掃除の時間が終わると、私はすぐにカバンを片づけて教室を出た。
グラウンドからは運動部の掛け声が、音楽室からは吹奏楽部の演奏が聞こえる。
それらに耳を傾けながら、思い出す。
昔は学校に残れる人たちが羨ましかった。自分も仲のいい友だちと一緒に何らかの活動をして大会に挑んだりしてみたいなって思っていた。みんなが普通の青春と呼んでいたそれが、とても眩しく見えていた。
でも足を引っ張るのが怖くて、みんなと昼食をとらずに済むよう、自由に部室が使えるという文芸部に入った。
あまり積極的に活動している方ではなくて、人と仲よくなれるわけでもないけど……どこにも入らないよりはマシだった。帰宅部はイメージがよくないから……。
「でも、大丈夫」
そう、それらは全てかつての話。今は早く学校を出られてよかったと思っている。帆奈ちゃんが私を待っているから。
帆奈ちゃんのことを思い浮かべると、自然にカバンを持つ手に力がこもる。胸の高鳴りを抑えようとして、身体にぐっと力が入るのだ。
一段飛ばしで階段を下りて、よそ見せずに校庭を抜ける。
校門を出て、早足で西に向かって歩いた。
帆奈ちゃんとは工匠区あたりのファミレスで待ち合わせをしている。
4駅くらい挟むけど、いつも徒歩で向かっている。その方が周りの様子が分かって、帆奈ちゃんと魔女を探すときの参考になるから。
――――ぐぅ~!
「わっ……」
盛大にお腹が鳴った。
周りに聞こえていないかとそわそわしながら、足を早めた。
昼はほとんどもやしだけだし、午後には体育があったから、空腹感が凄まじい。しかも商店街からはいい匂いがたくさんしてきて、ついつい寄り道がしたくなってしまう。
「もう、だめだよ……!」
帆奈ちゃんが待ってくれているんだから、間食なんてもってのほか!
それに、ウチの教育方針は厳しくて、お父さんは「独り立ちするまでは大切にお金を使うように」って口癖だから、お小遣いもあまりもらえていない。
私のためだと分かってはいるけど、みんなと一緒に遊びに行ったり、流行りのアイテムを手に入れたりすることができないから、ちょっと困るんだよね。
まあ、雀の涙程度のお小遣いでもファミレスのアイスティーくらいは買えるから、帆奈ちゃんとの待ち合わせは平気だ。
それに、帆奈ちゃんはよく何も言わずにおごってくれる。気づいたら二人分払ってくれていた、なんてことがざらにある。
そのたび私は返すと言うけど、帆奈ちゃんは頑なにそれを拒んでくるんだ。だから私はその分、帆奈ちゃんの役に立つように魔女狩りを頑張らなくちゃいけない。
そうだ、今もこんなことを考えている暇なんてない。魔法少女の時間はもう始まっているんだ。
周囲の魔力反応に気を配りながら、私は絶え間なく足を動かして、5駅分の道のりを歩いた。
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お店の扉を引いて、いつもの窓際席に急ぐ。
帆奈ちゃんはやはり先に着いていて、何かの本を釘づけになって読んでいた。
「帆奈ちゃん! 待たせちゃった?」
向かいの席について、話しかける。
反応はない。本の世界に没頭しているようだった。
「はーんなちゃーん」
もう一度呼ぶと、ようやく顔を上げて私と目を合わせてくれた。
くるりとした瞳に、もちもちした愛らしいほっぺ。だけどツリ目がちでいつも堅く口を結んでいるから、イヌよりもネコみたいだ。警戒心の強いネコ。
「それ、何の本?」
「……これ?」
「うん」
聞くと、帆奈ちゃんは一度答え方を探すように窓の外に視線を向けてから、
「普通の小説」
と言った。
「どんな話なの? 面白い?」
「面白くは、ないけど……」
「面白くはないんだ……」
私に気づかないくらい夢中だったのに。
「でも、まあまあいい話」
「へー。ハッピーエンドってこと?」
「まだ読み終わってないから知らない」
注文していたブラックコーヒーを一口すすって、帆奈ちゃんは顔をしかめた。苦くてそうしたのか、それとも私の質問がバカだったからかは分からない。
「つか、ハッピーエンドだからっていい話とは限らないでしょ。逆にバッドエンドでもいい話はある」
「じゃあどんな話なの?」
「……人は負けるためにつくられていない、って話」
「ふーん……」
説明する気がないのか、よく分からない紹介の仕方をしてきた帆奈ちゃん。
これ以上聞くとウザがられるかもしれないけど、帆奈ちゃんの好みを知るいい機会だ。やはり聞いてみよう。
「勝つためにつくられたってこと?」
「うーん、結果が大事なんじゃなくて、過程に対するメッセージかな。
人は負けるためにつくられていないから、立ち向かい続ける。絶望してやめない限り、人は負けない。
だから、いつだって希望を持つ側が勝つんだってこと」
「……難しいね」
名ばかりの文芸部員だから、細かく説明されても具体的にイメージできなかった。なんかポジティブなメッセージなのは分かるけど。
活字は夢小説しか読んでいないし……そもそもそれって活字に含まれるのかな?
