3-1 境界線
午前0時、チャイムが鳴った。
「……不審者?」
解いていた数Ⅲの問題集をパタンと閉じ、腰を上げて玄関に向かう。
酔っ払いか、本物の不審者か、それとも魔女の影響を受けた人間か。
普通なら背筋が寒くなるような状況だが、魔法少女であるあたしが応対する分にはさほど危険はない。
裸足で玄関のたたきまで行き、ドアスコープを覗く。
「……!」
来客の正体を知ると、あたしはすぐさまドアを開けて対面した。
「瀬奈……」
瀬奈が外に立っていた。
星のない空を背景に、冷えた外気に肌を突き刺されながらガタガタ震えて縮こまっている。皮膚に食い込みそうなほど強く両手を握りしめ、あたしに目を合わせず俯いたままでいる。
あたしは矛盾した感情を抱いた。
どうしたんだろう。心配だ。昔の自分のようだ。力になりたい。
それと同時に――――嬉しい。
瀬奈に会えた。
瀬奈があたしのところに来て、頼ってくれた。
これで、もう少しだけ瀬奈と一緒にいられる。
姿を見ただけで、胸が鳴り出して世界が鮮やかになった。瀬奈がこんなやつれた顔をしているのにもかかわらず、だ。
瀬奈の力になりたいという純粋な願いの裏に、優しい世界を享受していたいというあたしの浅ましいエゴが見え隠れしている。
この感情を自覚するたび、あたしは瀬奈をしがらみから解き放ちたいのか、それともただ自分がこの冷たい世界から逃げたいだけなのかを自問する。
結論に至れたことはない。
そんな自分に嫌気が差すが……いずれにせよ、あたしのとるべき行動は変わらない。
今できることは、瀬奈を冷たい夜闇から温かい室内に迎え入れることだけだ。
「……入りなよ」
ドアをもっと大きく開けて瀬奈に伝えると、ようやく瀬奈は顔を上げてくれた。
――――泣いた跡。
目尻に少しだけ残った白い涙痕を、あたしはすぐに見つけてしまった。
「……っ」
はらわたが煮えくり返る思いだった。
あたしがもし帰り際に伝えたいことを伝えられていれば、泣かせずに済んだかもしれないのに。
もうちょっとだけそばにいれば。帰らなければ。もっと遊ぼうとか、そういう気の利いたこと言えていれば。
たとえ結果論だとしても、瀬奈に手を差し伸べることができなかった自分が不甲斐ない。
瀬奈は出会った頃から不安定なところがあるが、最近は特に顕著だ。
機嫌がいいと思ったら、急に真顔になったり。喋っている最中にぼうと立ち尽くしたり。
今日も準備していたサプライズをしたら、明らかに常軌を逸して泣いてしまっていた。
「……帆奈ちゃん、ごめんなさい」
足を動かす代わりに、瀬奈は第一声であたしに頭を下げた。深々と。
やはりおかしい。
瀬奈は常に友人同士の近い距離で接しようとしてくる。遠慮がちであっても、頭を下げるなんて動作は初めて見た。
正直何があったのか問い詰めたいくらいだが、瀬奈にあたしの動揺が伝わってはいけない。あたしだって、いじめられていた頃は何をされたかなんて他人に聞かれたくないわけだし。
だから、平然とした口調で答える。
「明日休日だし、あたしもちょうど暇だったから。中に入りなよ」
「……うん」
そう言うと、瀬奈はようやく頷いて、あたしの後に続いてくれた。
◇
瀬奈にパジャマを渡して、先にシャワーを浴びてもらった。
その間、あたしはキッチンで紅茶を淹れることにした。
「どれがいいかな……」
ダージリン、アッサムティー、アールグレイ、ブレンドティー、和紅茶。
買ってみたはいいものの、違いがよく分からない。
というのも、自分はどちらかというとコーヒー派なのだ。紅茶は滅多に飲まないし、飲んでみたところで全部同じ味のように感じてしまう。
飲みもしないのにこうして多種多様な紅茶がかつての空きスペースにずらりと並んでいるのは、スーパーで見かけるたびついつい買ってしまっていたからである。
