目が合った。
そこからの顛末は、二人だけが知っていることだった。
レヴィは逃げて、彼が追った。追われたレヴィはもがく暇もなく捕られてしまい、気がつけば執われていた。
今もだ。今も、彼に執われている。ずっとずっと執われている。
二人でホテル暮らしを始めた。彼はレヴィによく気をかけた。レヴィは与えられるばかりで不安になった。だから時折盗みを働いた。その度に、彼は出向いて平謝りをした。深く頭を下げて、申し訳ないと。彼がレヴィを諭すことはあっても、彼にレヴィが怒鳴ることはあっても、彼がレヴィを怒鳴ることは一度としてなかった。
彼はなんでもかんでも、一緒に体験していこうと考えていた。それは難しいことだったが、彼は彼が思っている以上に上手くやった。レヴィもまた、それによく応えてくれた。
彼がレヴィを見捨てることも、放り出すこともないとわかると、彼女は素直になった。彼に素直に甘えるようになっていた。盗みもやめて、二度としないと決めた。そして今日まで、その誓いは守られている。
それから、レヴィは付きっきりで色々なことを教えられた。彼は教養人で、何ヶ国語も読み書きができ、話すことも出来た。その中には日本語もあって、彼はレヴィに日本語を教え込んだ。レヴィは綺麗な日本語を学ぶ傍らで、汚い言葉遣いが直らないかと色々試してみたが、咄嗟に出てくる言葉は変わらずぶっきらぼうだった。
でも、それだって彼の前でだけだ。外での自分は少しは整った言葉遣いが出来ていると、当のレヴィには自信があった。
そして、日本に引っ越した。彼が安全な場所で暮らすことを望んだからだ。可能な限り安全な環境で、レヴィが成長することを望んだからだ。けれど、成長を望む彼と、成長を望まれている彼女、二人の間の関係性はずっと変わらなかった。何も決められていないし、何も確かなものなどなかった。二人の間には血の繋がりもない。契約書のやり取りもない。誓いの言葉だってなかった。
だから、レヴィは不安だった。彼もまた、不安ではあったのだろう。けれど、彼の中にも戸惑いがあり、それと同じくらいに説明できない強い自信のようなものがあった。自分がレヴィを蔑ろにしたり、捨てたりすることはできないんじゃなかろうかという確信があった。彼が彼であり続ける限り、二人の日常が壊れる、その日は決して来ないだろうとも。
互いに、今が心地よくて、だからいつまで立っても先延ばしにしてしまった。だから、数年経った今、その理由を聞かれることはレヴィがそれだけ成長したって証で、だから彼は嬉しかった。すくすくと育っていた。少し寂しい気もしたが、それでも育ってくれた喜びのようが優った。元気でいてくれたら、何でもよかった。
彼はレヴィを娘だとは考えていない。レヴィはレヴィだ。レヴィもまた、彼を父親だとは考えていない。彼は彼だ。二人にとって親というのは余り立派な役割ではなくて、だから、世界に一つしかいない特別な役割を、その特別な関係性を、大切な人の名前で代用することにした。彼はレヴィをレヴィと呼び、彼女は彼をアンタと呼ぶ。二人には欠けたところしかなかったけれど、お陰でピッタリと嵌った。隙間なんかないほどピッタリと。
彼はそこまで話してから、そう言えば肝心の理由を話していないことに気がついた。レヴィはもう何も心配なんてしていなかったし、それが表情に表れていた。誤魔化そうと思えば誤魔化すこともできるだろう。けど、彼はそれはしないことにした。
冬の汗の匂いがしたのだ。
彼はそう言って、水を口に含んでしまった。コップに残っていた量が多くて、リスのように両頬が膨らんだ。プクッとしたほっぺに、レヴィが吹き出す。
