皿やコップが一瞬浮いたかと思うほどの勢いでジョッキが叩きつけられる。
いわゆる大ジョッキだというのに、中はすっかり空だ。それでも、徹の眼前でくだを巻く人物のペースが落ちる素振りはない。
「うぅ……もう一杯!」
庵歌姫である。
人目も憚らず(といっても、この場にいるのは徹と歌姫だけであるが)痛飲する彼女は、巫女服姿であるにも関わらずあまりにも世俗にまみれて見えた。
もともと大して神秘性があるでもなく、「コスプレ」と口に出さないだけの情けが学生たちに存在しているだけの彼女ではあるが、ここまで荒れているのは少なくとも周りの人間にとって前代未聞であった。
既に何度も厨房の人間に空き瓶や空になった皿を回収されており、いくら普段から酒飲みで知られている彼女と言えど、オーバーペースなのは明らかだった。
「歌姫先生、流石にそれ以上は」
もともと彼女は、1人で自分の機嫌を取るのが上手い質である。
そうせざるを得なかった身の上ではあるが、贔屓球団の応援と飲酒で呪術師というストレス過多の仕事を乗り切れたのは彼女自身の気質によるものだ。
その歌姫が生徒の前で酔い潰れる勢いで酒を飲むというのは、彼女の印象を知る者から見て「ありそう」なシーンであると同時に、あるいはだからこそ、今まで一度たりとも無かった。
それを知っているから、徹は半ば本気で止めにかかっていたし、同時に、力ずくでは止められずに言葉での静止にとどまっていた。つまるところ狼狽えていたのである。
「うるひゃい! 飲まなきゃやってらんないってのよ!!」
徹の気遣いを振り切って、さらに酒を追加する歌姫は、見るからに正常な判断力を失っており、まさに「ヤケ酒」という言葉が似合う有様だった。
結局徹は押し切られてしまい、歌姫は運ばれてきた瓶入りのビールをラッパ飲みし始める。先ほどまでは一応ジョッキに入れる理性を残していたのだが、いよいよ出来上がり始めた格好だ。
何故このような状況に陥っているか。
話は数週間前に巻き戻る。
◆ ◆ ◆
特級呪霊「仮称:ひさるき様」の祓除をなんとか無事に終え、新たに1級となった井口楓率いる新プロジェクトが軌道に乗り始めた頃。日常の姿を取り戻しつつあった京都高専にひとつの噂が流れた。
――歌姫先生についに男ができたらしい。
何しろ、本人が婚期を気にしているのを隠そうともしていなかった矢先のことである。なんやかんやで素直に歌姫を慕っていた学生たちは、多少茶化しつつも歓迎をもってその知らせを受け止めた。
教師陣やプライベートの友人知人も同様である。歌姫は善良で、基本的に誰にでも好かれ、何かあれば心配してもらえる明るさと親しみやすさの持ち主だ。
ただ、「じゃあお前が引き取れよ」となると……ある程度遊んでいる人間からは「歳の割に処女っぽくて扱いづらい」だの「変に夢見てそう」だのと敬遠され、身持ちの堅い人間は職場で女を作るという発想がなく、歌姫の適切な職業倫理が「教え子に唾を付ける」という選択肢を奪っていた。
そもそも、現代の恋愛事というのは「共同体のルール内で健全に行う」のではなく「ルールから逸脱することを相手に受け入れさせる」と定義される。学生の間にそれに気づけなかった歌姫は、呪術師+教職という出会いの少ない仕事内容に五条悟という最悪の同僚が合体したために、誰かに強引に連れ去られでもしない限り事実上の手詰まりであった。
ただし、ここまでの説明は現代式の自由恋愛に基づいたものだ。
数日としないうち、噂の内容は更新される。
「歌姫先生に見合い話が持ち上がった」
旧来の見合い結婚の場合、基本的には家族ぐるみで付き合う前提で相手が選定される。この場合、結婚相手は「好きな人」ではなく「戦友」だ。割り切ってはいても冷え切ってはいない家庭というのは、現代を生きる人々の常識から見れば意外なほどに多かった。
だから大部分の関係者は、「ついに"その手"を使う踏ん切りが付いたか」と見守った。
何かと旧弊的な所の強い呪術界ではまだまだ見合い結婚も主流。歌姫も意地を張るのを(あるいは、夢見るのを)ようやく辞めて、実家の伝手をたどった現実的な落としどころを探り始めたか、多くはそう考えた。
歌姫本人の反応は非常に曖昧で、何とも言えない表情で肯定も否定もしない。それが噂の拡散を助長する。
だが事ここに至って、察しのいい者は気づき始めた。
