団地への帰り道で夜空を見上げた。
大東といえど大都市の一部だから、いつもなら星はあまり見えないけれど、今日は
金平糖のような星屑がキラキラ瞬いている。
暗闇の中でも、目を凝らせば光は見つかるんだ。
「んふふっ」
その場にいたときはどこか悲しかったけれど、改めて帆奈ちゃんにサプライズを用意してもらったことを思い出すと、事実であるのがたまらなく嬉しい。
帆奈ちゃんが私のために何かをした。それは、私が帆奈ちゃんの空を彩る星の一つなんだってことなのかな。
甘い時間に耽っているうちに、私は団地の入口にたどり着いた。
神浜大東団地は神浜屈指の大所帯だ。公園や散歩道などの設備が数多く用意されているだけでなく、敷地内には商業施設も入居している。
高齢化の影響がなかった昔はもっと活気溢れる場所だったらしいけど、廊下を歩いていると、今も幸せな子育て世帯が多いんじゃないかなと思う。それはそれぞれの部屋から響いてくる笑い声だったり、晩ご飯の匂いだったり。
「…………」
せっかくの上機嫌がまた現実に連れ戻される。
もうお腹いっぱいなのに、どうして漂ってくるカレーの匂いはこんなにおいしそうなんだろう。
周りに気を取られないよう無心になってカツカツと歩き、気づけば部屋の前に立っていた。
みんなが一家団欒の時を楽しんでいる中、私が入ろうとしているのは静かで暗くて、無人の空間。
もちろん、だからといって帰らないわけにはいかない。私にはここ以外に帰る場所なんてないから。
スクールバッグの前から鍵を取り出し、鍵穴に挿し込んで左に回そうとする。
が、
「あれ。鍵掛けるの忘れてたかな」
カチカチ鳴らして気づく。なぜか鍵が掛かっていない。
不思議に思いながらドアノブを引いた。扉は重い腰を上げた老人のように古めかしい金属音を立て、暗闇のベールに包まれた中の様子を私に開示した。
「――――っ」
男女がいた。薄暗い中、玄関から続く細い廊下の途中で、絡み合いながら口づけを交わしている。
人体から発するアルコールの強烈な臭いが肺に侵入してきて、
「うっ……」
思わず手で鼻を覆った。
入ってくる私に気づいていないのか、それとも見せつけているのか、男女は淫猥なディープキスを続ける。クチュクチュと混ぜ合わせるような水音。愉楽を溶かした唾液が、両者の重なった唇からこぼれる。
そのうち女はふらついて、壁にもたれかかろうとした。それを男が女の腰に手を回し、受け止める。全身を壁に押しつける形で、男は女の口に舌を入れながら、腰を支えていた手を臀部に滑らせた。
「んっ……」
女は犬のように従順だ。身体を犯されようとしているのに、前戯の悦に浸って男に身を委ねている。その女にどんな属性があってどんな責任があろうと男の前では単なる雌で、男の欲望を一身に受ける快楽に溺れている。
「……あれ、みこと?」
ふと女は顔を上げて、気だるそうに私の名を呼んだ。その顔は性欲とアルコールの影響でひどく紅潮している。
「…………」
押し黙った。自分の脳が麻酔薬の中に投げ入れられて、何を感じているのか、どう行動すればいいのか、そんな分析をするための機能が全て停止したからだ。
女は崩れかけた姿勢を正してふらっと立ち上がり、よろけながらもこちらに歩いてくる。それに対して廊下の向こう側に残された男は無表情で水を差した私を見つめていた。
「みこと、いいお知らせがあるの」
「…………」
「あなたに新しいパパができるの。私たち、結婚するから」
結婚。
って、何だろう?