とりあえず全種類揃えとこうという、盲目的な蒐集だ。
我ながら非経済的なことをしていると思うが、今夜こうして役に立とうとしているのだから、いらぬ物も三年経てば用に立つとはよく言ったものだ。
「もう本人に選んでもらった方がいいかもなー」
袋をそれぞれ手に取って見比べてみたり香りを嗅いだりしたところで、違いが分からないまま。だったら、ここは瀬奈に好みのものを選んでもらおう。
……いや、でも。
瀬奈のことだから、あたしの選んだやつにしようと、おすすめとか特徴とかを聞いてくるに違いない。それで答えられなかったら、あたしが興味ない紅茶を買い込んだ理由が露見してしまう。
「……ダージリンでいいや。なんか名前よく聞くし」
ティーバッグを1つ摘んで、先刻初めて棚の奥から取り出したステンドグラス風の青いカップに入れる。
瀬奈にだけ淹れても不自然なので、あたしのマグカップも取り出した。
お湯を入れると、花蜜のような甘い香りがキッチンに充満した。
なんというか、天真爛漫な香りだ。
ティーバッグだけでは分からなかったが、ダージリンで正解だな、と思った。
そういや、瀬奈はいつもアイスティーにシロップをたっぷり入れているから、万年未開封だったかわいそうな蜂蜜も解禁しよう。
ついでにミルクとかレモンも入れてもいいかもしれない。今は手元にないけど、次回はシナモンパウダーを掛けてみたり、チョコチップを散りばめたり、マシュマロを入れてみたりして……クッキーやケーキと合わせてもおいしそう。
冷蔵庫を眺めていると、柄にもなく楽しくなってしまった。
「帆奈ちゃん?」
このとき、シャワー上がりの瀬奈の声がした。
振り向くと、
「――――っ」
水気を含んだ髪を無造作に下ろして、全身がほんのり赤らんだ瀬奈のしどけない姿が目の前に晒される。
いかにも量産品ですって感じのあたしのパジャマが、繊細なつくりの身体を包んでいて。その違和感が、瀬奈があたしの物を身につけているという事実をこの上なく強調する。
胸がそわそわして、目のやり場に困る。
瀬奈がこの部屋で浮いているのは、非日常だからではない。たとえ瀬奈が日々この部屋で暮らしていたとしても、一生環境に溶け込むことはないだろう。
瀬奈はそれくらいの存在感を有していた。
「帆奈ちゃん、何か淹れてるの?」
あまりにも無防備な姿を見て挙動不審になったあたしに、瀬奈は近づきながら聞いてくる。
「う、うん。紅茶。寒かったでしょ」
「私のために淹れてくれたの?」
「んー、まあ、あたしもちょうど飲みたかったから」
まだ熱い2つのカップを直で持って、こぼさないよう気をつけながら食卓の上に置いた。熱いっちゃ熱いけど、魔法少女なんだからへっちゃらだ。
奥の方の椅子に腰を下ろし、となりにあるもう一脚を引いて瀬奈に座らせる。
「帆奈ちゃん、椅子……」
瀬奈は立ったまま不思議そうに木製の椅子を眺めた。
「なに?」
「あ、ううんっ。なんでもない!」
知らんぷりすると、瀬奈は嬉しそうな笑顔を見せて、あまり使われていないその椅子に腰掛けた。
……覚えていてくれたんだ。前回一脚しかなかったこと。
もしかしたら、紅茶がたくさんあることも、冷蔵庫にもやしが入っていることも、本棚からノートが姿を消したことも、後々気づかれてしまうかもしれない。
そんな心配半分期待半分の面倒な気持ちを抱きながら、あたしは香り立つマグカップに口をつけた。
今まで飲んだ紅茶とは比べ物にならないほどにおいしい。
そして、肌寒い夜にピッタリな温度でもある。
「あの、帆奈ちゃん」
ふと瀬奈は口を開いた。
「なに?」
「……ごめんね。私、突然来ちゃって」
瀬奈は紅茶に映った自分の姿をじっと見つめながら、やはり謝罪の言葉を口にした。
「別にいいって。退屈してたし」
「…………」
「本当だから」
「……うん。ありがとう」
