下請けの原理というものがある。
面倒臭いことは、どうでもいいモノにやらせよう、というものだ。
それはいつの時代、どこの国でも同じようである。
ルマジュールという名前の女がいる。フランス語の響きをもつこの名前に、大した意味などない。「中指」という意味である。それ以上でもそれ以下でもなかったが、一歩日陰の道を歩くと話が変わってくる。
フランス国内外で働く便利屋のような仕事を彼女はやっていて、その仕事内容は荒っぽいものが殆どだ。
常に四人の仲間がいて、五人で一組。「五本指」だとか呼ばれている。この集団にも本来は名前以上の意味などないのだが、日陰の道ではそこそこ名の通った集団だ。
女だけで構成されている、戦隊ヒーローみたいな組織だと言えば聞こえがいい。特に日本人の心には刺さるだろう。お色気あり。一話限りのロマンスあり。美しい女優を起用して、若手俳優扮する黒一点のお助けヒーローとの甘酸っぱい展開を演出するのも悪くない。
だが、違う。二つの組織の共通点は、非合法だという点だけだ。
憧れの対象?違う。そんなもんじゃない。
悪を成敗する秘密組織?違う。戦隊ヒーローみたいに世界の闇と戦わずに済む代わりに、現実的な脅威とか、国家にとって不都合な存在と対峙しなくちゃならない仕事だ。
死ぬ。簡単に人が死ぬ。復活もなし。
オマケに構成員には悩む暇も与えられない。自分のやってることに葛藤を抱くことは贅沢なものなのだ。常に死と隣り合わせ。だのに、やってるこっちには選択肢などないのだ。秘密保持の為に殺されては、お笑い種にもならないだろう。それこそ、誰にも知られることなく葬られることになる。
人格を持つだけで、牛や馬に鞭打って労働させるのと何ら変わらない。いや…それは違うか、彼女達は言葉を話せるし、痛い思いや辛い思いをすれば、多分、まだ涙も出るだろう。涙を流さなくなって久しい気もするが、出す必要に駆られれば出すだろう。
ここで、改めて。ルマジュールという女がいる。
彼女は小柄な女性だ。兎の垂れた耳のように、髪を結わってツインテールにしている。目つきは悪いが整った顔つきをしていて、生まれは日本だ。彼女の身体にはだいぶ濃い割合で日本人の血が流れている。日本語も話せる。日本人は幼く見えるらしいから、背丈の低さも相まってまだ少女のように見える彼女も、実はそれなりの年齢なのかも知れなかった。
そんな彼女も、一線を越えた自分を再定義する何かを持っていた。何歳の頃かは定かではないが、身体に墨を入れていた。タトゥーではない。和彫の刺青である。肩を大胆にさらけ出す服を着ると、彼女は一転して妖艶な魅力に溢れた女性に変身するが、同時にそれは日向の道、表の社会に対する隔意を象徴した。どちらの世界に住んでいるのか、彼女が肩を出すと、それがありありと示された。
姿見に映る裸体を視界に収めるたびに、彼女は自身が立っている場所を再認識する。身体に刻まれた細緻な和紋は、過去に彼女が自らの生まれ持った神聖な身体を改造する行為を選択した結果だった。
それは時に、冒涜的な意味合いを持つ。時に、後戻りのできない状態に追い遣るという意味合いを持つ。
故に、刺青を刻む行為には覚悟が表現される。彼女の場合、いずれの意味合いを持つのか。
それは彼女自身が胸にそっと留め置くことだった。
五指の中の中指として、彼女は様々な仕事をこなした。仕事は命令だと言い換えてもいいが、非合法であることを踏まえても、彼女のことは歴戦の仕事人であると形容して差し支えないだろう。
だが、しばしば、日本人的な感覚でいうところの仕事人として彼女のことを解釈しようとするのは、彼女が置かれている状況を正確に理解する上で致命的な誤解を招きかねなかった。
彼女は仕事人ではあった。あったが、その仕事は決して彼女が熱望して得たものでも、また崇高な理想や確固たる信念をもって遂行されるものでもなかった。