「ま、要は夢を信じて頑張れってことだよ。
そんなことより、今日は確認したいことがあるんだけど」
「私に?」
「いや、暗示の使い方の話。
こないだは自分に暗示を掛けれるって分かったんでしょ?
だからたぶん魔法少女にも暗示は効くと思うんだけど、念のため他の魔法少女にも暗示が使えないか確認したいんだよね」
「他の魔法少女に暗示を掛ける……」
「そう。魔法少女はグリーフシードをめぐっての競争相手でしょ。だから万が一に備えて、暗示が効くか試してみようよ」
言われてみれば、確かに同じ魔法少女だからといって友好的とは限らない。
今まで出会った魔法少女たちとは協力して魔女を倒していたけど、他愛ない会話では優しそうな人でも、グリーフシードの配分についてはみんな神経質になっていた。
帆奈ちゃんの見方は正しいと思う。
「そっか。それでどうやって試すの?」
「あたしたちがまさに『他の魔法少女』でしょ。だから、瀬奈があたしに暗示を掛けるの」
「私が帆奈ちゃんに!?」
帆奈ちゃんはさも当然のように淡々と言うけど、慎重な帆奈ちゃんが被験体を買って出るのは驚きだった。
暗示の魔法ははっきりしないことがまだ多い。必ず解除できるか、どれくらいの効き目があるか、できない指示はあるか、とか。そんな謎の多い魔法だ。
でも、帆奈ちゃんが自ら提案してきたということは、その必要があるってことなんだろう。
それに帆奈ちゃんは頭がいいから、きっと私が思いつかないような色んなリスクを全て洗い出したうえでの提案だ。
「わ、分かった。何の暗示にすればいい?」
だから、私はそれを受け入れた。
「記憶を消せるか試してみたい。あたしらの情報が出回らないように、あたしらのことを全部忘れさせるの」
「じゃあ、人を忘れる暗示?」
「そう。
――――あたしが瀬奈のことを忘れるように、魔法を掛けてみて」
「――――――」
帆奈ちゃんは表情を変えずに言う。悠々とそう言ってくる。でも、世界が石になって固まったような気がした。
どうしてこんなこと言えるんだろう。
ありえない。
帆奈ちゃんの判断を信用したことをすごく後悔した。
「やらない」
考えるより先にお腹から声が出て、気づけばかなり強い語気になってしまった。
「そんな危ないこと、私にはできないよ。帆奈ちゃんは私にできるってこと?」
「……瀬奈」
「やらない、絶対に」
帆奈ちゃんが私を忘れるなんて、考えただけでぞっとする。おぞましい。いくら帆奈ちゃんでも、こんな発想ができるのは信じられないと思った。
私がキツく当たってしまったためか、帆奈ちゃんは珍しくしゅんと肩を落として言葉に困っている。
本当はもっといい言い方があるかもしれない。でも強く念を押すべきところだと思う。
「……分かった。だったら、瀬奈がいいと思う暗示を掛けてみて」
「…………」
「暗示を掛けることには賛成してくれたんじゃないの?」
「……帆奈ちゃんの分からず屋」
「瀬奈」
私をたしなめるように呼ぶけど、これは帆奈ちゃんが悪い。あんなことを言われたあとじゃ、どんなに簡単な暗示でも掛ける気になれないよ。