そう言って、ようやく紅茶を一口飲んでくれた。
ごくりと喉を震わす。
「あ……おいしい」
「好きなら、他のフレーバーもあるけど」
「そうなんだ。帆奈ちゃん、紅茶好きだったんだね。てっきりブラックコーヒーだけかと思ってた」
「う――――ま、まあね……」
ギクリとして、慌てて取り繕う。
ブラックコーヒーは大の苦手だが、ファミレスではいつもそれを注文している。
最初はシロップを入れるつもりだったのに、瀬奈に、
「帆奈ちゃん大人だねー。私、コーヒー飲めないもん」
「憧れるなあ」
と逃げ道を断たれてしまったためである。
「瀬奈は紅茶が好きなんでしょ? ジュース類は注文したことないし」
「あ、それは……」
あたしの問いかけに対して、瀬奈は何か言おうとしたがすぐに口をつぐんだ。
ガラスカップを一目見てから、ニッコリとしてあたしに言う。
「うん、紅茶好きだよ! おいしいよねー」
「……そっか、よかった」
そうやって笑顔を作られると分かってしまう。
あーあ、これはやらかした。
瀬奈、なんとなくでアイスティーを注文していただけだった。
そもそもアイスティーってそういうものじゃないか。なんであたしは瀬奈の好物だと思い込んでたんだ。よく考えなくてもバカだった。
キッチンにある紅茶の山をどうするか頭を悩ませているうちに、瀬奈のカップは空になった。そろそろ寝る時間でもあるし、あたしも残りを喉に流し込もう。
飲み終わったマグカップを流し台まで持っていく。
「あのね、帆奈ちゃん」
それを洗っていると、瀬奈が食卓の方で気まずそうに俯きながら再び言葉を紡ぎ出した。
「その……お父さんとけんかしたの。普段はあまり衝突しないけど、今回はちょっと、ダメで……」
「門限の話?」
「え……あ、それじゃなくて、別のこと! 帆奈ちゃんとは関係ないから大丈夫!」
関係ない、というのはあたしを巻き込みたくないゆえの気遣いなんだろう。それでも自分の立ち位置を改めて理解させられる。
あたしは瀬奈の事情に干渉したり口出しできるような立場じゃない。
さらに言えば、瀬奈はあたしに事情を知られるのを望んでいないと思う。頑なにあたしに相談しないし、今日のような例外を除けば、瀬奈はいつも一人で抱え込んでしまっている。
それも仕方がないことだ。
ただでさえ辛い境遇にあるのに、弱者扱いされて本来の価値まで貶められたらたまったもんじゃない。
度を越えた憐憫は二次的な加害行為となる。だからあたしは、いつもどこまで踏み込んでいいのか境界線を模索している。
「……そう。ま、とにかくここでは楽にしてていいよ」
身勝手なアドバイスは避けつつ、遠回しに味方だと伝えてみる。
しかし、あたしの言葉を聞いた瀬奈は顔を曇らせた。きっとあたしに迷惑を掛けて申し訳ないなんて考えているのだろう。
歯がゆいが、こればかりは本人であるあたしがどれだけ否定しても上辺だけの言葉だと受け取られてしまう。
「帆奈ちゃん、ごめんね」
瀬奈はぽつりとこぼした。今にも泣きそうな顔をしながら。
瀬奈には伝わらない。
あたしがこの瞬間もいっぱいいっぱいになっていることとか、バカみたいに紅茶を買い込んでしまう理由とか、土日より平日の方が好きになってしまったこととか。
瀬奈はすぐそこで無邪気に笑って泣いて甘えては離れるを繰り返す万華鏡で、無責任に人を自分の世界に引き込んでおきながら無責任に人を放置する。
「だから、あたしはちょうどよかったんだって」
とっくに洗い終わったマグカップをゴシゴシと洗いながら、届かない言葉を口にした。
瀬奈は本当にずるい。
「ごめんね」に答えなければきっと傷つける。かといって、「ごめんね」に答えても信じてもらえない。
その自己中心的な謝罪に自分の無力さを見せつけられながらも、あたしは諦めるどころか、どんどん境界線を踏み越えたくなってしまっていた。