繰り返すが、彼女は、彼女たち五指は、自分たちが替えが効く、便利な消耗品にすぎないことを理解していた。
少なくともルマジュールは理解した。
つい先日、最新の案件で仲間を一人失い、悲しむ間も無く新たな仲間が追加されたからだ。
いや、それは戦隊モノに登場する追加戦士などではない。追加ではなく、補填であった。足りなくなったから、在庫を出したまで。席が空いたから、次はお前が行け、だって補欠だろ。と、そういう訳だった。
過不足なく、淡々と示された現実は、ただでさえ立ち込め始めていた懐疑の念を加速させた。ルマジュールは自分の仕事に疑念を抱いている。虚しさの向こうには、何もなかったことが既に示されていたからだ。このまま行き着いたとして、死の先に一体何が用意されているのか。勲章もなし、遺産もなし、補欠の出番が一つ巡るだけだった。
ルマジュールはそんな胸のしこりを誤魔化すように、新任のロリキュレール…小指…との初顔合わせに向かった。
そこで、彼女は実に一年越しに彼と再会したのだ。
彼と初めて会ったのは、彼女が中指になった時だった。自分に補欠の番が回って来た時のことを、ルマジュールは思い出していた。
彼は「五指」のことを美の女神達、ムーサイのようだと誉めてくれるが、彼女に言わせれば、ドロドロに濁った目をして、深淵で溺れる間際に、微かに残った理性でよすがに縋りつく、狂った女達の成れの果てにも見えた。
狂っているのに気づいていないのか。正気を保つための、最後の砦が彼なのか。いずれ自身も、ああなるのか。残りの四指の執着を一身に集める彼を前にして、新たなルマジュールはそんな事を思っていたのだ。
その日は便宜的な歓迎会のようなものだったが、同時に組織の連帯感を強めるための儀式でもあった。
早い話しが、彼に抱かれろというわけだ。
誰も明言はしなかったが、他の四人の目がルマジュールの身体を値踏みするように絡みついていた。そこには羨望だとか、共感だとか色々な感情がない混ぜになっていたように思われる。
彼の方はと言えば、ルマジュールの視線に気づいて小さく手を振る始末だ。一々、ムカムカする仕草だ。彼には少しも緊張感がなく、素直にルマジュールを歓迎しているように見えたからだ。彼がこぼす笑みの中に、嫌らしさや邪気を見出そうと躍起になるルマジュールに対して、彼はどこまでも自然体だった。殺し屋五人に囲まれて美味しそうにご飯を食べられるなんてどうかしてる。そう思った。
粘つく視線は、明らかに同性から注がれるものしか感じられなかった。
いやいや、そういうのは男の方がするもんでしょ、とか。
竿姉妹になって仲良くやりましょうだなんて、とか。
それでいいのか、とか。
…バカバカしい、だとか。
その時の彼女は随分と醒めた思いを心の中でぼやいていた。取り止めのない考えが浮かんでは消えた。
歓迎会と言い張るくらいだから豪勢な食事が出た。味などすっかり忘れてしまったが。何せそれどころではなかったのだ。ルマジュールの視線は彼に釘付けだった。他の四指と歓談する彼。しなやかな腕が身体に絡みつき、手が太腿に這い、酒臭い息が耳に掛かっても、彼はどこか妙に初々しくて、見ているこっちがもどかしくなるほど、いじらしかった。まるで慣れというものが感じられなくて、それでいて色っぽかった。誘蛾灯へと誘われる蝶々のように、ルマジュールを除く四人の席は彼の方へと自然と寄っていった。ルマジュールはと言えば、縁の淵まで連れ去られる一歩手前といったところだった。
彼のお行儀は悪くなかったが、日本のファミリーレストランで食事をするような…日本の一般庶民、普通の人の作法そのまんまだった。テーブルマナーというよりは、お行儀のよさといった具合。日本では新しくもない。日本では珍しくもない。