「だったら帆奈ちゃんが私に掛けて。帆奈ちゃんに関係すること以外で」
「瀬奈に掛けるのは……」
「それ、私もだよ……」
そう言うとようやく分かってくれたみたいで、気まずそうに顔をテーブルに落とした。いつもは私にブレーキを掛ける側だから、帆奈ちゃんが私の話を聞いて反省するのは珍しい。
でも忘れる魔法を試すこと自体は諦めていないのか、帆奈ちゃんは代案を出した。
「じゃあ、物を忘れるかでいこう」
「物?」
「そう。あたしにこの本のことを忘れるように暗示を掛けてみて」
さっきの本をテーブルの上に置く帆奈ちゃん。
「……それなら」
それくらいなら、ギリギリ妥協できる。
暗示の効果がどれくらいになるのか分からないから、危ないのに変わりはないけど……これ以上拒み続けると、帆奈ちゃんは私に黙ってもっと危ないことをしてしまうんじゃないかって不安になった。
帆奈ちゃんの本を手に取る。
辺りを見回して人がいないことを確認してから、武器の手鏡だけ顕現させた。
本を顔のそばまで持っていって帆奈ちゃんに見せながら、魔力を手鏡に込める。
「じゃあ、行くよ」
「うん」
「――――この本のことを忘れて、帆奈ちゃん」
手鏡を帆奈ちゃんの額に当てると、帆奈ちゃんは一瞬苦しそうに目をつぶった。その表情を見るだけで心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。
しかし幸い、帆奈ちゃんはすぐに目を開けてくれた。
手鏡をぱっと消して帆奈ちゃんに聞く。
「帆奈ちゃん、この本がどんな話か分かる?」
「…………」
帆奈ちゃんは記憶を探るように黙り込んだ。
成功したんだ。
「『本』に関する記憶を瀬奈に消されたことは覚えているけど、中身が飛んでったね」
「いい話なのか悪い話なのかは、感覚で分かる?」
「…………うーん」
帆奈ちゃんは必死に考えていた。
「感覚では分からない。瀬奈がそれを持っているならたぶんいい話、っていう推測は立つけど」
「え? どうして?」
「その本の持ち主があたしなら、あたしはわざわざ悪い話を瀬奈の前で読まないし。逆に瀬奈なら、きっとあたしに紹介するつもりで持ってきただろうから、悪い話なわけない」
「……そ、そっか」
帆奈ちゃん的には、私の紹介する本は無条件でいい話なんだ。ちょっと嬉しいかも。
「それじゃ、もう解除していい?」
「あ、待って。瀬奈からヒントを出して。手がかりがあると思い出すかもしれないから」
「あ、そっか」
「本の内容、瀬奈は分かってるよね? いい話なのか悪い話なのか、あたしに聞いてきたんだから」
「うん、ちょっとだけだけど……。
えっとね、これは帆奈ちゃんの本で、人は負けるためにつくられていないって話。希望を信じると勝つんだって」
「…………」
帆奈ちゃんに言われた通り紹介してみたら、なぜか呆れたみたいにじっと半眼になって私を見つめて、しかもため息をひとつついた。
え、何か間違えちゃった?
