1-1 出会ってしまったふたり(1)
「消してよ!」
「あいつらをこの世から消して……今まで生きてきた事実も、やってきたこととか全部!」
「あたしの記憶以外から全部! 消し去ってよ!」
……そこは崖だった。
グラグラ揺れて、いつ落ちてもおかしくない崖。
逃げて逃げて、逃げ続けた先は、崖だった。
もう、道はない。進路も、退路も、ない。
だから、必然だったんだ。
下を覗くと、真っ暗闇。
一度囚われたら、二度と上がれない。
そんな忌々しくて、光をも飲み込むどん底。
……飛び込むのに、迷いはなかった。
◇ ◆ ◇
「んっ……」
夢を見た。
あるいは、記憶と呼んだ方がいいかもしれない。
ちょうど今日でその夢は1ヶ月前の記憶となった。
あたしが罪を罪で上書きした、1ヶ月前の記憶。
皮肉なことに、奈落で吸う早朝の空気は、それはそれはおいしかった。
「よっ……と」
一気に軽くなった体を起こす。視界を埋め尽くしていた天井が部屋の壁に切り替わる。
横を向いて、机のとなりにある本棚に目をやった。
教科書と参考書だけで構成されたあたしの本棚には、唯一の例外がある。
爽やかな朝の光さえ取り込んでしまうような、忌々しい黒色の手帳。膨らんだ背表紙だけでも老人の手みたいにしわくちゃで、乱暴に扱われてきた経歴を物語っている。
あたしの過去を背負ったノートだ。
あのノートを取り出さなくなってから、もう1ヶ月経った。
書くことがないというよりかは、別のことで精いっぱいで、書く時間がなかったというべきだけど。
それでも、「書く時間がないから書かない」なんて言えること自体、あたしの心に余裕ができたことを意味しているのかもしれない。
こうしてノートを読まなくても起きられる朝なんて、不思議なものだ。
掃き出し窓から射し込んでくる光が、今は嫌じゃない。
「……おはよう」
誰もいないけど、声に出してみる。
ベッドから起き上がり、身支度をする。
身にまとうのは歴史ある水名女学園の制服――――あたしには分不相応な人生のトロフィーだ。
洗面所の鏡に映った姿は中学3年生になってもちぐはぐで、まるで格好つけたスーツを着た新入社員のようにぎこちない。
しかし、孤児のあたしは、与えられた任務を言われるままにこなすことでしか生きていけない。
だからあたしは今日もおかしな格好をしながら、3年目となる水名での日常を送るわけだ。
リビングに出て、一脚しかない椅子に腰掛けた。
この一人暮らしにはちょうどいい……いや、少し広すぎるくらいの空間で黙々と朝食をとる。
ここは奨学金のオプションでなんとかありつけた住処だ。木造アパートとはいえ閑静な水名の一等地にあってこの広さだから、身寄りのない中学生から見れば金殿玉楼である。
背中に朝日の温もりを感じながら、きれいな丸にできた目玉焼きに醤油を掛けて、口に入れる。
このアパートにやってきたばかりの頃は、いつも白身を焦がしてしまっていた。
(どれだけ料理が不得手でも、2年も経てば目玉焼きくらいはきれいに作れるようになるんだなあ)
なんてぼんやりと考えながら、半面が炭となった食パンを見やる。
「うーん」
やっぱりあたしはあたしだった。
でも、下手だからといって練習するつもりはない。一人で食べる分には大差ないから。
お腹を満たせれば十分だ。
◇
食器をざっと洗って、さっそく家を出た。
「うっ」
眩しい入射光に一瞬目を細める。燦々と輝く太陽の下で際限なく広がる青空は、まるで始まったばかりの今日を祝福しているようだった。
陽光に反して居心地のよい気温に初秋の歩みを感じながら、すぅー、と、冴え冴えしい朝の空気を深く吸い込む。
扉に錠をしてから、アパートの階段を下りた。
水名の街の石畳をローファーで叩きながら、人通りのまばらな通学路を眺める。
まだ朝7時を過ぎたばかりだからか、ジャージを着た運動部の生徒をちらほら見かけるだけだった。
1ヶ月前まではギリギリまで粘っていたから、この時間に家を出るのはどうも慣れない。
極力学校にいたくなかったのだ。
あの頃、夜は寝つけなくて、朝はすぐに目が覚めていた。
朝の5時くらいにはもう起きていたくせに、家を出るのは8時過ぎ。
内と外を隔てるマンションの薄っぺらいドアが、大げさではなく、自分を守る最後の防壁なのだと思った。
こんな調子でぼんやりと過去を振り返っていたら、
「――――おはよう!」
突然の大声にビックリして、すぐさま振り返る。
そこには、知らない女生徒二人の姿があった。
「あ……」
親密そうに肩を並べて、同じ歩幅で歩き始める。
立ち止まったあたしに目もくれず、横を通っていく。