けれど、フランスでは嫌に目立った。ぎこちなくナイフとフォークを使うところも、ワイングラスの持ち方も、何もかもが異質に見えた。
日本で生まれて、日本を知っているルマジュールから見たときに、どうして異質に見えるのか。ルマジュールの思考はいつの間にか、軽蔑や嫌悪から、好奇と関心へと移っていった。
そんなルマジュールに彼以外の全員の、四指の視線が集中していたことにも気づいていなかった。きっと、彼の鮮やかな手口に翻弄される新入りのことを、同情と共感を込めた瞳で眺めていたに違いない。彼には自覚がないと知った上で。
歓迎会が終わるまで、ルマジュールは彼と一言も言葉を交わさなかった。だが、歓迎会が終わる頃には、彼に対する嫌悪はさっぱり居なくなっていて、代わりに強い興味だけが居残っていた。
「あの、ちょっといいっすか?話したいことがあるんで…えっと、部屋とか来てもらっても」
そそくさと席をたち、部屋の入り口で事の次第を見届けようと屯する四指の視線が背中に刺さっていた。わかってる。だからそんなに見ないでくれ。ルマジュールの声は届かなかったが、彼が視線を遮るように彼女の肩を抱いた。
「へッ…?」
浅くもなく、深くもなく、違和感を感じさせない肩の抱き寄せに、ルマジュールは呆気に取られた。力の入れ加減まで完璧だった。ふんわりと馴染んで、それでいてルマジュールのことを決して離さない。慣れた技術ですらなかった。ルマジュールは彼のもつ天性の包容力に反応できず、促されるまま部屋を出た。部屋まで案内する間も、互いに一言も発さなかった。彼の手が、彼女の肩から離れることもなかった。
「あ、あの、日本語…わかりますか?」
部屋に入ってすぐに、ルマジュールは背広を脱いだ。シャツとスラックス姿になって、靴も脱いでしまう。足に汗をかいていないか、変に意識してしまっていた。ベッドに腰掛けて、乾かすようにパタパタと足を動かした。殺風景な部屋に男女が二人きり。人が一人増えただけで、いつもの部屋が手狭に感じた。
「今は日本に?へぇ〜…そっすか、どうっすか?今の…えっと、向こうの景気は?」
彼が流暢な日本語で、最近の日本の話をしてくれるのをルマジュールは黙って聞いた。
「へぇ…そんなことが…えっと、どんな家に住んでるとか、聞いてもいいっすか?」
ルマジュールは饒舌だった。彼が一つ話せば、彼女が三つ聴くほど。彼女は何かに飢えていて、その飢餓感に衝き動かされるように彼から日本の話を聞いた。
「やっぱり朝は味噌汁とか飲むんすか?…粉末出汁とお湯と梅干し…それを白いご飯に?なんちゃってお茶漬けですか?美味しいんですか?それ…へぇ〜…今度、輸入品を扱ってる店から買ってこようかな…粉末出汁くらいなら見つかりそうだし…ふふ」
「なんか事件とかありました?こっちにも知られてるような、そういう、おっきい事件じゃなくて。もっとなんていうか、ローカル?なやつ…連続強盗っすか?ふぅ〜ん…なんか、そこらへんは国が変われど変わらないんすね」
「一軒家に一人だと、寂しくないですか?…あ、同居人が居るんだ…なんですか?犬っすか?猫っすか?…あぁ、同居『人』ですもんね…えっと、いい人ですか?…いい子、っすか…そう、ですか…なぁんだ」
そして、一通り彼の話を聴いた彼女は、飢餓感が癒える感覚と一緒に、一つわかったことがある。
「…味噌汁とか、卵かけご飯とか、もう何年と食べてない…」
それは、彼が異質に見えたのは、自分が…自分の方が異質だったから。ルマジュールは、彼の中に、彼の異質の中に、今の余裕も希望も褪せた世界ではどこを探しても見当たらないような、当たり前の日常を見出していた。日常だったものを見出していた。
なくしてしまったものを、彼女は取り戻したかったのだろうか。あるいは、前へと進み、現実へと対処するための機会を彼に求めたのかもしれない。
「あの…シないんすか?」