玄関に突っ立ったままの私の腕を握り、女は私を廊下の先へと引っ張っていく。
私は従った。というより、動き方を忘れたのだ。
ずるずると引きずられていく。
二人の情事が行われた場所を踏み越え、リビングに向かった。今度は男も動いて、私たちの後に続いた。
この部屋は世に捨てられた空間だ。
窓明かりが冷ややかにリビング内部の様子を照らす。ごみ袋と酒瓶と飲み終わった缶ビールの散乱したフローリングの迷路を、女は千鳥足で踏み込んでいった。
「さっき話していたんだけどね」
「…………」
「家族チャットを作ろうって」
「…………」
「彼はみことのことも背負ってくれるんだって。だから3人で家族写真を撮って、それをアイコンにするの」
窓のそばまでたどり着くと、女は服のポケットからスマホを取り出した。それに追随して、さっきまで無言を徹していた男は今だけ不気味に笑顔を作り、私と女の肩に腕を回して間に挟まってくる。
「みことちゃん」
細く、しかし蜂蜜のようにねっとりとした男の声が私の名前を囁いた。
「もっとこっちに寄ろう?」
男の人のゴツゴツした大きな手の感触が、肩の触れた部分から私の皮膚に炎症を起こし、広げていく。
この密閉空間の空気に当たった人体の表面を全て掻きむしって剥がしたい。そうしないと臭気に化学反応を起こして痒くてたまらない気がする。しかし体は動かない。麻酔で動かない。私の臓器は試験管の中に入れられて新鮮なまま死んでいる。
そうしてスマホの画面内に3人が収まった。
ああ、そうか、と思った。
脳だけがようやく動き出した。たぶんそれは分からなくちゃいけないことを私に分からせるためだ。
――――あの人を……お父さんを、家から追い出して……!
私はあの時からずっと信じていた。どれだけ仮面の裏を傷つけられようと、どれだけ魂を呪いに染めようと、私はどこかで信じていた。
希望を――――お母さんと二人三脚で暮らしていけるという当初の願いを、心の奥底でずっと信じていた。
私、お母さんはいずれ私を選ぶのだと、そんな
履き違えていた。私は履き違えていた。間違えた。摂理。もっと徹底的な摂理だ。必要と不必要はもっと明確な区別だ。
逆に質問しよう。なぜお母さんは私を選ぶ? 私はお母さんの人生に何かの付加価値を与えた? 私の存在は、お母さんに何のメリットがあるの?
そうだ。
そうだ。見返りを求めないものは存在しない。
必要とされるためには、その分の必要性がなければならないんだ。
――――――パシャ。
静かにカメラの音が鳴った。
女と男は何かを話している。
私はボトルの転がる床を歩いてトイレに行った。
吐いた。
甘いものと胃酸の混合物にむせながら、嘔吐した。
久々の楽しい食事が、こうしてあっけなく吐瀉物と化す。
胃が再び空になるまで出し切って、トイレの床に座り込んだまま上半身だけ便座の上でうつ伏せになった。
暗い。
酸っぱい。
それで、便座が冷たい。
お酒の臭いを上回るほどの刺激臭。
肌が火照る。痒い。
痒い。
あと、ガラスが割れる音がうるさい。
キンキンって。
鼓膜を切り開いていく。
キン
キン
キン
キン
キン
って
プラスチックのズレる音。
何かで耳を塞がないと。
「帆奈ちゃん」
帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん帆奈ちゃん
あ、そっか。
なんにも怖がる必要ないんだった。
だって私には帆奈ちゃんがいるから!