――「あの」五条悟が、この件で歌姫をおちょくりに来ない。
それだけでただ事ではないと察することができた人間は少なかったが、その中には東堂葵と七海健人が含まれる。
高田ちゃんが絡まなければ完璧な紳士と呪術界きっての良識派の働きにより大半の「下種の勘繰り」は下火になったが、この二人が止めにかかったという事実が事態の重大さを広く知らしめることになる。
結果、次第に虚勢を張れなくなって顔色が悪化していく歌姫と、誰もそのことに触れられない周囲という状況が生まれる。
繰り返すが、歌姫は嫌われ者ではなかった。むしろ、陰気で感じの悪い人間が多い呪術界では珍しい善人で、現場では誰からも好かれていたと言っていい。
ただ、彼女のことが好きな大勢の中に、「庵歌姫」の人生を背負う覚悟を持てるほど彼女が好きな者がいなかったのだ。
あからさまな上層部案件。この業界が長いものほど、世の中には知ろうとしない方がいいものがあると身体に叩き込まれている。歌姫を慕う多くの術師たちは歌姫に似て常識的で、それゆえに「可哀想だが仕方がない」と割り切れる人間だった。
そんな状況がしばらく続いた後、最初に一石を投じたのは空閑徹だった。
彼は実家とそれに連なる情報網から、彼女の身に何が起きようとしているかをかなり詳細に把握していた。
その上で空閑徹には、歌姫を慕う多くの術師が「摂理」の一種、災害の近縁として諦めている「総監部案件」に横槍を入れるだけの影響力がある。
だが、この場合に行使される影響力とは、例によって空閑徹の「好色(キャラ)」の側面だ。つまり、「あの女(庵歌姫)には自分が先に目を付けていた」という難癖である。
たとえ相手が御三家の縁者で、それが正規の見合いの形式を取っていたとしても。結婚前であれば一言「あれは俺の女だが?」と口に出すだけで本当にモノにできてしまうだけの家格と実績が、空閑徹にはある。
それは同時に、宣言したが最後、後出しでも構わないから「実現」させる必要があるということだ。実際には「囲い込み」ではなく「庇護」であることが公然の秘密であったとしても、それが事実であるのと噂であるのとでは天と地の差が生まれるのだ。
徹は手を差し伸べることができる。しかしそれを取ることは、無条件で救われることを意味しない。
流れに身を任せるか、代わりに徹とセックスするか。そういう最悪の二択を、よりによって自分の担任の先生に付きつけなければならない。
だから徹は一度話し合いの機会を持つべく、別件での九州行きをでっち上げて空閑本家での食事に誘った。この時点ではあくまで空閑徹が生徒として恩師を招待しているだけなので、仮に交渉が決裂しても歌姫の面目は立つと判断してのことだ。
背負ってやれないなりに一言でも頼みにくればいいものを、「まあ徹が何とかするでしょ」で全て16歳に丸投げした五条悟を向こう三年はこのネタでゆすってやると思いつつ、徹は粛々と準備を進める。
空閑家の人間からは「ひょっとして若様は他人の女を初夜ギリギリのタイミングで寝取るのが趣味なのでは」と妙な誤解を生む羽目になったものの、最終的に子供を産ませた実績もあるため「その程度」であればわざわざ指摘するものでもないと判断され、粛々と受け入れの準備が進んでいるのだった。
そうしてセッティングされた二人きりでの会食。人目は気にしなくていいと徹に優しく諭され、歌姫はついに溜まったものを爆発させた。その結果が冒頭の惨状である。
「ねぇくがぁ~、ちょっと聞いてるぅ~?」
「はい、大変でしたね」
なお、徹の対応は割と雑である。
酔っぱらってようやくタガが外れ始めた歌姫は、少しずつ徹に向けてため込んだものを吐き出し始めた。
いくら直面しているストレスが大きいと言っても、任務やこれまでの実績で、徹が並の大人以上に頼りがいがあると理解している前提でついに生まれた甘えである。他の生徒であれば彼女の良心が邪魔して弱みを見せることなどせず、大人であればお互い踏み込んで欲しくない領域があるとして触れない・触れさせないを徹底するところだ。東京で教職員をやっている人間として、自他ともにプライベートな事柄への距離感が極めて常識的であった。
それにウンウン頷きながら仕入れた情報とのすり合わせを続ける徹には、ダメな姉や女の先輩を持つとこういう感じなんだろうか、と見当違いな微笑ましさすら覚える程度に余裕があった。