最後の普通はいつだっただろう。もう思い出せない。思えば、彼女が好んで日本の楽曲を聴くのも、強い郷愁の念から来るものではなかったか。懐かしいメロディーは日本の言葉で紡がれていた。
「初めて、です…はい…うううう…」
もう戻れない。元通りになることはできない。明日も明後日も今しかない。今この瞬間だけがある。過去は降り積もり、どう足掻いても手出し出来ないものだった。
「べつに、もったいなくも何ともないっす…ほら、どうせ、いつ死ぬかもわからないし…」
今の当たり前はなんだろう。もう随分と、そんなことを考える余裕もなかった。ただ、ただ、必死に生きて、殺して、生きてきた。虚しさを覚えて、新しいものが始まったかと思えば、今、過去に縋っている自分に気付かされた。
「…な、なんで、どうぞ、もう一思いにやっちゃってください…」
さあ、次はどうなる。
ベッドの上で身を固くしたルマジュールの心を見透かしたように、彼が彼女の隣に腰を下ろした。ベッドの重心が動く。天秤が均衡を保つみたいに揺り戻されて、自然とルマジュールの身体は彼に寄りかかる形となった。
「優しい、手つきっすね…慣れてるんすか?いや、当然か…そりゃ、あんなにベタベタされても受け流せるくらいですから…ハハ」
肩を摩られる。ゆっくりと、優しく。丁寧に時間をかけて解きほぐすように。まるで嫌らしさを感じない手つきは、やはり技術として身につけられるものではなかった。天然物は恐ろしい。抗いようがなかった。物憂げな表情まで完璧で、彼の横顔からは暴力的な色気が湧き立った。ルマジュールは自分の中にある母性本能のようなものと、女の本能のようなものが掻き立てられるのを感じていた。
「……あったかいっすね、手。緊張してるんですか?」
ルマジュールの胸がざわつく。自分でさえ動かせないものが、彼によって最も容易く動かされてしまった。体重を彼の方にかけてみる。彼は小揺るぎもしない。少し、互いの体が沈み込み、重なり合った。
「あたしっすか?あたしは…緊張してます、けど…」
互いのシャツとインナー、それから肌だけが壁となって立ち塞がった。隔てて、分ける壁は、けれども熱だけは奪うことができなくて。ルマジュールは唇を、気持ち尖らせてみた。気づくかな。気づかないかも。
「ンッ…ふぁ…んっ…ッ…」
揺らぐ余裕を与えられてから、息を吸い切る頃に、一息に唇を奪われる。
「んッ…ふ、フー…んふ…」
何の味かはわからないけど、甘い気がした。味なんてないはずなのに。軽いリップ音が立て続けに響いて、その響きに酔いしれた。いつの間にか、彼の手つきは摩るようなものから、愛でるようなものに変わっていた。手つきの奥に下心が見えたようで、ルマジュールは勝ち誇ったような気持ちが湧いた。
「ん…んふ…ふふふ…」
彼の唇の表面は乾燥していて硬かった。ガサついた唇でも、唇はやっぱり唇だ。ルマジュールの方から押し付けると、ちゃんと柔らかい。互いの唇の柔らかさを堪能してから、彼の舌が頃合いと見て歯の隙間から這い出してきた。蛇のようにそろりと歯茎を伝い、ルマジュールの舌に巻きついてきた。
「!?…チュ…じゅぅ…ちゅる…」
展開が早くて気持ちが追いつかないような、順調すぎて怖いような感じがした。嫌悪感が湧かないのも変な話で、ルマジュールは思い出したように身を捩る。が、彼は逃してはくれなかった。彼の手が肩を伝い、指先が彼女の首筋に伸びたかと思えば、的確に性感帯をなぞられて、否が応でも胸が高まった。
あ、このままだと食われる。
そう思った時には遅かった。
「うぁ…あ、ちょっと待って…待ってくださいっ…ふぁ、やぁッ…あ、ぅあ…」
首を甘やかす手とは別の手が伸びてきて彼女のベルトに手をかけた。でも、腰は浮かせなかった。まだ、まだ。ルマジュールはキスに夢中だった。忘れられるような気がして、想い出せるような気がして。だから、離れがたかった。