立ち上がって、吐いたものを流した。便座もきれいに拭き、洗面台まで行って何度も口をすすいで顔を洗った。
タッタッタッと玄関まで踊るように走ったら、さっき落としてしまったバッグを拾い上げる。
私、何してたんだろう? 怖い映画でも見て、体が勝手に怯えてしまったみたい。
ほら、だって、ここに立ってみれば分かる。この空間は小さい。壁も天井も、玄関も廊下もリビングも全部灰色で小さい。こんな小さい空間に引きずり込まれる夢を見て怖がっていたんだ。
さっさと出なくちゃ。
˖⁺‧₊˚✦ ⊹ ࣪ ˖ . ݁₊ ⊹ . ݁˖ . ݁₊˚⊹ ࿔˖⁺‧₊˚✦ ⊹ ࣪ ˖ . ݁₊ ⊹ . ݁˖ . ݁₊˚⊹ ࿔
扉を押して夜風に当たると、手すりの向こうに広がる一面の星空が視界に映った。
キラキラ。
私が走り出すと、空に散らばった金平糖は一緒に踊ってくれる。
それでふわふわした団地の螺旋回廊をぐるぐる下りて、オレンジ色の窓たちを1階ずつ飛び越えていく。
階段にリズムを刻む。チリンチリン。軽やかにスクールバッグの鈴が鳴る。ひゅうひゅうと向かい風。風の中でステップを踏む。
アスファルトのベッドに飛び込んだ。くるっと寝返りを打つ。私が通ると星も家も流れていく。体の中がワクワクして、心臓が飛んでいきそうになっている。
もうすぐ0時になる。今からガラスの靴を手土産にして幸せへの馬車に乗る。私は解けない魔法の中にいる。解けない幸せの魔法の中で眠りにつく。
それで私は王子様に
『それで、こんな時間に何しに来たの?』
『散々迷惑掛けてるっていい加減分からないの?』
『――――あんた、もう魔法が使えないでしょ』
「ぁ…………」
風が頬を切る。電車が私を置いて遠くへ行ったから。
無音の駅のホームに、ぽつんと一人。
足がガクガク震えるから、しゃがんだ。
上半身の重量に負けて、膝が地面についた。
視界が揺らぐ。
向こう側にあるホームがゆらゆら揺らめいている。
ノイズ掛かった古いテレビのように。
途切れ途切れに受信している。
❖落ちよう (→???)
❖落ちよう (→???)
❖落ちよう (→???)
「ふ……ふふ」
ぐっとかかとに力を込めて、立ち上がった。
海をかき分けるように、前に進む。
死ねばいいんだ。
希望のない世界から逃げるには死ぬしかない。
こんな簡単な終わり方、なんで分からなかったのかな。
一歩。一歩。
あと一歩。
あと一歩で線路に落ちる。
次の電車が到着します。
そしたら落ちよう。
10
9
8
7
6
5
4
3
2
1
『瀬奈』
…………分かっていた。
私は終わりを迎えるつもりがないって。
まだ一握りの希望があるから、死ぬ気にはなれないんだ。
「ごめんなさい、帆奈ちゃん……」
本当にごめんなさい。
とめどなく溢れてくる涙を拭きながら到着した電車の中に入っていった。
誰もいない。そもそもこの時間帯は西側から戻ってくる人たちばかりだ。
端っこの席に着き、壁に寄りかかった。
電車が動く。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。揺られながら、帆奈ちゃんの姿を思い浮かべる。
必要とされるためには、その分の必要性がなければいけない。
帆奈ちゃん、私の必要性はどれくらいなの?
本当のことを話したら、私の必要性はどれくらい減ってしまうの?
私の必要性は何でできているの?
ううん。それ以前に、帆奈ちゃんが私といるのは私が必要だから? それとも、帆奈ちゃんが優しいから?
もっと優しくすべき相手が出てきたら、私から離れていくの?
ねえ、帆奈ちゃん。
私を選んでほしい。
帆奈ちゃんは、希望を信じる人が勝つ話はいい話だって言ってたよね。
私、そんなの信じていなかった。希望が勝った試しなんてないから。
でも、人は絵空事だって分かりながらも、結局希望を抱いてしまうんだね。
帆奈ちゃんが私のそばにいれば、希望は勝つ。
私の物語はいい話になって、この世界はきっとキラキラ輝く。
だから、私を選んでほしい。
私がこの世界をまだ信じていたいのを、許してほしい。