その日の依頼にはなかった緊急の仕事だった。
日本人が現地で人質に取られたらしい。要求はなし。恐らく見せしめに処刑するつもりだろうとのこと。
アメリカ合衆国からの定期的な依頼を受けていた頃のことだ。彼はマイアミからメデジンの麻薬輸送経路を辿り、コロンビアに潜入していた。
潜入と言いつつ、彼が隠れる素振りはなく、その必要もなかったが。
ボゴダからフローレンシアへ。一泊してから向かった。
いつも通りの朝のルーティーンをこなしてから、彼は灰色のコートを羽織り、灰色の帽子を被りホテルを出た。
途中まではアメリカの協力者の車で運んでもらい、メデジンの勢力圏の手前で降りた。
そこからは徒歩で向かった。鉄条網に囲まれた目的の農園を見つけると、そこの住人だと言われても違和感のない、自然な素振りで柵を押し開けた。
ギィ…と木製の柵が音を立てて軋んだ。
歩きながら視線を配り、家屋の中に土足で入った。
プシュ!とガスが抜ける音が響く。
入室した直後に視界に入った、腰に銃を差した男の後頭部を亜音速弾が撃ち抜いた。
薬莢が落ちるより早く、彼は歩を進めた。
次の部屋は壁が緑色で塗られていた。
テーブルの上の拳銃と酒瓶。ブリキ缶の灰皿から伸びる紫煙が揺れた。昼間だからか、裸の電球が付いていないので薄暗かった。ポーカーか何かに興じる男が四人、椅子に腰掛けていた。テレビが低い音量でつけっぱなしにされていた。
と、ここでつい先ほど射殺した男が倒れ伏す音が聞こえてくる。ぐにゃりと力の抜けた体が歪んで、バタリ。
「…?」
一人が疑問符を浮かべた瞬間。
プシュ!プシュ!プシュ!プシュ!
立て続けに弾が撃ち出される。寸分狂わず四人の頭部に命中し、彼らは全員椅子に座ったまま事切れていた。吐き出された薬莢がカリカリと木製の床を転がった。
周囲を見回す。冷蔵庫があった。開く。ガラスの容器に入った作り置きのお茶があった。喉が渇いていた彼はそれを飲んだ。よく冷えていた。味はあまり好みではなかった。
ポケットから取り出したハンカチで口を拭い、二階に視線を向けた。事前に聞いていた話では、まだ四人残っている。
軋みを上げながら、階段を登った。焦るでもなく。
階段を上がり切ったところで、下の階が静かになったことに違和感を覚えた男が一人出てきた。目が合った。
プシュ!
腰元から繰り出された弾丸が的確に眉間を貫いた。彼は部屋の扉を開けた。ベッドルームには誰もいない。男の倒れる音。振り返る。まだ部屋が二つあった。
廊下を進み、一つ目のドアに手をかけた。グイと力みもせずに押し開く。キョトンとした子供と目が合った。歳の頃は十代。子供部屋だったらしい。ベッドサイドには薄いマーベルの漫画本が積んであった。すぐ近くには銃も。子供のものだという確証は無かった。
「…」
彼は会釈してから部屋を出た。ドアを閉める直前まで見えていた子供は、小さく会釈し返すと、固まったまま、呆然と男を見送っていた。
男は黙って二つ目のドアを開けた。立派な執務机で帳簿をつけている男が一人。椅子に座り、机の上のくしゃくしゃの札束を輪ゴムでまとめる作業をする太った男が一人。二人の金勘定を見守る、銃を持った男が一人。
プシュ!プシュ!プシュ!
ドアが開いた瞬間に、まず銃を持つ男が振り返ると同時に撃たれた。次に、帳簿をつけていた男が顔を上げた瞬間に撃たれた。帳簿が真っ赤に染まる。最後に太った男が顔を入り口に向けたところで撃たれた。札束も真っ赤に染まった。
プシュ!プシュ!プシュ!
