送らなきゃ。
送らなきゃ。
送れ。送れ。送れ。
「…………」
意識が強く念じれば念じるほど、欲望ががん細胞のように広がり心を腐食させていく。
そう。だって昨日は大勢の人を魔女から助けたし、今日はちゃんと暗示を我慢して学校まで来た。それなのに私はまだ誰にも見つかっていなくて、無色透明で、するりと全ての枠から抜けていってしまう。
だったら、少しくらいは私に形を与えてくれるような出来事があったっていいじゃない。私を捕らえて、何かの型にはめて、ここにいてと首輪をつけてくれるようなことが。
帆奈ちゃんには何の関係もないことを言い訳にしながら、黒い決断に悦んで高鳴る胸をぐっと手で押さえた。
ずるり、ずるりと壁にくっつけた背中が落ちていく。
止まったままのスマホの画面は私の不安を照らし出す。その不安の背後に、期待という影が伸びる。
体育座りになって、屋上を閉ざした扉の倒影が灰色の床に映っているのを眺めながら、バクバクいってる心臓の音を聞く。
この瞬間、自分はまるで帆奈ちゃんのモノになったようだと錯覚した。
帆奈ちゃんは落とし物を取り戻そうとやってくる。この踊り場に忘れてきた帆奈ちゃんのモノを。
両膝に顔を埋め、床に置いたスマホの振動音を待つ。
「……遅い」
もうすぐで授業が始まるのに、帆奈ちゃんはまだ取り返しに来てくれない。
本当に、このまま私を放置するの?
私がメッセージを送らなければ、帆奈ちゃんは連絡してくれないの?
私が毎回毎回メッセージを送りつけるから、嫌々スタンプを送ってくれていただけ?
「…………」
……分かり切っていたことだ。商品を値札以上の値段で売ろうとするなんて、バカだ。買ってもらえるわけないのに。
浮かんできたたとえ話が胸にストンと落ちて、私は弁当箱を持ってふらっと立ち上がった。
こんなところで何やってたんだろう。そろそろ教室に戻らないと。
時間を空費した私を嘲笑うように本鈴が鳴る。
「……もう、いいや」
幸運だとかなんだとか並べてみたけれど、もういいや。
帰ろう。学校から。
それでもう来なくてもいいや。分不相応な幸運だった。
どうせもう来ないんだったら、授業している中堂々と教室に入って、それで堂々とカバンを持って出ていこう。
私が何をしたところで、世界は同じように回る。いいことも悪いことも、微かな風が流れて止まった程度のことでしかない。
それがもう、十分すぎるほど分かったから。
――――.•*¨*•.¸¸.•*¨*•.¸¸♪
「…………うそ」
刹那、携帯が鳴った。
慌てて振動する画面を確認すると、
〈帆奈ちゃん〉
帆奈ちゃんの名前が表示されていた。
チャットアプリの通話機能を使って、帆奈ちゃんが電話を掛けてきたのだ。
責め立てるように鳴り続ける着信音。
ボタンを押す前に、ごくりと唾を飲む。
息が荒くなって、肺が空気を掴み取ろうと膨張と収縮を繰り返す。
鳴りを潜めていた黒い影がくるくる私の足に巻きついて、階段の中途半端なところに固定した。
このまま、あと少しだけ。あと少しだけ放置する。
それでも構わないと告げて、着信音は鳴り続けた。
まるで私の居場所を遠く西側に知らせるように。私を発見するためだけに静寂の中を鳴り響いている。
その歓喜に打ち震え、足から崩れ落ちた。
「……帆奈、ちゃん」
つぶやいて、座り込んだまま帆奈ちゃんの求めに応じる。
「もしもし……」
「――――瀬奈ッ!」
スマホを耳に当てるや否や、かつてない大声が轟いた。
「は、帆奈ちゃん?」
「大丈夫!? 今どこ!?」
「…………え?」
帆奈ちゃんの切羽詰まった声音が鼓膜を叩く。息が切れていて、激しい運動をした直後だと推測できる。
耳の情報だけで何が起きたのかが理解できた。
きゅっと、唇を噛みしめる。
……浅ましい笑みをこらえるため、必死に。
この瞬間、値札以上の値段で私を買い取ってくれた感じがして、本当に本当にドバドバ来てしまった。
求められた幸せで全身がとろけてしまいそう。
もうこれで全部大丈夫。
今の私はすごく大丈夫になった。
「ごめんね、帆奈ちゃん。私、ちょっとお腹が痛くて寝ていただけだから」
「…………」
「心配してくれたんだよね? ありがとう」
「…………」
電話の向こうは無言のままだった。
すごく大丈夫になったつもりだったのに、その態度に胸がざわついた。
私の言い訳、まずかったかな。それとも演技が下手だった?