「ンッ…ぷぁ!ま、待って…ください…まだ、もっと…もっと、キスをください…」
ルマジュールの手は両方空いていたが、どちらも、今は彼の背中に回っていた。抱きしめると、受け流すように彼の力が抜けた。
「いじわるっ…ですね…」
焦らすのか、恨みを視線にこめてみると、タイミングよく彼の視線が下がるのとかちあった。彼がチラリと自分の肩のあたりを見たのがわかった。薄いシャツ越しに、和彫が透けて見えたのだろう。彼の目の奥に、情欲の火が灯ったように見えた。
「ふふふ…視たい、っすか?」
ルマジュールの目は悪戯げに歪んだ。熱を持った唇がやけに涼しい。見れば彼の顔が、彼の唇が見えるくらい遠い位置にあった。唇が離れてしまったと気づき、喪失感が胸を掻き乱した。
「…まだ、ダメっすよッ…あたしが、満足してないんで」
待って、行かないで。追い縋って噛みついた。もうとっくにふやけていたと思っていたけれど、彼の唇はまだまだ乾いていたようだ。
「んちゅ…ん、ん…ぷはッ…ふふ、鉄の味、しちゃってますね…ン…」
唇が裂けて、プツリと血が滴った。ルマジュールは、酒盃から甘露が溢れるのを受け止めるように、彼の赤い下唇を音を立てて下品に啜った。
じゅず…ヂュッ…ぞぞぞッ…
ルマジュールの目は潤み、悦楽に歪んでいた。彼の顔に、わずかに苦悶と、それから性感が浮かんだように見えて、ルマジュールは満足して、今度こそ腰を浮かせた。
「そろそろ、シましょっか…セックス…」
「あーあ…脱がされちゃいましたね…」
ベッドの上に無造作に放られたスラックスとパンツ。どちらも愛想のない代物だったが、日々使うものだから皺になるのは困るのだが、今のルマジュールはそれどころではなかった。
「ん…腕、重くないですか?…なら、いいすけど…意外と硬いですね…」
あれからすぐに、彼が彼女の体をベッドに押し倒したのだ。ご丁寧に頭の下に腕を敷いて。
彼の腕は、こうしてみると案外逞しかったが、それでもアメリカ的マチズモの要件を満たすとは思えなかった。
彼のそれは、頼りないように見えて、中肉で過不足のない、もっと憎いものだ。憎くて憎くて、心の隅で滲んで、ずっとずっとそこに遺り続ける、憎い配慮だった。
「…ん、まだ、ですか?ずっと、見てるだけで、満足なんですか?」
こうも容易く身体を許すとは。ルマジュールは彼にされるがまま、目を瞑って、すぐに開いた。本当に彼なのか。彼は本当なのか。穿った気持ちが湧いて、悲壮感が瞳に浮かんだ。視線の先には彼がいた。凪いだ瞳。優しい瞳をしていた。
「うッ…ちょ、キス、し過ぎ…っすよ…くすぐったいです」
ルマジュールの些細な変化に気づいたのか、瞼に、額に、頬に、何度も何度も唇を押しつけられた。熱を閉じ込めて、逃さないような優しいキスに、ルマジュールはひどく安心して、それで身を震わせた。
「ははは…もう、なんだか、なにも、わかんなくなってきました…気持ちいい、すね…」
何だか情けなくなって、虚しさが砕けて、別の何か、大事なものに再構築されるみたいで、ブワッと涙が込み上がってきた。目の端に力がこもり、身を揺すった。寂しさを振り払うように自分の下半身を見た。白い肌だ。所々に小さな傷が薄らと残っていた。それだって必死に生きてきた証だった。ルマジュールは不安になったが、不安を解きほぐすように彼の手が彼女の太腿を撫でた。
「…どうっすか?気に入って、もらえますか?」
手はしっとりと馴染んだ。肌理細かい肌が彼の体温を摂取したせいで酔ったように火照った。まただ。またゆっくりと、甘やかすように撫でられる。警戒心を殺されて、あっという間に本丸まで許してしまう。
「ひゃッ!?…ちょ、そこは、お腹っすよ…くすぐったいですから…」
