チク、タク、チク、タク。
秒針が時間の経過を告げる。
床に垂らした無気力な腕を壁際に伸ばして、もぞもぞと探し物をする。指が冷えた硬い物体の感触を覚えると、それを暗闇に慣れ切った目の前まで持っていった。
サイドボタンを押して画面をつける。眩しい電子の光が無遠慮に瞳孔に飛び込んできて、一瞬きゅっと目をつぶった。
午後9時。案外そう経っていなかった。
用済みになったスマホをベッドの端へ放り投げる。
すると、視界がまた灰色の天井で埋め尽くされた。
仰向けになりながら、何の変哲もない地獄を眺める。
「…………」
つい先ほど暗示で見ていた幸せな夢の内容は忘れた。
皮肉にも過ぎ去った多幸感の味わいだけは分かる。まるでこの現実に連れ戻された私をせせら笑うかのように。
(もう一度、暗示を掛ける?)
体の向きを変えて、再び呪文を唱えようとする。しかし、
――――掛けては解いてを繰り返すんじゃなくて、掛けたままにしといた方が効率がいいってこと。
帆奈ちゃんの言葉を思い出して、はっとした。
私は、帆奈ちゃん的に言えば「効率が悪い」暗示の使い方をしてしまっている。
自分に暗示を掛けられることを解き明かしてもらって以降、家を出るときは必ず幸せな家庭を思い描いて暗示を掛けているし、何か嫌なことがあるたび暗示でそれをごまかしている。夜の耐えがたい空腹感も暗示でどうにか抑えている。更に私の場合は戦闘も暗示に頼りっきりだ。
息をするように暗示を使うから、魔力が日々凄まじいスピードで減り続けている。
自分でもよくないと思う。帆奈ちゃんに知られたら、きっと怒られちゃうって。
でも暗示を使わないと、今度は嫌な気持ちでソウルジェムが濁っていくから、どのみち結果は一緒だ。だったら、幸せな夢を見ながら濁った方がまだいい。
指輪を光に変え、宝石の形に凝縮させる。
「……グリーフシード、探さないと」
私のソウルジェムは既に宝石とは程遠い色になっていた。くすんだ紺色の石は私の心を象徴しているようで、見ないふりをしていた黒い憎しみがさながら廃棄物のように中に捨て去られている。
このまま黒に染まり切ったらどうなるのかは分からない。が、綺麗だった頃に比べ、魔力が足りなくなったことははっきり自覚している。
だから直感的に分かる――――ソウルジェムが濁り切ったその時は、魔法が使えなくなるだろう、って。
それはだめだ。
暗示がなくなるのは、絶対にだめだ。
私が苦しいだけならまだいい。でも、戦えなくなるのは、絶対に避けなければならない。
戦えなくなったら、二度とスマホは鳴らない。
戦えなくなったら、二度と名を呼んでもらえない。
戦えなくなったら、二度と会えなくなる。
「ぅっ……くっ……」
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。
総毛立った。膝を抱え、縮こまる。手も足も肩も首も腿も話を聞かずにガタガタガタガタ軋み、歯の根が合わないほどの悪寒を覚える。
探さないと。探さないと。探さないと。魔女を。魔女を狩らないと。狩らないと。狩らなくちゃ。魔女を。探して狩る。狩らないと。
焦燥に全身を支配される。
焦燥が私を突き動かした。
ツギハギの動きで玄関扉の前までたどり着き、寒風の吹き荒れる夜闇へ走り出した。
◆
私が向かったのは西町だった。まやかし町との異名を取る、大東の中で――それはつまりこの神浜市の中で――最も治安が悪い地域だ。
後先考えずに家を出たから、ネグリジェ一枚でそんな繁華街を歩くことになってしまったが、そんなことはもうどうでもいい。今は魔女を探すことが最優先事項だ。
ソウルジェムを手のひらに乗せながら、気色悪いネオンの光る歓楽街をひたすら進む。
酒に酔ったサラリーマン、ホスト然とした金髪の若い男性、露出の多いドレスを着て客引きするキャバ嬢。道端で他人と他人が形ばかりの口づけを交わし、日が昇るまでの束の間の快楽に溺れる。そんな人間の矮小さを体現したような夜の街。
しかし、嫌悪感を抱くより先に、
(一緒だ)
切実な共感を覚えた。
笑いさんざめく声を聞きながらすたすた歩く。
「おーい、お嬢ちゃーん」
ふと声がしたので、振り向く。
すると、ぱっと見30代くらいの金髪男性2人が、私に手を振りながらおぼつかない足取りで向こうのラブホテルからこちらに近づいてきた。
「ねえねえお嬢ちゃん、ここでその格好、そういう商売だよね?」
「見た目若いけど、ま、ここはサツにも見放されてるからなあ」
獲物を見つけたようにじわじわ迫ってくる。虚ろな目をしながら、私の身体に手を伸ばそうとする。
私は立ち止まった。もっと近寄ってもらおうと思って。
「おっ、いいってことかあ?」
あと何歩かで接触する。それくらいの距離になると、確認したいものが首にはっきりと見えた。
――――魔女の口づけ。
魔女に魅入られた人間に現れる魔女の印。受けた人間は破滅に誘い込まれるという魔女の呪い。
「……ありがとう」
ありがとう、神様。ここには魔女がいる。
「――――あ?」
ついに私の肩に触れようとした男の手首をくいっとひねり、容赦なく路地裏の壁へと突き飛ばした。
もう1人の男は魔女の口づけによって恐怖心をなくしたのか、仲間の末路に目もくれず、知性を失ったゾンビのようによろめきながら腕を伸ばしてくるのをやめない。