帆奈ちゃん、私があえてメッセージを送らなかったことに気づいたの?
「どうしたの? 黙り込んじゃって」
「――――よかった」
…………え?
「よかった……無事で。ごめん、休んでたのに邪魔して」
「――――――」
「お腹の方は大丈夫? その……何か食べたり動いたりするのは無理そう?」
「…………あ、えっと。大丈夫。大丈夫だよ! さっき寝たら完治したから! 平気!」
嘘に嘘を重ね、はつらつとした声を心がけて答える。
しかし、フリーフォールに乗ったように一気に最高潮からどん底まで落とされた。
私はものすごく後悔した……さっきまでの私はどうかしていた。救いようのない自意識を振りかざして、一番大切な帆奈ちゃんをモノ扱いしたのだと気づいた。
帆奈ちゃんは純粋に私を心配してくれたのに、私はそんな帆奈ちゃんの善意を踏みにじった。
自分の一番気持ち悪いところが溢れて、かえって帆奈ちゃんを大切に思う私自身を埋没させた。それはまるで、自分で自分を空気扱いしているような行為だ。
取り繕った裏で沈んでいく私に気づかず、帆奈ちゃんは同じ調子で話す。
「それなら、その……無理はしないでほしいんだけど、今日は神浜市駅で待ち合わせでもいい?」
「え……神浜市駅?」
「うん。瀬奈と一緒に行きたいところ、あって」
「魔女が見つかったの?」
「そうじゃないけど……」
帆奈ちゃんの声は心なしか柔らかい。たぶん私の仮病を信じてくれているんだ。
罪悪感に押し潰されそうになりながら、言葉を探す帆奈ちゃんを待つ。
「……実は入りたい店があって、それで一緒に来てほしいんだけど……ダメ?」
「帆奈ちゃんが、入りたいお店?」
「そう。とりあえずリンク送るから後で見て。今日は神浜市駅で集合ってことで。
――――ごめん、そろそろ教室に戻らないと怪しまれるから、また」
申し訳なさそうに言うと、帆奈ちゃんはピッと電話を切った。
ああ、そうだ。帆奈ちゃんだって今は5限だ。
帆奈ちゃんが謝ることなんてないのに、全部私が悪いのに、帆奈ちゃんはそうやって責任を背負ってくれた。
最低の私にも、帆奈ちゃんは手を伸ばしてくれた。
その優しさに対して、私は何をした?
「…………っ」
自責で涙が出そうになって、目をつぶって我慢した。
加害者である私に泣く資格なんてない。
スマホと弁当箱を持って、階段から立ち上がる。
このとき、帆奈ちゃんのトークルームから通知が来た。
「……そうだ、リンク」
すぐにタップして開く。
すると、チャットアプリから検索エンジンに飛んで、オシャレなデザインのホームページが表示された。
私なんかには縁遠い、いかにも恵まれた女の子たちが行くようなケーキ屋さんのホームページだった。名前の横には「神浜市駅前」と書いてある。
帆奈ちゃん、こんな素敵な場所、一緒に行こうって誘ってくれたんだ。
帆奈ちゃんと釣り合わない私を拾い上げてくれて、帆奈ちゃんを利用した私の手を引いて、私のそばにいようとしてくれている。
絶対に行かないと。私だってちゃんと帆奈ちゃんの気持ちに報いたい。
真一文字に口を結び、了承のメッセージを送ろうとした。
しかし、
「お金……」
ふと現実を思い出す。
わざわざメニューを見なくても掌を指すほど明らかだ。絶対に私じゃ手が届かない。
せっかく抱いた前向きな思いは、不運にも身の丈に合わないものだった。
『さっきは電話ありがとう!
帆奈ちゃんがリンク送ってくれたお店、すごくオシャレだね!