歌姫の愚痴は、教師という仕事柄なのかこれだけ酔っぱらってもなお順序立っており、頭に情報が入りやすく組み立てられていた。
家のしつけが非常に厳しく、無断の外泊どころか友達付き合いにまで逐一口出しされてきたこと。
その反動で逆に呪術師一族では珍しい現代的な性格に育ったが、婚前交渉の禁止だけは厳格に守らされてきたこと。
これまでは自分で結婚相手を見つけるからと実家からの干渉をシャットアウトしていたが、いよいよ後がない年齢になって実家が焦り、方々手を尽くして見合いをセッティングしたこと。
歌姫はなまじ優秀な術式を持っていたために、その血が絶えてしまうのは惜しいと本来なら歯牙にもかけないような格式と実績を持つ家が「善意」で協力を申し出てきたこと。
相手の術師についても、徹が掴んでいた情報の通りだった。この手の下世話な話は、プライバシーという概念を持たないムラ社会ではインターネットをも超えるスピードで伝播するものだ。
見合い相手は特別一級術師である。遠縁だが守矢家の人間であり、徹自身、以前に任務をこなしたことのある相手だ。
少なくとも、一緒に仕事をする分にはそう悪くない人柄だった。だがそれは徹が有能な男性術師だったからであって、良くも悪くも根っからの呪術界思考の人間だ。だから40になっても未婚のままなんだと、一族の総領たる守矢拓斗に陰口を叩かれていたのも知っている。
「あはは。わぁしね、あんな男に捧げるためにず~っと処女でいたの。面白いでしょ。美人教師の下ネタなんだぁらちっとは照れなさいよ」
よって彼には悪いが、歌姫から見た「あんな男」という総評は残念ながら正しいと徹は思った。思い出せる限り、彼のいいところは仕事面にしかなかったからだ。
「あんたがいろいぉやってくれてたのぁ知ってるわ。ありがとねえ。ホントにうれしい。いままで先生やってて一番うれしかったかも。でもいいの。あたし大人だから。わがまま言わらいの」
いよいよ泥酔状態に近くなってきたか、段々呂律が回らなくなってきた歌姫は、酔っ払い特有のぽやぽやとした口調で諦観を語る。
「実家にも今までさんざん迷惑かけたぁら、このへんで親孝行しとかないとねぇ。お相手、実家すんごい太いからぁ。お母さんたち目えギラついてたわあ」
いつまでも片付かない娘一人で名門の歓心を買えるなら。
何より、強引にことを進めた所に名門たる守矢が乗っかった結果、庵家側からは絶対に断れない話になったのだ。
「ね、せーとにまで迷惑かけてちゃ、せんせー失格よぉ。だから、気持ちだけうけとっと……く……」
言い終える前に、歌姫の手の甲に大きめの雫が落ちた。
――歌姫の中では、恐らくそれに殉ずると決めていたのだろう。
ただ、徹が選択肢を一つ増やしてしまった。
抗えない現実の中に、違う手があると知ってしまった。そのことが、歌姫の覚悟を溶かしたのだ。
だから彼女は、心の中でそれを望んでいたから彼女は、来て早々に大量の酒を。
「あぇ、お、おかしいな、え、えと……ちがくて……」
自分でも制御が利かないのか、両目を開いたままボロボロと落涙する歌姫は、慌てて介抱しに来た徹の胸に顔をうずめて、それでも泣き止まなかった。
「うっ、えぐ、ごめんね、ダメな先生でごぇんね……」
それが何に対しての謝罪か、もはや歌姫にも分かっていなかったが、彼女はひとしきりすすり泣く。
それからしばらく。
人心地着くまで徹の胸を借りた歌姫は、やがておいてぽつぽつと、しかし先ほどまでと違ってはっきりとした口調で、言葉を発した。
「……ねぇ、空閑」
「なんですか?」
どこかで聞いたような言葉が、ふと、徹の脳裏に去来した。
大人はプライドが邪魔して子供のように本音を言うことができないから。本音を正直に言うには酒の力を借りなければいけなくなるのだ。
………………たすけて。
だとすれば、この不器用すぎる先生がたった4文字を正直に吐き出すためには、この酒量と、この立ち回りがどうしても必要だったのだと。
「分かりました」
徹はひとつ頷いて、歌姫を優しく抱きかかえた。
本番シーンについては出来上がり次第の掲載となります。
前話"ハッピーエンド"についても製作続けておりますので、筆の乗りをお待ちいただければと存じます。Skeb依頼いただいておいてこの体たらく、申し訳ございません。