「みこと、大丈夫よ……」
私を包む温もりがあった。
脆くて、悲しくて、痛ましい温もり。
でもその腕に抱きしめられていれば、どんなに辛い今であってもきっと大丈夫になると確信していた。
鈍色の床に散らかる手鏡の破片。その鋭いガラス片が突き刺さって流れる血液。傷だらけの体。
どうして世界はこんなに不公平なんだろう。
何もかもが悪いあの人は楽しく生きられて、何も悪くない私たちはボロボロになりながら傷を舐め合っているしかできない。
こんなアンバランスな箱庭を作った大いなる存在を呪いながら、私は私を抱きしめてくれたお母さんの背中を撫でる。
満身創痍になりながら、私を庇ってくれた。私よりお腹が空いているのに、自分の分まで私にご飯をよそってくれた。
どれだけの責め苦を負おうと、ひたむきに私を守り続けてきた難攻不落の私のお城。
弱くて無力な幼い私を――――全てをただ見ているしかできない私をそれでも包んでくれるこの温もりが、きっと世間で愛と呼ばれているものなんだろう。
だとしたら、私にもそれが芽生えている。
お母さんをこの地獄から解放して、その涙を拭いてあげたい。そうやって一緒に普通の幸せを掴むんだ。
この暖かい思いやりが、愛という言葉に当てはまるものだとしたら、私は後悔しないはずだ。
そうして私は手に持った包丁を見下ろす。
殺そう。
あの人を殺せば全てがうまくいく。
幸福のチケットでこのレールに乗った。あと少しで終着駅だ。
あの人は今泥酔して眠っている。体格では劣るから、抵抗される前に全てを終わらせる。この刃物を振りかざしてスパッと首を切れば、きっと大丈夫だ。
「…………」
その光景を思い描きながらも、私の足は動かない。
……本当は理解している。殺せるわけがないって。
この社会は二枚舌だ。絵本でも教科書でも暴力は振るっちゃいけないって散々言っているくせに、暴力を振るうやつを懲らしめることは許さない。
お母さんに迷惑を掛けないためにも、殺してはいけない。
覆しようのない現実に肩を落として、包丁をしまおうと体の向きを変えた。
――――その時だった。
「瀬奈みこと、何か悩みがあるようだね」
キュゥべえはひょっこりと現れた。扉も窓もちゃんと閉めていたし、家の中で物音がしていたなんてこともなかったから、すごくビックリしたけど……。
何はともあれ、願いを叶えてもらえると聞いた私は二つ返事で契約をした。
困惑する暇もなく、ただ縋れるものに縋ろうとの一心で。
「君の願いはそれでいいんだね?」
「うん、お願い――――あの人を……お父さんを、家から追い出して……!」
私は間違っていた。
気づかずに大きな間違いを犯してしまっていた。
見返りを求めない気持ちなんて存在しない。
私のこれは愛じゃない。
お母さんのそれも愛じゃない。
……思えば単純な話だった。
お母さんはあの人のことが好きだったんだ。だからどれだけ虐げられようと、あの人に泣きついて手放さない。たとえそれが私を苦しめることになるとしても。
私を抱きしめていた腕の温もりは、あの人への温もり。私を抱きしめていたのは、私があの人との子どもだからだ。
契約した翌日、あの人は家を去った。
他の女の人と一緒になるとか言って。
あっけない終わりに腹を抱えて笑い転げる私のとなりで、お母さんは泣き崩れていた。
あれから、お母さんは人が変わったように毎晩遊び歩くようになった。
どんどん減っていく生活費。爪に火を灯すような日々に追い詰められ、身体だけでなく精神もが痩せ細っていく。
もやしだけで料理したり遠い場所でも徒歩で行ったりと、渡されたお金の中でどうにかやりくりしようとしたけど、ついには朝食だけの生活になった。
でも、それだけならまだよかった。
そうしないうちに、代わる代わる知らない男が家にやってくるようになった。