「じゃあ、私はスコーンにしようかな」
最後のラインで踏みとどまった。
他人のことなんてどうでもいい、私を助けてくれないやつらに優しくする義理なんてない――――そんなふうに強がりながら、私の心は他人に暗示を掛けずに済むことに胸を撫で下ろしてしまった。
それに嫌気が差して、気を紛らすために帆奈ちゃんに聞く。
「帆奈ちゃんはもうちょっと見てる?」
「ん……あたしはまあ……」
帆奈ちゃんはなぜか言葉を濁して、答える代わりに店員に小さく手を挙げた。それに気づいた店員はこちらに来ることなくむしろ背を向け、キッチンへと歩き出す。
注文をするはずなのに、一連の妙な動作。
私はすぐに答えにたどり着いた。そのすぐ後、トレンチを持った店員が答え合わせをするかのようにこちらに近づいてくる。
「ご予約のアフタヌーンティーセットです」
そう言うと、ケーキをいっぱい乗せた丸いお皿を私の前に置く。
チーズケーキ、モンブラン、タルト、シフォンケーキ、スコーン……サイズこそ一回り小さくなったが、定番メニューで紹介されていたスイーツが全てそこにあった。でも何より私の目を奪ったのは――――
チョコペンで書かれた、Mikotoという文字だった。
「…………」
私のために作られたケーキなのだと、そう告げているようで。
「……あれ」
思考が止まった。
そうして脳が自分の気持ちを言語の枠にはめるより先に、ふと頬を熱いものが撫でた。
今、何が起こったんだろう。
うまく反応できない。
きらきらしてて、不思議で、胸が痛くて、怖くて。
理解できない。
理解できない何かが溢れてくる。
その何かが、とめどなく溢れてくる。
なんで、私の名前が書かれているんだろう。そこに私の名前が書かれていいわけ、ないのに。だって、私のために作られていいわけがない。私にはふさわしくない。
帆奈ちゃんがわざわざ私のためにお店を予約したり、こんなサプライズを考えてくれたりして費やした時間が、その英文字に凝縮されているような気がして……。
それがたまらなく嬉しいはずなのに、そんな優しさを私が受け取っている事実が許せなくなって、その気持ちがどんどん流れていく。
私はようやく、私は泣いているのだと気づいた。
「……く……ぅっ」
「…………」
「ご、ごめっ、泣いて……っ」
制服の袖を不細工になっているであろう顔にゴシゴシ擦りつけ、自分の失態を止めようと必死に目を擦る。しかし、涙は言うことを聞かず溢れてばかりで、袖をどんどん濡らしていくだけだ。
「……ほら、ハンカチ」
そんな私に、向こう側から帆奈ちゃんがハンカチを手渡してくれた。それをありがたく受け取って、まぶたに当てる。
「ごめん、私お店の中でこんな……」
「誰もこっちを見てないって。それより、落ち着いた?」
「……うん」
白いハンカチで涙を拭き取る。帆奈ちゃんがただ静かに私を見つめて待ってくれるから、涙をどうにかしようとする焦りが収まって、自然に息が整ってきた。
「ごめんね。人にこんなことしてもらったの、初めてで……それで、本当に嬉しくて」
「そう」
「うん、だから……もう大丈夫」
嘘はついていないけど、隠し事をした。
嬉しさを上回る気持ちが胸の中にあるのを自覚していたからだ。
それを明確に言語化することはできないけど、ネガティブな感情だということは分かる。手を伸ばしたって届かないと分かっているから……だから、私はこんな素敵な贈り物を受け取って、辛くなったんだ。
帆奈ちゃんからのサプライズが来てから数分経った。
私の目の腫れが収まったことを確認したのか、帆奈ちゃんはふとこぼす。
「じゃあ、注文するか」
「え?」
「あたしの分、まだでしょ?」
……帆奈ちゃん、一緒にアフタヌーンティーセットを食べるつもりじゃないの? 本当に私のためだけに注文したってこと?
