「わぁー、帆奈ちゃんの部屋! すごいね!」
シャワーを浴び終わった瀬奈を部屋まで案内すると、玄関同様引っ越してきたときと大して変わらない空間をなぜか興味深そうに眺め回していた。
オブジェも小物も観葉植物もなく、見当たる家具は勉強机、椅子、本棚、タンスとベッドくらいしかない、極めて一般的な部屋である。
「全然すごくないけど……」
「えー、すごくきれいだよ。帆奈ちゃん整理整頓得意なんだ」
なるほど。遊び心がなさすぎるということも特徴になりうるのか。
「整理整頓っていうか、始めから何も置いていないだけ」
「なんで置かないの?」
「必要がないから」
答えつつ、あたしはタンスを開ける。上段から畳まれた白いシーツを取り出し、端と端を持って覆いかぶせるように床に広げた。
シーツを敷いただけなので寝心地は悪そうだが、まあ仕方ない。
「帆奈ちゃん? それ何してるの?」
不可解そうにあたしを観察しながら尋ねる瀬奈。
「何って、寝るから」
「……え?」
「しようがないでしょ。シングルベッドだし、枕は1個しかないし。ソファもないから床で寝るしかないでしょ」
「だ、だめ!」
突然の大声にキーンとしたら、瀬奈が上半身を乗り出してあたしの両手を握ってきた。ぐいと顔を近づけられる。
「そんなの、帆奈ちゃんに悪いよ! だったら私が床で寝る……!」
「させるわけないでしょ。一応お客さんなんだからさ」
「ううん、私が帆奈ちゃんに迷惑を掛けてるんだもん。だったら私が寝るべきだよ」
瀬奈は意固地になって引き下がらない。かといって、来客の瀬奈に床で寝させるわけにもいかない。協力関係云々以前に、こう、なんか違う気がする。だって初めてウチに来た人間なんだしさ。
こうして膠着状態になって、あたしと瀬奈はしばらく黙ったまま対峙していた。
(……それにしても)
キリッとした表情を至近距離で見るのは初めてかもしれない。
メイクしている感じではないのに、まつげがふさふさで長いし、肌も透き通っていてツルツルだ。全体的に色素が薄く、唇も淡い桜色をしている。血色がいいとは言い難いけど、ひどく柔らかそうで。触れたらそのまま沈み込んでしまいそうというか……。
あー、ダメだ。思考が変な方向に飛んでった。
「……分かった。分かったからその手を離して」
このままじゃ埒が明かないので、あたしが折れることにした。
「う、うん。私が床で寝るからね?」
「そうじゃなくて」
ひとつ深呼吸をして、自分を落ち着かせる。そうしてからまたまっすぐ瀬奈を見て、告げた。
「ちょっと狭いけど、ベッドで寝よう、瀬奈」
「!」
「枕はあんたが使って。毛布は一緒でいい?」
「……う、うん。いい!」
心なしか、色素が薄いと評していた瀬奈の肌が今は少し紅潮しているように感じる。あたしから目を逸らして窓の外を見ているし、パジャマの裾をぎゅっと握りしめているし。
いくら距離感がおかしい瀬奈でも、他人と一つのベッドで寝るのは恥ずかしいんだ。ちょっとビックリ。
「それじゃ、もう電気消すよ」
「うん……!」
ポチッと明かりを消して、ベッドの方を見やる。
窓から入ってくる町の微かな光だけが、女の子座りであたしを待っている瀬奈の輪郭を照らしていた。
――――あたしのパジャマを着て、あたしのベッドの上であたしを待つ瀬奈。
客観的な状況を改めて認識すると、なんだかすごいことをしているような気がしてきた。電気がついていないってだけで、雰囲気が全然違ってくるというか。突然静かになられると、会話で紛らわしていた緊張が浮き彫りになってしまうというか。
どくん、どくん、と、自分の心音がうるさくあたしの気持ちを主張していることに気づく。
他人と就寝することは施設で何度か経験しているはずなのに、コレとは全く異質なもののように感じる。今だって仕方なく一緒に寝るだけだというのに。一体どこが違うんだろう。
恥ずかしさに抗いながら、のそのそとベッドへ歩いていく。
「……ふふっ」
「な、何っ……」
「ううん。帆奈ちゃんとお揃いのパジャマだなーってだけ」
「……そりゃ。だってあたしのものだし」
ベッドに上がり、瀬奈の顔を見なくて済むよう反対方向に体を向けて横になる。瀬奈も同じ動作をしたのを背後に感じ取ると、あたしは毛布を首まで掛けた。