「ブフッ!ちょ、笑わせんなよな!大事な話しだってのに…それで、なんだって?冬の汗の匂いがどうしたんだよ…」
彼は水を飲み込まず、頬を染めた。恥ずかしいので、話したくないらしかった。レヴィに甘い彼にしては強情だ。
「ダメだぞ。話してもらうからな?あたしを安心させてくれるんだろ?ほらほら、頼むよ、早く早く。アンタの口から聴かせてくれよ。あたしの汗の匂いがどうしたんだよ?」
彼は水を飲み込んだ。そして、手で顔を覆った。意を決して口を開こうとして、先にレヴィの手が伸びた。顔を覆っていた手が取り払われる。手首を掴まれた。頬を包めという訳だ。
「アンタの手はここだろ。それで…なんで、なんだよ?」
彼は少し俯くと、なんとなくだ、と言った。
「はぁ?」
だろ?とでもいうように、彼が体を揺すって座り直した。モチっとしたレヴィの頬が手に吸い付くようだった。
「…それで?もっと、なんかあんだろ?将来役に立ちそうだな、とか…そういうアレ」
レヴィが微妙な顔で言った。が、彼の答えは変わらない。
なんとなく。ホントになんとなく。
「憐れだったか?悲しくなっちまったのか?それとも、そういう気分だったとか?」
それだ!
彼は気分だと言った。
「ははは…期待して損した。いや、でも…なぁ、今はどうなんだよ…ずっと、そういう気分なわけか?続くもんか?そうそうさ…」
彼は首を傾げた。もう、気分とか関係なくなってるんだよ。彼の普通、彼の日常。そう言うものにすっかり溶け込んでしまっていることに、レヴィは気がついた。
自分だって、彼がいるのが当たり前になって久しい。いてもいなくてもとか、考えたこともなかった。居てくれることが当たり前になっていた。
それはきっと彼も同じで、だからレヴィの頬は真っ赤になった。
「ちょ、見るな、コラ」
彼の温かい目が、今はバシバシと痛みを感じるほどだ。いつもは嬉しいだけなのに。
顔を隠そうとして、隠すことが許されなかった。彼の手が、柔らかくレヴィの手首を撫でていた。よしよし。口にこそ出さなかったが、彼はそう言う手つきだった。サラサラとした手の感触、それからじんわり熱い彼の体温。
いつもは冷え性のせいで指先まで冷たいのに、それを温めてやるのがレヴィの楽しみなのに。レヴィはそういう、沢山のなんとなくがグルグルと頭の中を巡り、それからゆっくりと心臓に届けられたように感じた。キュウっと胸が締め付けられた。
だから。
「まぁ…うん…しょうもない理由だってこた、わかったよ」
「でもよ、アンタがあたしにくれたものは、どれもアンタにしか出来ないことじゃなかった。だけどよ、それをあたしに与えてくれたのは、後にも先にもアンタだけだ。そこんとこ、自信もってくれてもいいんじゃねーか?」
あたしもアンタのそう言うものになれたらいいな。なんて。
冬の汗の匂いがしたのだ。
背後からレヴィの歩みを止めるために抱きしめた時だった。
あの乾いた汗の、香ばしくて甘酸っぱい匂いが。
彼は、どうしても居た堪れなくなって、胸が締め付けられて、それで、なんとなく繋いだ手を離すことができなかった。
何となく繋いでしまった。何となく差し出してしまった。差し出したら取られてしまった。
もう、その瞬間にレヴィは彼の胸の中に飛び込んでしまっていたのだ。彼の日常の中に、風穴を開けて、そこをレヴィ自身の存在で埋めてしまったのだ。驚くほどピッタリと嵌ったそれは、祈ったって取り外せそうになかった。そして、彼もレヴィも、神に祈ることはないのだ。
手袋を外して、冷たい手を差し出した。その手をレヴィは取った。レヴィの手が温かくて、彼には心地よかった。思わずにぎにぎしてしまった。有難い熱に浮かされて、彼はレヴィの手を引いて歩き始めた。この熱が冷めないように。冷え切ってしまう前に。もっと、ずっと、触れていたい。だから。