彼は銃を持っていた男の体に追加で三発撃ち込んだ。弾倉は空になったが、まだ一発残っていた。彼は銃をしまうと、一階へと降りた。そして、冷蔵庫から冷えた瓶のコーラを持ち出すと、家屋を出た。
瓶コーラの栓を指でこじ開けると、それを飲みながら、彼は農園を散策し、目星をつけた小屋の中にあった、地下室へと続く隠し扉を素手でこじ開けた。
中には農作物の山…の中に巧妙に隠されたヘロインやコカインがあった。偽装された集積所の破壊がこの日の依頼だった。小屋の内側と周囲に油を撒き、それからポケットの中にあったマッチを擦り、火を放った。
まだ昼間だったから、轟轟と燃える小屋は目立った。黒々とした煙が天高くまで登って行った。見上げる。一口コーラを口に含んでから、彼は農園を後にした。何の気なしに、帽子を被り直した。
コートに匂いがついてしまった。行きと同じ協力者が運転する車に乗ると、車内がすぐに焦げ臭くなった。
コーラで舌を湿らせながら、彼は窓の外を見ていた。
「ドクター…少し宜しいですか?」
運転していた協力者が徐に語り出した。車はボゴダには向かっていなかった。はて、仕事は終わりのはずだが。
「最新の状況です。現地で…日本人の技術者が拉致されたと」
彼の怪訝な顔をバックミラー越しに見た運転手が、慌てたように弁解した。弁解というよりは、端的な事後報告だと言って良かったが。
「営業所が占拠されまして…ええ、武装勢力によるものです」
この辺りで武装勢力といえば、FARCあたりだろう。それで、どうして欲しいのか。とは、聞かずとも理解できた。彼はコーラを口に含む。ぬるくなった炭酸が口の中でパチパチ弾けた。
「追加で報酬を約束すると本国からも…緊急依頼です」
なるほど理解した。彼はどこに向かっているのかと問うた。
「今ですか?今は…すでにマグダレナに向かって走っています…失礼しました」
彼はコーラを飲み干すと、首肯した。
「…!本当ですか?…ありがとうございますっ…では、到着するまでお休みください」
運転手の言葉に甘えて、彼は座席に深く身体を沈め、目を瞑った。そして、ぼんやりと意識をここではないどこか遠くへと飛ばした。
その間もずっと、焦げ臭い匂いがして、車のエンジン音が遠く聞こえていた。
マグダレナ営業所は既にFARC…テロリスト…に占拠されており、可能な限り早く駆けつけたとはいえ、人質が無事だという保証はなかった。
彼は車を降りると、道端に転がっている程よい大きさの石を五つほど拾った。掌の中で石をもてあそぶこともなく、彼は歩き進めた。
徒歩で営業所の正面門まで辿り着くと、門は車両により封鎖されていた。
迂回も面倒くさいと考えた彼は、門前と検問の周囲に灯る光…タバコの明かり…に見当をつけて、次々に石を投げた。彼が投げた五つの石は、寸分狂わず見張りの兵士の頭に当たり、石は頭蓋骨を砕いて脳を損傷させた。
続いて、また石を拾って投げると、それは慌てて仲間を呼ぼうと口を開いた兵士の喉に突き刺さった。倒れ伏すも、追加で石が投射され、今度こそ頭蓋を砕いた。
石で汚れた手を叩くと、彼は障害物を跨いだ。そして、まだ灯りのついている建物へと向かった。窓から溢れる光の数は少ない。一箇所に固まっているらしいことは容易に判別できた。
彼は歩きながらスリーピースのベストからマガジンを引っ張り出して銃に装填した。撃鉄を起こしておく。銃は重かった。彼はだらりと腕を垂らし、灯りの漏れる建物へ、とぼとぼ歩いて近づいて行った。足音は聞こえなかった。
建物の正面を迂回し、壁を伝って光が漏れている窓の近くまで移動した。コートは壁に擦らない。足音も聞こえない。静かだった。だから、室内の声がよく聞こえた。スペイン語が聞こえた。女の声だった。
「そろそろ時間だ…恨むなら、拝金主義の国に生まれたことを恨め」
ふん。ふん。窓際から彼女の声を聞いた彼は鼻を掻いた。営業所の敷地内を照らす街灯には羽虫が群がって飛んでいた。彼は虫が嫌いである。
「家族の写真も…死人には必要ないものだ…」
壁の向こうにハッキリと人の気配がして、壁に背中をつけた。壁伝にそっと窓から中を覗くと、自動小銃を持った男が五人かそこら、クールビズ姿のアジア人が二人、そしてオリーブ色の戦闘服に身を包んだ女が一人いた。
アジア人…日本人技術者のどちらかの私物なのだろう。写真が燃やされていた。写真を燃やす女の表情は硬直していた。
「…銃を貸せ」
彼は首を引っ込めると、少し考えた。人質が動かされていることも考えていたからだ。さて、ここからどうしようか。
「サンタマリアの名において…」
ふと、耳に女の声が届いた。彼は石を手に取っていた。
ガシャン!