目を皿のようにする私に構わず、帆奈ちゃんは再び店員を呼んだ。今度はまっすぐこっちに来た店員に、
「スコーン1つといちごパフェ1つでお願いします」
私が食べたいと言っていたスコーンと、更にいちごパフェまで注文した。
ぷいっと、照れ隠しのように顔を背ける帆奈ちゃん。
ああ、そうか。
本当に、帆奈ちゃんは分かりやすい。
サプライズを用意したのに私の注文を待っていたのは、私の食べたいものを追加で注文して、私に分けるつもりだったんだろう。
「…………んふふっ」
帆奈ちゃん、腕を組んだまま何事もなさそうにしてるけど、よく見たら赤くなってるし、私の方を見てくれない。
帆奈ちゃんも帆奈ちゃんで、頑張ってカッコつけてるんだ。
方向性がちょっと違うけど、この場で必死に取り繕っているのは自分だけではないと気づいて、なんだかほっとした。
しばらく二人でお喋りしていると、帆奈ちゃんの注文したいちごパフェが来た。
いちごアイスにいちごクリームにいちごゼリーにいちご、と、これでもかというほどいちご尽くしのパフェだ。
「こんなに食べられないから瀬奈が先に食べて」
案の定、帆奈ちゃんはパフェを私に押しつけてくる。
「帆奈ちゃん、アフタヌーンティーセットも食べてないでしょ? 私だってこんなにたくさん食べられないよ」
これは嘘。
もやしの味に慣れ切った舌が何年かぶりのケーキにはしゃいで、もぐもぐと食べ物を縮んだ胃に詰め込もうとしている。ようやく空腹状態を空腹状態だと認識した脳は今のうちにカロリーを補充しろと指示を出し続けている。このお店のケーキを瞬く間に一掃できると、そう思えてしまうほどに。
でも帆奈ちゃんの前でそんな大食いするのは恥ずかしいし、そもそもこれは帆奈ちゃんのお金で買ったものだ。
だから私は代案を出した。
「ふたりでシェアしない? 帆奈ちゃんが私のケーキセットから好きなのを選んで、私が帆奈ちゃんのパフェをおすそ分けしてもらうの」
「だから、そんなには食べられないって――――え?」
「はい、あーん!」
まだ虚勢を張っている帆奈ちゃんに逃げられないよう、長いパフェスプーンでピンクのアイスを掬って、帆奈ちゃんの口元まで運ぶ。
帆奈ちゃんはそんな私の動作にいよいよ余裕をなくしたのか、あからさまに慌て出した。
「ちょ、ちょっと、瀬奈……っ」
「帆奈ちゃん、食べないと溶けちゃうよ?」
「人が見てるって……!」
「誰もこっち見てないんじゃなかったの?」
「~~~~~っ」
私を慰めるための台詞をこんなことに使われて、帆奈ちゃんは悔しそうにこちらを睨みつけた。
むすっと口を結んで、たぶん無自覚にりんごのように赤いほっぺを膨らませている。
帆奈ちゃん、拗ねるときは案外拗ねるんだよね。
「はーんなちゃん、はーやーくー」
急かすと、帆奈ちゃんはようやく小さく口を開けてくれた。はらりと落ちた髪を耳に掛け直しながら、差し出したスプーンに顔を近づけていく。
(……!)
その仕草に、心臓がドキリと跳ね上がった。
顔立ちこそ幼いけど、帆奈ちゃんには不思議な色気がある。たぶん大人っぽいところがあるからかな……動作がペルシャ猫のように艶やかだ。
唇がスプーンに触れる。硬い金属を受け入れて、柔らかな花弁は咲くように開かれる。食らいつきながら、混ぜ合わせるように舌で拭って。最後の一滴まで吸い上げると、帆奈ちゃんはごくんと喉を震わした。
「あっ……」
突如に昨夜の行為を思い出す。
スプーンを伝って、帆奈ちゃんの温もりが私の身体に伝染する。この明るい空間にあってはいけない気持ちで、私の中が疼き出した。
……初めてではない。もう何度も、今目の前にいる帆奈ちゃんを想像しながら自分を慰めてきた。ただ帆奈ちゃんのそばにいたい一心で、寄り添ってもらいながら現実から逃げているだけだから、実際に帆奈ちゃんと接するときには支障はなかったけど……。
今は、ちょっと、ダメだ。
たぶん私、今、すごく帆奈ちゃんに抱きしめてもらいたくなっちゃった。
「……瀬奈?」
食べ終わった帆奈ちゃんが、小首を傾げながらいつまでもスプーンを宙に置いたままの私を怪訝そうに見ている。
「え、あ……う、うん。ほら、帆奈ちゃんがスプーンを使って」
本当は自分がそのスプーンを使うつもりだったけど、意識してしまって、スプーンをパフェに突き刺したまま帆奈ちゃんに押しつけ返した。
「いや、だから瀬奈が『おすそ分けしてもらう』、じゃなかったの? 食べたい分だけ取りなよ。さっきといいなんであたしが食べることになるの……」
呆れ返りながらパフェを私の前に戻す帆奈ちゃん。
でもダメだ。今帆奈ちゃんと間接キスなんてしちゃうのは、私がすごくダメになる。
「帆奈ちゃんのなんだから、帆奈ちゃんが先に食べてよ」
「そしたらどれくらい残せばいいか分かんないでしょ」
「……もうっ」
結局押し問答になってしまって、私は仕方なく帆奈ちゃんの使ったスプーンでパフェを何口か食べた。口に入れるたび帆奈ちゃんとキスしちゃってる感じがして、せっかくの天文学的数字なパフェなのに、もう味どころじゃなかった。