「……ゴメン、説明不足だった。瀬奈にはもっと具体的な内容を教えてほしかった。
――――希望を信じるやつが勝つ話は、絶対にいい話だから」
「?」
「ま、でも内容を忘れることが確認できただけでよかったよ。もう解除していいよ、瀬奈」
「う、うん」
何を間違えたのか結局よく分からないまま、再び手鏡を出して帆奈ちゃんの暗示を解いた。
暗示を解くのは、一度条件つきで掛けた暗示の条件を満たしてあげるイメージだ。「(私が暗示を解くと言うまでは)この本のことを忘れて」というカッコつきの暗示を一旦掛けて、後からカッコの部分を満たす感じ。
なんとなくできていたけど、この仕組みを解明して明確な条件つきの暗示も掛けられると教えてくれたのは帆奈ちゃんだ。
その目から鼻へ抜ける地頭で、帆奈ちゃんは暗示の秘密を次々と解き明かしてくれた。
帆奈ちゃんが言うには、暗示の魔法は客体の思考を外から変えるのではなく、「指向性」のある魔力を送りつけて内側から変えるものなんだって。だから一度暗示を掛けると、たとえ暗示の状態が継続したとしてもこちらの魔力が減り続けることはない。
理解できないと帆奈ちゃんに訴えたら、
『とにかく、掛けては解いてを繰り返すんじゃなくて、掛けたままにしといた方が効率がいいってこと』
……らしい。
そんなわけで、私は帆奈ちゃんに掛けた暗示を解除するための条件を満たしてあげたのだ。
「どう? 帆奈ちゃん思い出した?」
「――――うん。本の内容が鮮明に思い出せたよ。やっぱりいい話だった。面白くはないけど」
「んふふっ、それならよかった」
最後の批判を付け足すことで演技ではないことを暗に教えてくれるのが帆奈ちゃんらしくて、思わず笑ってしまった。
「じゃあ、そろそろ研究はこれくらいにして、魔女退治に行くか」
「うん」
席を立つ。帆奈ちゃんもちょうどコーヒーを飲み終わったところだった。
そういえば、と思い出す。
いつものアイスティーを注文し忘れていた。金欠だしこの方が助かるけど。
(これからはずっと忘れたふりをしていようかな……)
なんて考えながら、帆奈ちゃんについていってレジでお会計をしてもらう。
帆奈ちゃんの赤いお財布をチラッと覗くと、中には私が想像するのもはばかられるような大金やカード類が入っていた。帆奈ちゃんは一人暮らしだから、お金の管理も全部一人でこなしているのだろう。
「憧れるなあ……」
不意に口に出てしまった。
私よりも大人で、しっかり者で、地に足がついている帆奈ちゃん。さっきの提案みたいに危なっかしいところもあるけど、帆奈ちゃんのそばに置いてもらえれば私はきっと大丈夫になるっていう確信があった。
――――今の私は、何が大丈夫じゃないのだろう?
突如浮かぶ疑問。
それが脳裏を掠めると、凍傷のように頭がキンとした。私が、何か大切なものをなくしているような……。
「瀬奈?」
店の出入口で立ち尽くしていた私を、帆奈ちゃんが心配そうに呼ぶ。
「あ――あっ……。あれ、帆奈ちゃん?」
「……大丈夫? 最近、よくぼうとしているけど」
「そうだっけ?」
「さっきがそうだったでしょ」
腕を組んで、不審そうに私を見つめる。
「時々しんどそうな顔してるけど……本当に平気なの?」
「そんなこと、ないと思うけど……」
「…………」
「本当に何もないよ? 私すごく元気だよ!」
たぶん帆奈ちゃんは私を疑っているんだ。でも私は何も隠していないから、そんなの言いがかりだよ。
帆奈ちゃんはしばらく私をじっと見つめていた。そのうち諦めたようにさっと身を翻して、店の扉を押し開けた。
「……そっか」
ぼそり、と返事する帆奈ちゃん。
その声は意外にも優しいものだった。私を責めるのではなく、あやすためのもの。
それが、チクチク来た。帆奈ちゃんは私が秘密を隠していると怒っているんじゃなくて、私を憐れんでいるような気がして……。
胸が詰まる。胃がじんじん痛む。
帆奈ちゃんが次々と暗示の魔法を紐解いてくれることや、それに伴って魔女狩りが上手になっていくことと、同じような不安だ。
「……帆奈ちゃんはどうしてそうなの」
帆奈ちゃんに聞こえないように、だけどあえて口に出した。
目の前の帆奈ちゃんは、宵の口の喧騒へとずかずか踏み込んでいく。私の言葉に気づいていないんだ。
それに安堵するのと同時に、親とはぐれたような恐怖を覚えた。私が立ち止まると帆奈ちゃんはきっとこのまま一人で道の向こう側へと消えていく。私をここに置き忘れて。
鳥肌が立つ。
だから私は自分を抱きしめて震えを鎮めながら、置いてけぼりにならないよう必死に帆奈ちゃんの背中を追いかけた。