が、彼の手がそこに触れることなく通り過ぎ、窘める様にルマジュールの腹を撫でた。身を捩る。くすぐったかった。ふふ、と声が漏れる。自然と口角が上がる。そして、ルマジュールは彼の背中をトンと叩いた。
「…もう、イイですよ…」
彼の背中を押した。もう大丈夫、と。
「大丈夫なのに…意外と、心配性なんすね…」
まず彼の指がルマジュールの腹をもう何往復かして、それから彼女の秘処に触れた。
「ンッ…ッ…ふぅ…ふふ、指先、中で、動いてますね…うわぁ…ぁっ…」
彼の指先は巧みだった。まるで拒絶感を覚えさせずに、ただ快感と、あったかい感触だけをルマジュールの奥に届けた。
「…もう少し、ンッ…は、はしゃいで、くれても、イイんじゃ、ないっンッ…すか?」
いつまで経っても、がっつく素振りを見せなかったせいで、ルマジュールの方が焦れてきて、わざと彼の背中に爪を立てた。
「うぁ…」
耳元で鼻にかかった色っぽい声が聞こえて、ルマジュールはドギマギした。それから、彼の指が彼女の中をほぐして、拡張する様に動いた。ずぶずぶと指が飲み込まれていく様子に緊張することもなく、頭を撫でられているうちに奥の方に鋭い快感が抜けた。
「うッ…ふ、ふぅ〜…ハァ…ハァ…ふふ…は、はは…」
フ〜…と息を深く吐いて、それから、さっきと同じ場所に噛みついた。唇の血は止まっていて、代わりに唾液が甘く感じた。
「あむ…ん…ン〜…ちゅ…ちゅ…ンッ…」
ルマジュールは夢心地で彼の愛撫を受け入れていた。身体を説得されている様な心地だった。懇切丁寧に蕩かされて、身体の中心、お腹の奥がジンジンした。痛痒感に似るまでになってくると、彼を急かす様に身を捩った。
「上、脱ぎ、ます…下着は、脱がして、ください、ね?」
彼は頷いた。一度身を離す。寒い。寒いのに。ルマジュールはシャツのボタンを一つ一つ、ゆっくりと外していった。寝転んだままに、見せつけるように。
「…見過ぎ、じゃないっすか…そんなに、好きですか?そんな、珍しい、もんじゃ、ないと、思うん、ですけど…」
プチプチとボタンがはずされていき、飾り気のないブラジャーが見えた。肩紐はしっかりとしていて、彼女の刺青を横断し、その本質を眩ませる仮面の役割を果たしていた。
「これじゃ、ちゃんと、見えませんね…あの、脱いでくださいよ。あたしばっかりは、ズルいです…さぁ…早く」
最後の壁が取り除かれようとしていた。彼は自分の服を手早く脱ぎ捨てて上裸になると、彼女の肩に手をかけ、紐をずり下ろす。それから、後ろのホックを外しにかかる。彼女は顎を引き、背中を逸らした。細い首と、無駄な肉が一切ないデコルテが浮き彫りとなった。
「どうぞ…」
互いに視線が交差して、ルマジュールが頷くと、彼の手でブラが完全に取り去られて、彼女の胸がまろびでた。無駄な肉の一切ない滑らかな身体の中で、唯一ふくよかな部分。
「ぁ…手、熱い、ですね…」
張りのあるムチッとした肉が揺れた。彼の手のひらに収まる大きさのそれ、それの先端には、桜色のものが小ぶりに咲いていた。彼が動きを止めた。しかし、彼の視線を奪ったのは彼女の肩から背中にかけてびっしりと彫り込まれた刺青だった。
「…何、見てるん、ですか?」
刺青は肌を見せることの多かった職業の人が、服の代わりとなるものとして…見せる前提のものとして身体に直接、彫り込んでいたものだとも聞く。職業を示す、という意味では日本のヤクザの彫り物も確かに同じだが、彼らの刺青は服で丁度隠れる部分に刻まれる。刺青の意味は、時代を経て、場所を変えて、変化し続けてきた。それは細かく分かれて、いつしか一人一人の刺青が各々の意味を独自に孕むに至ったのであろう。
「…女の刺青、興奮しますか?それとも…嫌、でした?」
果たして、眼前に晒された美女の裸体に刻まれた、艶やかなる和彫の持つ意味とは何であろうか。この細くしなやかな肉体。この嫋やかでいて弾ける様な瑞々しさを感じさせる肉体。小慣れた筋肉と程よく乗った脂肪の、儚い均衡の上に成り立つ美しい肉体。この身体に、生まれ持ってのものではない刺青が、横断する様に刻まれている。