「んじゃ、寝るから」
「うん。おやすみ、帆奈ちゃん」
思っていたより瀬奈の声は遠かった。あたしが寝やすいように、できるだけ壁の方に体を寄せてくれているのだろう。普段の距離感がおかしい分、こういうときに気を遣われるのはちょっと歯がゆい。
「…………」
静寂。
体は一切触れていないし、声もしていない。なのに、いや、だからこそ、何も感じないことがかえって瀬奈の存在を目立たせている。
背後にいるはずだという情報と瀬奈がいないという五感との齟齬が、あたしに瀬奈の存否を確認しろと告げているみたいで。頭はそればかり考えていて、感覚が研ぎ澄まされていく。
……眠れない。
こんな感覚過敏じゃ、眠れる気がしない。
「帆奈ちゃん」
このとき、小さく名前を呼ばれた。
「……なに」
やっと大義名分を得たあたしは体をねじり、振り返る。
すると、瀬奈は壁に背をくっつけながら、赤子を見守るように控えめな笑みを浮かべながらあたしを見つめていた。
下ろされた長い髪は無造作にベッドに広がり、瀬奈の顔にも掛かる。その視線はあたしにだけ注がれていて――――あたしまでが幸福を分け与えられてしまいそうな、そんなとろりとした甘い表情だった。
思考がフリーズして開いた口が動かなくなってしまったあたしに、瀬奈は続ける。
「私、嘘ついたって言ったら、怒る?」
「…………」
「散策してたっていうのは嘘。駅まで歩いたら帆奈ちゃんの顔が見たくなっちゃって……待ってた」
待ってた、って。
「5時間も立ってたの?」
「うーん、そうだったかも?」
「…………」
そうだったかも、じゃない。瀬奈と別れたのは午後4時頃だったから、5時間は校門であたしの帰りを待っていたということになる。待って、待って、途中で雨が降り出したのに気づいても、ひたすらそこで待っていたのだ。
その理由が、あたしの顔が見たい、だけだって? そんなわけない。
「ごめんね、帆奈ちゃん。お家まで押しかけるつもりはなかったんだけど、シャワーを借りる必要があったのは本当で……。帆奈ちゃん一人暮らしなのかなって、思ってたし……」
「……気づいてたの?」
「うん。遅くまでパトロールしてたり、なんとなく」
やはりこういう事情は勘づかれるものか。瀬奈には家や学校の話はほとんどしていないが、もしかしたらあたしのしみったれた過去も見透かされているかもしれない。
それは嫌だなと思いつつも、あたしも瀬奈のことを色々憶測してしまっているわけなので、人のことは言えない。
「本当はシャワーだけ借りて帰ろうって思ってたの。でも、帆奈ちゃん、パジャマ置いてくれてて……」
「…………」
「それがすごく嬉しくて……帆奈ちゃんに迷惑掛けてるって、分かってるのに……」
「迷惑って。別に、一人暮らしだから大差ないよ」
これは本音だった。ついこの間まで唯一安心できる場所だった家に他人が来るなんて、きっと嫌な感じがすると思っていた。だけど、瀬奈の来訪は自然に受け入れられた。
それこそ、瀬奈を泊めようとしてしまったくらいには。
そんなあたしの返事を聞いて、瀬奈はくすりと笑う。
「んふふっ。やっぱり帆奈ちゃんはそういうふうに言ってくれるんだ」
「……そういうふうに言ってるんじゃなくて、本当のことだから」
「…………。本当のこと……」
手で唇に触れ、瀬奈は確かめるようにあたしのフレーズを繰り返す。
刹那、瀬奈は夕日を見つめていたときと同じ無表情を覗かせた。それはつまらない演劇を眺めているような、それでいて舞台に羨望を抱いているような、そんな剥き出しの感情だった。
しかし瀬奈はすぐに元の微笑みを取り戻した。先ほどの変貌が見違いだったかのように。
「うん。言ってよかった、本当のこと」
そう言うと、瀬奈は毛布をあたしと同じ高さまで掛ける。あてを探すように毛布の下にある手をもぞもぞと動かして――――ついにあたしの手にたどり着いた。
指と指が絡む、細かな感触。
瀬奈の肌は冷えているのに、接触した部分から熱を流し込まれ、全身を巡っていく。
このまま眠れるわけがない。でも手を離したくない。
絶え間なく伝わってくる瀬奈の存在感が、拒絶しようと努める意識を侵食する。