ただ、お小遣いがピンチで……。
お母さんに聞いてみるから、ちょっと待っててもらってもいいかな?』
帆奈ちゃんに報いるためにも、もう、あらゆる手を尽くしてお金を工面するしかない。
家にある物を売り払ってもいい。お母さんが最近連れてくるあいつの財布から取ってきてもいい。最悪、暗示を使って集めてもいい。
人に使うのはダメだと思って自制してきたけど……私を助けてくれない人たちのことはもう、どうでもいい。
ただ一人私を見ていてくれた帆奈ちゃんのために使うのが、きっと正しい。
そうしてできた文章を送信する。
授業に集中しているためか、既読はつかなかった。
どんな返信が来るんだろうと頭の中で色々な可能性を模索しながら、私も教室に戻ることにした。
◇
『とにかく来て。待ってるから』
◇
帆奈ちゃんは「とにかく来て」の一点張りだった。
いつもはツンツンしているふうに見えて私の意見を尊重してくれるタイプだから、珍しく押しが強い帆奈ちゃんに私はこれ以上口を挟まなかった。
そんなわけで、私は久しぶりに電車に乗って、神浜市駅に到着した。
帆奈ちゃんには後ろめたい気持ちがあったけど、きっと私がこんな調子じゃ楽しんでもらえない。だから気合を入れて、心を入れ替えたつもりで挑むことにした。
階段を上り、改札口に向かう。
すると。
「――――!」
なんと、改札口の外に見えた帆奈ちゃんはワンピースを着ていた。
初めて見る帆奈ちゃんの私服姿。貝紫色のサスペンダーワンピースに白いブラウスを合わせていて、童顔の帆奈ちゃんなのに大人っぽい雰囲気を醸し出していた。
落ち着いた佇まいと相まって、裕福な家の聡明なご令嬢みたい。
帆奈ちゃんは中学生で一人暮らしだし、調べたら学費免除を受けている特待生って出てきたから、何か事情があるのかなって思っていたけど……本当は水名のお嬢様だったかもしれない。
「帆奈ちゃん!」
込み上げてくる憧憬を声にして、私は帆奈ちゃんの方へ駆け出した。改札口のフラップドアがパタンと邪魔をしてくるから、バンバンバンとセンサーをICカードで叩きつける。
なんか帆奈ちゃんがやれやれと首を横に振りながらため息ついているけど、帆奈ちゃんに釣り合うようにもうちょっと優雅に行動した方がよかったのかな。
ともかく自動改札機を抜けた私は、小走りで帆奈ちゃんの前に向かう。
「お待たせ帆奈ちゃん! その服、どうしたの?」
ワンピースを指差すと、帆奈ちゃんは視線を宙に泳がせながら答える。
「あ……まあ、調理実習で汚しちゃったから」
あまりにも露骨に目を逸らすから、まともな理由のはずなのに、すぐに嘘だと分かってしまった。帆奈ちゃんは本当に自分を隠すのが下手くそだ。
「そうなんだ、大変だったね……。それなら私も私服に着替えた方がよかったかな」
「いや、瀬奈はいいよ。こっちは仕方なくだし」
「でもワンピースの帆奈ちゃんすごく大人っぽいし、ケーキ屋さんに行くなら、私場違いじゃない?」
「そんなことないでしょ。それより、体の方は回復した?」
別人になったつもりで来たのにいきなり掘り返されて、帆奈ちゃんの質問にビクッとしてしまった。
慌てていい感じの笑顔を作る。
「うん! 見ての通りすっごく元気だよ!」
「……だろうね」
さっきの自動改札機に対する暴挙を目の当たりにしたためか、帆奈ちゃんはこれ以上追及してこなかった。
そうして私と帆奈ちゃんは目当てのケーキ屋さんに向かった。駅前と宣伝しているだけあって、駅前広場に出たらすぐに木の看板が目に飛び込んだ。
広場のタイルを革靴で叩きながら、帆奈ちゃんに再度念を押す。
「私、今月金欠だから、本当にお金ないよ?」
「いいから」
「…………」
たぶん、帆奈ちゃんは私の分まで払う気だ。さすがにここまで来ると分かっちゃった。
本来なら断るべきなんだろう。
そんなの帆奈ちゃんに悪いって、帆奈ちゃんにそんな迷惑掛けられないって。
でも、帆奈ちゃんがこれほど頑固になって私を引っ張ってくれるのは初めてだ。帆奈ちゃんはフリではなく、本当に私の分のお金を払ってでもこのタイミングで私とここに来たいと思っているのだろう。
その意図はまだ断定できないけど、私が遠慮したところで帆奈ちゃんはきっと折れないし、かえってイラつかせて反感を買うと思った。
だからおとなしく帆奈ちゃんに従って、お店の中に入る。