「やだ…そんな、優しい目で、見詰めないで…ください…恥ずかしいですよ…」
そこには、境界線上に立つことを諦めた、ルマジュールの生き様が、その切なる覚悟が、諦念と郷愁が深く刻まれていた。刻み込まれた意味を拾った彼は、彼女の瞳と向き合った。寂しい瞳をしていた。彼が向き合うべき瞳だった。彼が何度も向き合ってきた瞳だった。安堵と怯えが宿された、切ない瞳だった。その瞳は今にもドロドロに溶けてしまいそうだった。
「顔、近い…っすよ…ふっ…ん…ぁ…ふぅ…ぁ、ん…」
こぼれ落ちたものは、形を変えて、黒く濁り、そして固まるだろう。彼は彼女の肌に触れた。ルマジュールが目を細めた。心地よさを感じて、鼻息が荒くなる。彼は体を倒して、ルマジュールの裸体と接する。出来るだけ広く、身体を密着させると、彼女の秘処をゆっくりと掻き混ぜることをやめずに、彼女の和彫、その輪郭線をなぞる様に舌を這わせた。目を伏して、子猫がミルクを舐める様に、傷を癒す様に、汚れを舐めとる様に。彼はルマジュールの肌を慰めた。
「…美味しい、ですか?…違う?じゃぁ、なんで…別に、いいですけど…べつに」
彼がルマジュールのしるしを舌で優しく慰めている間、彼女はずっと彼の頭を撫でていた。手つきは愛おしげで、目つきは哀しみと切なさに惑っていた。
「綺麗に…してくださいね…綺麗に…」
ルマジュールは彼の舌によって、自分という存在が丁寧に梳られていくように感じていた。磨かれて、枝毛を取り除かれて。いよいよ、美しく艶やかな何かに変えられていくように。ルマジュールはそっと瞼を下ろして、彼の舌が這う感覚に意識を集中させた。何も、怖いものはなかった。
長い愛撫が終わり、彼がルマジュールからそっと離れた。
彼は下を脱ぎ、それからルマジュールの元に戻った。ベッドの上で、ルマジュールに覆い被さり、彼女と見つめ合った。
「…シます、よね?…あの…そろそろ、辛いんす、けど…」
彼はやはり悪い男で、この期に及んでルマジュールを誘惑した。
「……ふー…ふー…ハッ…ハッ…」
悪い男はルマジュールを誘う。底の見えない深淵まで。そこで、先に底まで降りていき、安全なのか確かめたりはしない。彼はルマジュールを誘う。一緒に手を繋いで、連れ立って堕ちていこう、と。そのタイミングは君に委ねよう、と。
「…れて」
一方的に身を預ける彼は、その瞬間が訪れれば、ルマジュールの身体を守るように抱いて堕ちていく気なのだ。彼はルマジュールに委ねていた。君が望むのならば僕の身さえも、と。彼はルマジュールを誘う。ルマジュールはそれを拒むことなどできなかった。
「挿れてッ…」
泣き出しそうになり、背中を浮かせて、体をギリギリまで起こして彼に抱きついた。唇に噛みつくようにキスをする。舌を合わせて、視線で訴えた。
「…ッ!」
疾うに一線は越えたのだ。ならば、もう一度越えたって、何のことはない。今度は彼が一緒だった。
「…ふぅ…はッ…ぁ…」
彼の腰が動いて、熱いものの先端がルマジュールの濡れそぼった処に押し付けられる。
「きてくださいっ…」
血を吐くように訴えた。互いの目が潤んで、彼の腰が沈んだ。陰ったかと思えば、彼の肩越しに天井を見上げていた。彼の背中に爪を立てようとして、一度手を握り締めて、それからゆっくりと撫でた。何度も撫でた。
「ハッ…ァン…ぅ…ぁ…ンッ…チュ…んフッ…チュ…」
彼の腰がゆっくりと動いて、ルマジュールを揺さぶった。柔らかい胸が揺れて、桜色の乳首に彼の唇が触れては離れた。胸元から首筋へ、首筋から耳へ、耳から額へ、額から鼻先へ、鼻先から…ルマジュールの涙を吸い取ってから、それから頬へ。そして遂に、二人の唇が再会した。ルマジュールが舌を突き出して、彼がねっとりと受け止めた。いつの間にか片手が繋がれて、もう片方の手は、ルマジュールのものが彼の背中に、彼のものがルマジュールの刺青を愛でていた。汗が浮かんで、淫らにベッドの上で散った。ベッドのスプリングが軋む音と一緒に、濡れた肌がぶつかり合う音が響いていた。