「――――」
境界線がぼやけていく感覚に怯えながら、あたしは握り返すことも引き込めることもできず、ただ人任せな甘い感情に酔いしれるほかなかった。
◇ ◆ ◇
「帆奈ちゃん、本当にありがとう」
靴に足を入れて、乾かしたばかりのワンピースを着た瀬奈は両手を合わせて本日3度目の礼を伝えてきた。
まだ朝8時。休日だし朝食もまだ済ませていないから、もっとゆっくりしていってもいいと思うけど、瀬奈はこれ以上世話にはなれないと言い張って譲らなかった。
自分からはぐいぐい来るのに、こちらが引き止めると遠慮して逃げる。瀬奈の距離感は実によく分からない。
「だからいいって。それより、道は分かる?」
「うん、たぶん。迷ったらスマホで地図見るから」
「……やっぱり駅まで送る」
「もう、本当に大丈夫だって!」
この通り、送ると言っても首を振って拒んでくる。ちなみに、あたしもこれで本日3度目の申し出だ。
ロックを回してドアハンドルを押す瀬奈。ギィーという音と共に、朝日が室内に射し込んできた。
「それじゃ、また明日、ね!」
「……ん」
小さく手を振って、揺れるポニーテールを眺める。
瀬奈が出ると、あたしはハンドルに手を掛けて閉めようとした。しかしこのまま鍵を掛けちゃなんだか面白くないような気がして、こっそりドアの隙間から瀬奈が遠ざかっていくのを見届けた。
あれもこれもとぐるぐる辺りを見回していて、やはり落ち着きがない。
「駅まで大丈夫かな……」
老婆心が過ぎるが、瀬奈は見ていて不安になる。もう子どもじゃないのに。
そんな調子で、瀬奈が階段をひょこひょこと下りたあとも、あたしは廊下に出て小さくなっていく人影を眺めていた。それが周囲の建物に覆い隠されてしまうまで、ずっと。
◇
ドアを閉めて、鍵を掛ける。
見慣れたはずの玄関がなんだか広く感じられた。
部屋に入る。
椅子に掛けたままのシーツと花の甘い香りだけが昨晩の出来事を物語っていた。それ以外は全部いつも通り。いつも通りだからこそ、微かな違和感を増幅させる。
瀬奈がここにいた、という事実を。
「……しまうか」
シーツを畳んでタンスの上段に戻した。
そうすると、本当に瀬奈の残り香しか過去をたどるあてがない。まるで破り捨てられた絵本のページのようだ。そこにあったはずの真実を忘れて日常が進む、そんな喪失感が胸を埋め尽くしていた。
嘘だったみたい。
無意識のうち手を滑らせてベッドの感触を確かめた。ただ柔らかいだけで、それ以上の特筆すべきことはない。たとえば、人の温度が残っているとか、そういうことはなかった。
このとき、机の上に放置していたスマホが目についた。瀬奈がいたときは触る必要もなかったから、すっかり存在を忘れていたけど。
すぐにそれを手に取って、チャットアプリを立ち上げる。いつの間にか人差し指は一連の動作を覚え、画面を見なくてもアプリの位置が分かるようになっていた。
案の定、瀬奈のトークルームから通知が来ていた。それを開く。
『昨日はありがとう』
『明日もさっさと魔女狩り終わらせて一緒に遊ぼう!』
たったこれだけの文章。
これだけの文章なのに、瀬奈と学園祭を回ったことは、瀬奈がこの部屋にいたことは真実なのだと告げているようで……胸の中のぽっかりと空いた穴に温かいものをどくどくと注ぎ入れられていく感じがした。
椅子に腰掛けて、返す文章を考える。
『あたしも楽しかった』
『初めて人と学校を歩いた』
『今度はあたしが大東学院に行ってもいい?』
『またウチにおいでよ』
脳裏をよぎる様々な可能性を文章にしてみては、それを消した。
どこまで言っていいか、何に言及していいかが分からなかったからだ。
手引きも公式もない。あたしにとって当たり前だった境界線も波に飲まれてあやふやになってしまった。
「……って、スタンプ送ればいいじゃん」
いつもの行動を思い出し、数少ない公式スタンプを一覧表示させる。しばらくそれらを眺めていた。
しかし、どれを押しても違うと思った。
あたしの言いたいことにピッタリ当てはまるものがない。太陽のスタンプもありがとうのスタンプも、なんだか違う。
そもそも、あたしの言いたいことって何だろう?