二つの背中を目で追いかける。二人の姿と声が小さくなっていき、曲がり角でとうとう消える。
(……あたしには関係ない。他人が他人に挨拶をしているだけ)
分かっているのに、あたしの動悸は止まらない。
こんなよくあることに、なぜ体がいちいち反応してしまうんだろう。
「性分までは変わらないか……」
ため息が出た。
習い性となるなんていうが、一度躾けられたイエイヌは大自然に放たれたところで吠え方を忘れたままになるらしい。
あたしはそう、よく躾けられたイヌだ。二度と振るわれることのない暴力にいつまでもビクビクして……この先も、きっと変われないまま生きていくだろう。
◇
ガラリと扉を開けて、まだ人のいない教室に入る。
放課後の乱れようからは想像できないほど、机と椅子が整然と並べられている。生徒が放置したものを職員が整えてあげたと推測される。
電気は……つけなくていいや。窓側の席だから、自然光で十分。
それにしても早めに来てよかった。
時間を持て余してしまうけど、注目されながら教室に入るよりはずっといい。あたしの存在で空気が淀む瞬間が嫌いだから。
「さて、と」
机のフックに掛けたカバンの中から、まだ新品に近い文庫本を取り出す。
決して読書家ではないが、授業が始まるまで手持ち無沙汰だし、それで声を掛けられても困る。
勉強するという手もあったが、早めに来て予習とか、嫌味に受け止められかねない。
だからあたしは小説を読むことにしたのだ。
が。
「でもなぁ……」
読む気にならないんだよなぁ、活字。
1ヶ月経っても、まだ30ページくらいしか読めていない。
……このペースじゃ、読むというより「眺める」の方が正しいかもしれない。
もうちょっと興味を引く内容のものを選ぶべきだったかな。
――――これは困難に抗う希望の物語。
なんていうテンプレも真っ青な帯をしていたから、おかしくて買っちゃったんだけど……。
どうせぼっちのブラフにしか使わないなら、適当な本を図書室から借りればよかった。
買って損したなぁ。
◇
何をするわけでもなくぼうと過ごしていたら、昼になった。
ランチクロスを机の上に広げて弁当箱を開ける。中身は、日の丸弁当に玉子焼きを添えただけのもの。
体育がある日はさすがにこれだけじゃキツいけど、普段はずっとこんな感じだ。
節約できるし、何よりさっさと流し込めて楽である。
「――――更紗さん」
「え、あっ、はいっ」
いきなり呼ばれ、とっさに返す。
おそるおそる見上げると、いつもクラスの中心でゲラゲラ笑っているグループの同級生だった。
……うわ、すごい間抜けな返事をしてしまった。
「私たち小道具班でしょ? それで私、買い出しを担当しているんだけど……」
「小道具? あ、学園祭の……」
「そう、学園祭。同じ班だよね?」
「う、うん……そうですけど」
今月末は水名女学園の学園祭を控えている。
由緒正しき水名のお嬢様たちが年に一度奔放になれる日だからか熱意が一段と高く、全校総力を挙げての一大イベントとなっている。
もちろんあたしは由緒正しき水名のお嬢様なんかとは程遠いので、そんな熱意は微塵もない。
しかし熱意のあるなしにかかわらず、やるべきことはやらなければいけない。学校とはそういう場所だ。
そんなわけで、近頃のあたしは小道具班の一員として放課後もせっせと小道具を作っていたわけだが。
「それでちょっとお願いなんだけど……部活で忙しくて、買い出しに行く時間がないんだよね……」
「……あー…………。買い出し、しますよ」
「ほ、本当? ありがとう! ごめんね!」
彼女は大げさに手を合わせてペコペコ頭を下げてきた。
そのわざとらしい仕草には反吐が出る。
わざわざ謝らなくたっていいのに。最初から自分の仕事を押しつける気で話しかけてきてるんだからさ。
「じゃあ買い物リストを送るね!」
おそらく表情が曇ったあたしを気にすることなく、彼女は嬉々としてスカートのポケットからスマホを取り出した。
しばらくそれを操作する。
そのうち、目線が窓の外へと泳ぎ始める。彼女はごにょごにょと言いづらそうに聞いてきた。
「更紗さん、その……。クラスチャット、入ってないみたいだけど……」
「…………」
まあ、そんなところだろうと思った。
あたしの連絡先を持っていないことに今さら気づいたのだ。
「い、今入れてあげるから、ねっ? まず友だちに登録させてもらえる?」
「……お願いします」
カバンの中からスマホを取り出し、電話番号を表示した画面を見せる。
すると、彼女はなおさら困った顔をして、
「あ、えっと……SMSじゃなくて、チャットアプリ。ダウンロードできる?」
と、注文を重ねてきた。