彼はレヴィの歩調に合わせて歩き、彼女の息が切れてしまわないように、汗をかいて、かいた汗が冷えてしまわないように気を配って歩いた。
ホテルについてから、入念に手を洗い、レヴィを風呂に入れて、自分も風呂に入って、それから一緒に食事を摂った。
誰かと食事をするのは初めてではなかったが、レヴィのような子供とは初めてだった。目つきが悪いのに、食事にありつくとすぐに潤ったように見えた。間に合わせとは言え、買ったばかりの服も似合っていた。
気がつけば、自然と頭を撫でていた。誰かの頭を撫でるのだって、初めてじゃなかったが。目を丸くして、また鋭い目で見つめられる。悪くない。目つきが悪い人ばかり相手にしてきたから、別になんてことはなかった。可愛らしいな、なんて。
でも、嫌がることはしたくないから、すぐに手を離した。離そうとして、出来なかった。レヴィが彼の手首を掴んでいた。触れる。フォークやスプーンを置いて、皿とグラスを脇に避けて、手で触れて、頬に触れさせて。思い詰めた表情をしてから、そっと離された。
だから、今度は彼が、ちょっと強引に頭を撫でて、それから頬を摩った。肌の上を滑らせるくらいの弱々しい手つきだった。
彼は、汚れが取れた、なんて言った。
言い訳なんか聞いてないのか、レヴィはボーッとして、それからまた食べ始めた。食べ方が汚かったので、これからはそのことも教えていこうと彼は思った。箸の持ち方とか、ペンの持ち方とか、食事中に肘はつかないとか…そういうことを、できるだけいっぱい。ゆっくり教えていこう。勿体無い気がするから、一つ一つ大事に教えていこう。そう決めて、ご飯を食べた。少し早く食べ終わった彼は、レヴィが食べる様子を熱心に見守っていた。レヴィは食べているところを見られて、なんだか面映かった。
歯磨きをして、パジャマに着替えさせてから、レヴィをベッドに寝かせた。寝る前に、頭をサラリと撫でてみる。肩に手のひらを当てて、温度が伝わるように、ゆっくりと撫でた。
どう頑張ったって、彼にしたってわからないことだらけだった。彼とレヴィの境遇は、彼の生業が殺し屋だったこととか、生まれた場所とかを除けば大体一緒だ。あまり楽しい話じゃない。
普通、人は自分がしてもらったことしかできないけれど、彼は自分がしてもらえなかったことをレヴィにしてやりたかった。
だから彼は、自分がして貰いたかったことをレヴィにした。自分がして貰いたかったことを、余すところなくレヴィに注ごうと決めた。
レヴィが今日この日まで、必死に受け止めてきた生き様を他ならぬレヴィ自身が肯定できる日が来るように、艱難辛苦を忘れられるように、無理に忘れなくてもいいように、矛盾ごと抱きしめて受け入れることができれば…そんなことを考えていた。今も尚、考えていた。
彼は手が震えないように意識しながら、優しく優しくレヴィを撫でた。頭とか、肩とか、背中とか。そうこうしていると、うとうとしてきたレヴィが彼に身体を預けようとする。
でも、彼は受け止めた瞬間に砕けやしないかと咄嗟に怖くなり、ベッドの方に誘導して、そのまま寝かせた。ベッドサイドから立ちあがろうとして、手が繋がっていたことに気がついた。体温が馴染んで、溶け合っていたせいで、すっかり忘れていたみたいだ。
彼はレヴィの眠るベッドが傾かないように、ベッドの脇に跪いて、彼女の手を大事そうに両手で包むように握っていた。目を瞑り、耳を澄ませた。レヴィの安らかな寝息が聞こえてきても、彼はレヴィの手を離さなかった。