「誰だ!?」
窓が割れる音に、室内の全員がその方向へと顔を向けた。そして、割れた窓ガラスの間から突き出される腕。
腕には銃が握られていた。銃口は向けられていた。
五人分の後頭部へと。
プシュ!プシュ!プシュ!プシュ!プシュ!
「なっ!?」
前へとつんのめるように倒れる五人の兵士。カラシニコフ小銃が地面に落ちる。金属と木製のフレームがガチャガチャ音を立てた。
女がハッとして倒れた五人に視線を遣れば、全員揃って後頭部から血を流していた。
後ろだ。咄嗟に肘を繰り出すが、柔らかくいなされた感触だけが伝わった。強い摩擦熱すら感じさせず、鋭いエルボーを受け流した彼は、いつの間にか彼女の背後に立っていた。
あとは、簡単だった。彼は表情も変えずに女兵士の首を締め上げた。彼女がもがくも、逃げられず。太腿あたりのホルスターに入った銃を抜こうとしたが、彼が思考を先読みしたように動いた。彼の手が伸びて拳銃を抜き去った。彼女の視界の、到底手の届かない前方へと放り捨てられた黒い塊。そこまでを克明に視界に収めてから、彼女の意識はゆっくりと沈んでいった。
ふぅ…。
彼女の耳元で、彼が軽く息を吐き出すのが聞こえた気がした。
彼は近隣の別棟の窓ガラスに石を放り投げて割った。ガラスの音に釣られて、中にいた兵士たちは明後日の方向を向いていた。
意識の隙間を縫い、最寄りの割れた窓ガラスの隙間から腕を突っ込み、気配と室内の配置の記憶をなぞって引き金を引いた。
五発の弾丸は見事に命中し、彼は当然と言った表情で窓ガラスを肘で砕いてから中に入った。
そして、卓越した反射神経で、肘鉄を繰り出した女の攻撃を受け流すと、あっさりと彼女を羽交締めにした。
首を絞めにかかり、女が脱力し、完全に意識を失ってから、そっと床に下ろしかけ…寝かせずに横抱きにした。
それから、彼は日本人技術者と思われる二人を解放した。営業所内部の残敵には目もくれず、元来た道と同じ経路を辿り、障害物を跨ぎ、正門を抜けて、近辺で待機していた協力者の元まで二人を送り届けた。
「このままボゴダへ帰還しましょう、帰りの便はいかがしますか?」
協力者からの質問に、彼は後ほど連絡すると伝えて車を出すように言った。
「は、はぁ…承知しました…では、またいつか」
彼は日本人二人を乗せた協力者の車が遠ざかるのを見届けてから、女を横抱きにしたままその場から離れた。向かう先は特に決まっていなかったが、近くにセーフハウスがあることが思い出され、そこへ向かうことにした。
彼は何の躊躇もなくジャングルへと足を踏み入れると、木の枝や有害な植物が女の肌に傷をつけないように、細心の注意を払って足を運んだ。
時に泥濘を飛び越えて、時に小川を飛び越えて。
そして、ジャングルの中に溶け込む、小さな小屋に辿り着いた。
扉を開けると、中には一通りの物質が揃っていた。簡易なパイプベッドも一つあった。
中はしばらく使われていなかったのか、埃っぽい空気で澱んでいた。
女をベッドの上に寝かせてから、彼は換気がてら小窓を開けた。
外はいつの間にか夜になっていた。
月光が部屋の中に染み込むように広がり、女の顔を照らした。女の寝顔は険しく、うわごとを呟いていた。
彼はパイプ椅子に腰掛けると、物資の中から缶詰の水を取り出し、素手でこじ開けて飲んだ。喉を潤してから、同じように缶をこじ開けてから乾パンに齧り付いた。
バリボリ。ガリゴリ。
彼が咀嚼する音と、得体の知れない生き物の鳴き声だけが、夜の闇の中でしばらく響き続けた。
女が目を覚ますまで、彼は彼女から目を離さなかった。