夜遅くまで続いた交わりは、彼の熱い迸りが奥へ打ち付けられて、疲れ果てたルマジュールが眠りに落ちたことで幕を閉じた。眠っても離れない体温が愛おしくて、ルマジュールは腕に力を込め続けた。願わくば、朝起きた時も彼がいますようにと。
朝、彼はいなかった。代わりに、サイドテーブルの上にはまとまった金が、綺麗なドル紙幣の束で置かれていた。ルマジュールは憤慨して、すぐにフッと笑った。力が抜けて、あちこち軋みを上げる体を伸ばした。
「んん〜〜…ッはぁ…」
まんまと彼に食われてしまった。身も心も盗まれた。ルマジュールは彼を忘れられなくなった。彼が置いていった物は、単なる口実に過ぎなかった。そんなもの、この際どうでもよかった。
「どうしよう…」
勿論、金は大事だ。言葉の意味通り、痛いほど知っていることだった。けれど、彼と身体の熱を交換し合うよりも、日常を取り戻せる機会を手に入れることよりも必死になれることかと問われれば、ルマジュールの胸には疑問が残った。そんなことありえるのかと。
「下着…かな、先ずは」
ルマジュールは彼が置いていった金で、取り敢えずは飾り気のある服を買うことにした。そうだ、こんな物はすぐに使い切ってしまおう。そうしよう。
だって、そうすれば彼とすぐに再会できる気がしたから。
そこまで、彼との初めての夜を思い出してから、改めて新任のロリキュレールを見た。若い女だ。金髪の。冷たい感じの女だった。
それから彼を見た。そして気づいた。今なら気づける。彼は哀しい瞳をしていた。きっと、ルマジュールと出会った晩も。同じように哀しい瞳をしていたに違いない。あの時は余裕が無くてまるで気づけなかった。
けど今ならわかった。
苦しいんすね。哀しいんすね。前の小指が居なくなって。前のロリキュレールが死んでしまって。それで哀しくているんすね。悼んでくれているんすね。それでも、また来ちゃったんすね。これからもずっと、そうやって続けていくつもりなんすね。
本当に拗れている。紐解ようがないほどに。
ルマジュールは無性に生きていたくなった。死ぬのが怖くなった。それは生というものに、ちゃんと価値があるという証拠だった。ルマジュールの中で、虚しさに取って代わるものが根付いている印だった。
ルマジュールはまたロリキュレールを見た。それから思った。
この人も、多分、今晩のうちに美味しくいただかれちゃうんだろうな、と。
五本指は複雑なようで単純だ。五本の指先は一本の例外もなく、彼の五指にしっかりと絡めとられている。今は四本だけだが、明日にはまた五本に戻っているだろう。
歓迎会の終わり頃、ツンケンな態度で彼に接していたロリキュレールが、当たり前のように彼に肩を抱かれて部屋を出ていった。
意図せず流されたことが信じられないといった表情を浮かべていたロリキュレールのことを思う。
「ジェリコーの壁は最後には崩れ去るまでが様式美っすからね」
彼女の背中を見送ると、ルマジュールは誰にいうでもなくぼやいた。
次の仕事はロアナプラであるらしい。生き残れるといいのだが。生き残れたら、また彼に抱かれよう。そして、仕事を辞めたいと、正直に打ち明けてみよう。彼ならきっと、一緒に堕ちてくれるから。一緒に進んでくれるから。
その先にある新しい日常を想像して、ルマジュールは心を踊らせた。日本に住もう。彼の家に上がり込んで、それから同居人とやらに、何がとは言わないが見せつけてやろう、と。
珍しく上機嫌なルマジュールのことを、ロリキュレール以外の三指が首を傾げて見つめていた。