「…………はぁ」
逃げるようにうつ伏せになってから、ちらりと顔を上げてスマホを見た。
こんなくだらないこと、なんで悩んでいるんだろう。
スタンプをどれか押して適当にあしらえばいい。瀬奈を利用して楽できればそれでいい。グリーフシードを手に入れるため、暗示の魔法がもっと上手く使えるようになるための道具。それだけの話じゃないか。
なんて、どれだけ並べ立ててももう戻れないって分かり切っているのに。
とっくに自覚していた気持ちを改めて表に出すと、あたしは突然あのノートを読み返したくなった。
あたしの歴史の象徴。あたしそのものを刻んだような、そんなノート。
本棚からそれを取り出して、縛りつけるように留めていたバンドを外す。
怨嗟、呪詛、憤怒、絶望。
これらから生まれたあたしの希望は汚かった。
こんなあたしでも光を見上げていいのだろうか?
人から差し伸べられた手を取って、その優しさに甘えていいのだろうか?
利用すると自分に言い聞かせていたのは保身にほかならない。
人より劣るあたしが人と足並みを揃えて歩くのは無理だから、そうせずに済むよう遠くから眺めているつもりでいたんだ。
虐げると虐げられるの関係だったから、人との距離は空いていれば空いているほどよかった。
でも、瀬奈はあたしを対等の一人の人間として扱ってくれた。
それでもあたしは遠くに逃げなければいけないのだろうか?
瀬奈を、信じてはいけないのだろうか?
瀬奈は今までの誰とも違う。それはよく分かっている。
……だけど。
――――人を殺したんだね、帆奈ちゃん。
いつかあたしの願いを知った瀬奈は、今までのやつらと同じようにあたしを軽蔑するようになるかもしれない。
その前に距離を置かないと、あたしはきっと傷つく。
「…………」
ノートを閉じ、バンドを掛け直した。そうしてノートを本棚の定位置に戻そうと立ち上がって――――めまいがした。
日常だったはずの部屋にクラクラした。
肺が溶けそうなほど狂おしく甘い匂い。瀬奈が座って待ってくれていたベッド。町の明かりを透かしていた窓ガラス。
夢と現実の狭間にぽつんと一人置かれたあたしは、陽光の
本当にバカだな、と思う。
御託を並べるのも光を追いかけるのもやめられない。その終点に絶望が見え隠れしていたとしても、あたしは希望に縋りつくしかない。
「あっは……」
納得した。
そういうふうにできているんだ、あたしは。理屈だけではできていないんだ。
本棚に向かおうとした身を翻し、ノートを持って部屋を出た。あたしの怨念で全てのページを満たされたそれは、もうこれ以上の記載を許さない。ならば、これは持っていてもしようがないものだ。
このノートは「あたしの記憶にはいじめたやつらの存在を残す」という契約の性質からか、唯一形を持って世に存在しているあいつらの痕跡だが……恨みを書き連ねた痕跡を残したって、あたしがあいつらを消した罪は消えない。
キッチンまで行き、流し台のとなりに置かれたゴミ箱を開けた。
最後の迷いを振り切るのに数秒掛かったが、意を決して、あたしはノートを中に放り込んだ。
バタン、と、閉じたゴミ箱を見下ろす。
これで生きる上での指針はいよいよなくなった。
あたしの過去や罪は消えないし、あたしが崖から飛び降りた事実も消えやしない。それでも、あたしが光に手を伸ばそうとすることを自分自身に責められなくてよくなるはずだ。
「……瀬奈」
唇に触れ、ぽつりと名をつぶやく。
それだけでモノクロだったキッチンが少し色づいた気がして、あたしは2年半も過ごしたはずの空間を見入ってしまった。