その後スコーンも来て、私たちはお腹いっぱいになりながらも貴重なひとときを過ごした。
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「本当にごめんね、払ってもらっちゃって……」
楽しい時間はあっという間に過ぎる。ケーキを平らげた私たちがお店を出たときには、既に三日月が夜空に掛かっていた。
「いいって。あたしが無理を言って来てもらったんだからさ」
「でも……」
「後で返すなんて、絶対に思わないでよ。返されても受け取らないから。無理を言ったのはあたしの方なの!」
腕を組みながら、譲らないという姿勢で念を押す帆奈ちゃん。
繰り返し自分が無理を言ってきたと強調しているけど、帆奈ちゃんは私が根を詰めすぎないように配慮してくれているのだと思う。
そんな帆奈ちゃんの気持ちをあだやおろそかにはできない。たとえ受け取ってもらえないとしても、お金を用意するくらいの誠意は見せるべきだ。
密かに覚悟を決めて、私は帆奈ちゃんと一緒に神浜市駅の改札口を通った。
ただでさえ神浜最大の駅である神浜市駅は通行量が桁違いだ。それに加え今は帰宅ラッシュの時間帯だから、駅構内は帰路に着くサラリーマンと学生で溢れ返っていた。
人波をかき分けながら、私と帆奈ちゃんは分かれ道に向かう。
帆奈ちゃんは水名で私は大東だから、電車は反対方向だ。それに対応して、左側の階段と右側の階段をそれぞれ下りることになる。
行き交う人群れの中で、私たちは束の間の交点を離れて各々の線路に戻ろうとしていた。
「……じゃ、また」
帆奈ちゃんは私に小さく手を振った。振って、くるっと左の方へ体を向けた。
雑踏に紛れていく。
私も帰ろう。
今日は楽しかったな。
帆奈ちゃんに誘ってもらって、一緒にオシャレなケーキ屋さんに行った。
予約してもらって、私の名前入りのケーキプレートまでサプライズしてもらった。
ケーキ、おいしかったな。久々にお腹いっぱいで本当に幸せ。
わざわざスコーンやパフェも注文してもらって、しかも……間接キス、しちゃった。
帆奈ちゃんが私のためにたくさんお金を払ってくれた。
もうこれ以上は望まない。望めない。これ以上なんて、絶対にない。思いつかない。
「…………」
際限のない思考に耽って、私はその場に立ち尽くしていた。
帰らなくちゃいけないと頭では理解していながらも、足が動かない。
動かそうとする。
右の階段を下りないと。
でも、強く結びついた磁石のように、私は離れられない。
左の階段を眺める。もう帆奈ちゃんはそこにいないのに。
眺めて眺めて、人の流れを遮る置物になった。
通路のど真ん中で突っ立っているものだから、通行人から邪魔そうに睨みつけられたり驚かれたりしている。
意外にも恥ずかしさはなくて……ただ色を失った世界が心底どうでもよかった。
そんなときだった。
――――ぼんやりと見つめていた先に、左の階段を上る帆奈ちゃんの姿が見えた。
「え……」
小さな人影がどんどん大きくなる。まっすぐ、ずたずたとこっちに向かってきている。
ついに私の前に止まった帆奈ちゃん。
何も言わずに、ただじっと私の顔を見つめていた。
「…………」
周囲の喧騒に反して、私たちの間は静寂に満たされた。
私が、何か言わないと。
「……帆奈ちゃん、帰らないの?」
ブーメランだけど、一応質問を投げてみた。
「瀬奈は帰るの?」
本当にブーメランで返ってきた。
「か、帰るよ。今日楽しかったなーって、ぼうとしてただけだから」
「……そう」
「じゃあ、またね、帆奈ちゃん」
今度は私が背を向ける。不自然に突っ立っていたことをごまかすためなら足は動くのだから不思議だ。
しかし、
「……え?」
帆奈ちゃんが腕を伸ばして、私の袖口を握った。
ぎゅっ、と。
……なんで?
なんで帆奈ちゃんは今、私の服を掴んでいるんだろう。そんなんじゃ、まるで私を引き止めているみたいで……おかしいよ。
「は、帆奈ちゃん?」
「…………」
帆奈ちゃんは不自然に俯いて、視線を床に落としている。どうしようか決めかねているようだった。何を迷っているのかは、見当もつかないけど。
「……お金、返さなくていいから。それだけ」
そっと、帆奈ちゃんは手を離す。
わざわざこのことだけを言いにこの場に戻ったとは思えないが、かといって他の可能性も想像できない。だから私は、帆奈ちゃんの言葉を素直に受け取るしかなかった。
「うん……分かった」
お金はどうしよう。ここまでされても話を聞かずにお金を用意したら、むしろ怒られそうだ。本当にお金を返さなくてもいいのかな……。
どこかでほっとした自分に気づき、やるせない気持ちになった。
「……それじゃ、帰るから」
「うん」
帆奈ちゃんは再びくるりと背中を見せた。背中を見せて……立ち止まって、ちらりと私の方を見る。
一瞬苦虫を噛み潰したような顔をしたが、黙々と私から遠ざかった。
帆奈ちゃんは、一体何がしたかったのだろう。
私は10分ほど同じ場所に立って、また帆奈ちゃんが来てくれないかとどこかで期待してしまっていたが、さすがに二度目はなかった。
最後、私も観念して右側の階段を下りた。