同様に手首を掴み、勢いよく腕を振って壁の方へ投げ捨てる。
ドカンッ、という人体が壁に殴りつけられた音。
突き飛ばしてから脳に直撃されたらどうしようと焦ったけど、確認してみればどうやら打ちどころがよかったようで、積み上がった死体のように気絶していただけだった。
ちょうどいい。今は眠っていてもらった方が自殺とかしなくて済むし、私も手間が省ける。
ソウルジェムに注目しながら暗い路地裏を突き進む。
できればさっきの男たちが起きるまでに魔女を倒しておきたい。死なれると事情聴取とかされるかもしれないし、そうなったら私がここをとんでもない格好で歩いていることがバレてしまう。
裏道のさらなる裏側に潜り込むにつれて、肌に伝わる魔女の魔力がどんどん強くなった。
地図を見ないで、入り組んだ迷路を無心に走る。
「……!」
そう経たないうちに、混沌と渦巻く魔女結界が見えた。
異空間の標識は妖しく私に手招きをして、来訪を乞う。
ようやく見えた希望に胸が躍り、食いかかるように中へ飛び込んだ。
◆
「…………」
魔女には勝った。
しかし、その勝利は空虚だった。余計にソウルジェムが濁っただけで、何の意味も、何の価値もなかった。
「やあ、瀬奈みこと」
意気消沈して俯いていた私の後ろから、得体の知れない白い生物が飄々と前に出てきた。
冷え切った路地裏の地面をトントンと叩く足音。
「キュゥべえ……」
「見せてもらったよ。新人とは思えない、実に洗練された戦いぶりだったね」
「……そう」
少年の声は淡々と話しかけてくる。でも、そんな言葉で褒められたって、グリーフシードを入手できなかった事実も、打ちひしがれた心も治らない。
キュゥべえは続ける。
「君の活躍のおかげで、魔女の口づけを受けた人たちは助かったよ」
「……そんなの、どうでもいいよ」
「それは、君の母親が助かったとしても、なのかい?」
…………。
「君は知らなかったようだけど、君が魔女を倒すまで、この地域で魔女の口づけを受けた人が多発していたんだ。その中には、君の母親も含まれていたのさ」
「…………。
……それがどうしたの。
私が助けたら感謝されるの? 助けたらお母さんは帰ってくるの?」
食ってかかる。
しかし私の気持ちに全く興味がなさそうに、キュゥべえはやはりそのぬいぐるみのお面をつけたまま同じリズムで尻尾を振っているだけだ。
「僕はただ、今回グリーフシードが手に入らなかったとしても、君によって助けられた者がいることを伝えようとしただけさ。それをモチベーションにして、今後も魔女狩りに励んでほしいからね」
「ふ……ふふっ」
「僕は何かおかしなことを言ったかい?」
「ふふふっ、ふふ……そう。それはよかった。私が死んだら、それを悲しむべき人は増えるんだ」
来た道をたどるために身を反転させる。
配管の交差する迷宮の中、避難口の明かりだけが凸凹の地面で揺らめいていた。
さすがは都会の恥部の最奥、アルコールだけでなく、もっと甘く危うい匂いもする。こんな場所にも自分はよく溶け込んでいるような気がして、いかに感覚が狂ったのかがよく分かる。
キュゥべえはおそらくまだ後ろにいて、この汚物の集積地に同化した私をあの赤い目玉で追いかけているだろう。
まるで墜落寸前の鳥を狙う獣のような獰猛な視線を背後に感じながら、私は逃げるように前へ前へと足を動かした。
足を交差させる動作を繰り返しながら、キュゥべえの話を反芻する。
――――それは、君の母親が助かったとしても、なのかい?
そう言われたとき、私は確かに喜んでしまった。そしてそれを自覚して、まだどこか希望を捨てられずにいる自分自身にひどく嫌気が差した。
希望は私を後戻りできない場所まで連れてきただけで、助けてはくれない。ご飯だって食べさせてくれない。
今は暗示の力で麻痺しているけれど、おそらく胃がその分泌液にじりじりと痛めつけられている。
そのことを、私以外の誰も知らないし、気にも留めない。
世界に置き去りにされた私を、希望は拾い上げてくれた?
「帆奈ちゃん……」
スマホを見ようとして、左胸に触れた。しかしそこには制服のポケットがなく、掴めたのはネグリジェの布だった。
「そうだ、持ってきてなかった……」
早く家に帰ろうと、更に歩みを早める。
夜が更け、街の歓声が極まった。
大通りまで戻ると、私は助けた人々のいる街を一目だけ見ようと振り返った。
きらびやかな人工光が夜空を明るく染め上げ、虚ろな喧騒と情欲に沈んだ人々があちこちで関わりを求めては離れる。
誰もここに佇む私を見ていなかった。感謝はおろか、心配さえもない。
――――私はどうして自分の魔力を犠牲にしてこんな人たちを助けたんだろう。
魔法少女としてあるまじき疑問を抱いた。
――――お母さんはどうして私よりこんな場所を選んだの?
疑問は怒りへと変貌していく。
私の中の繭が羽化しようと疼く。鏡を破り、手を伸ばして、私の首を絞めようとする。
「帆奈ちゃん」
夜風でかじかんだ両手を合わせ、神のいない町で祈る。この世で最も落ちぶれた、俗世的で、淫猥な場所で。
帆奈ちゃんが本当の私を見つけてくれますように。帆奈ちゃんが本当の私を見つけませんように。
そして、この祈りを乗せた風が、西に向かう風でありますように。
白夜の歓楽街に今度こそ本当に背を向けて、帰路についた。
反対方向にはお母さんがいる、その事実に胸を締めつけられながら。