朝8時。瀬奈は前回同様、朝食もとらずに帰ると言い出した。
乾かしたばかりの制服に着替え、上がり
「本当に食べていかないの?」
見送りで玄関まで来たあたしは分かり切った質問を口にした。
「うん。家に帰って食べるから」
「……そう。分かった」
瀬奈は何かに責め立てられているかのように、とにかくこの家から出ようとしていた。
今朝、あたしが朦朧とした意識の中から目を覚ました頃、既に瀬奈は起きていた。あたしの寝顔を見ていたようで、あたしが起きたのに気づくとササッと帰る支度をし始めた。
妙に手際がよかった。普段ほわほわしているやつが突然地に足がつくのも、それはそれで不気味だなという感想を抱いてしまった。
瀬奈はどうせまた空元気で空回りをしている。
それ自体は仕方がないにしても……そんな見え透いた笑顔を無理して張りつけられると、まるで自分が加害者のような気分になってくる。
「帆奈ちゃん、昨日は本当にありがとう! それと、本当にごめんね」
「……うん」
「じゃ、また明後日、だね!」
にっこりと目を細めると、瀬奈はカバンを拾い上げてあたしに背中を見せた。
白いヘアゴムで束ねた長いポニーテールが揺れる。
あたしはそれを静かに見守っていた。
いや、それがこれから消えていくのを、まるで水槽越しに死んでいく魚を眺めるような心境でじっと見つめていた。
瀬奈は手をドアハンドルに掛ける。
あたしはそんな小さな動き一つ一つをスローモーション動画みたいに咀嚼する。
そうして瀬奈がドアを押すのを待つ。
これでこんな甘くて辛いオーバードーズとはバイバイだ。
瀬奈が去って、あたしは一人になって、それでもう少し余裕を取り戻せる。
時間の経過で、あたしはまた手を差し伸べられるような自分になるんだ。
――――そんなあたしの諦念を裏切るように、慌ただしく動いていたポニーテールは止まった。
「…………」
あたしも瀬奈も押し黙った。
瀬奈は出ていかない。ドアの前で突っ立っているだけ。
突っ立っているという表現は適切だと思う。だって瀬奈は震えてもごまかしてもおらず、ただ空っぽになってそこに立っているだけなのだから。
逃げるように帰り支度をしていた瀬奈が逃げない。帰らない。
おそらく、帰れないのだろう。
真っ白になって、本能のところで行き場を求めている。
だから、玄関が一枚の静止画となった。
時は止まった。
あたしと瀬奈はただの静物だ。
そんな無思考の客体でありながら、あたしは異様なものを胸の中に見つける。
ソレは湧き水のように勢いよく心の中を侵食していき、あたしの思考をごぽごぽと中に取り込む。
瀬奈が無動作であたしの理性を引き裂くから、その傷口から溢れ出した情念が諦念に取って代わろうとした。
欲望だ。
踏み込みたい。攫いたい。隔離したい。
残酷な外界で傷ついたカナリアを保護して、永遠にその歌声を聴いていたい。あるいは今すぐ気まぐれな万華鏡を奪い上げて、あたし好みの模様に切り替えたい。
綺麗なものを綺麗な場所に飾りたい。それで宝物の輝きに陶酔していたい。そんなのって当たり前じゃないか。
瀬奈を捕まえたい衝動で頭の天辺から足の爪先まで疼き出した。
その途方に暮れる背中を抱き寄せたいと思った。たとえ棘が生えていたって構わないと思った。もういっそ刺されてもいい。キツくその存在を確かめられれば笑い転げながら満身創痍になってやろうと思った。
脳が突然深い熱に沈められる。まるでいつの間にか仕込まれていた遅効性の毒のように。
玄関がサウナみたいに暑くなって、暖色の照明が夢見心地で揺らいでいる。
瀬奈を収めてこの異変を鎮めたくなる。
これらは全て瀬奈が目の前で物欲しげにしているせいだ。あたしなら瀬奈の欲しいものを与えられると、そう思い込ませてくる。
無辜の獲物のようでいて、無邪気な捕食者とすら思える。
足を止める、たったこれだけの動作で瀬奈みことは容易く理知的な世界を揺さぶってみせた。
カチッ。
ふと金属音がした。我に返ったのか、瀬奈は無言でドアを押した。
――――行かないで!
熱に浮かされてそう叫ぼうとした瞬間、幸いにも昨夜のことが脳裏に浮かんだ。
善意さえ切り裂くナイフのような目であたしを凝視する、瀬奈の冷たい表情。
それを思い出して、はっとした。
……だめだ。あたしが引き止めては瀬奈を傷つける。
瀬奈はあたしの努力を全て優しさという単語で片づけてしまうから、あたしが近づけば近づくほど引け目を感じさせてしまう。今だってこうしてあたしの家から逃げ出そうとしているわけだし。
引き止めてしまっては、本当に瀬奈を弱者として扱ってしまうことになる。常に強がっていて、取り繕った笑顔を自分の拠り所にしている瀬奈を。
だけど、
だけど、呼び止めたい。呼び止めたくてしようがない。グダグダ理屈を並べ立てても呼び止めたい。
そう、この気持ちはシンプルだ。
目の前で大切な人が泣きそうになっている。それを笑顔にしたいと思う。
これだけのわがままだ。
ドアがゆっくり開いていく。
減速する1秒間、真逆の方向から二つの力を加えられて思考がちぎれそうになる。
そろそろ時間切れだ。
あたしは――――
❖そっと見送る。 (→4-1へ)
❖「落ち着くまで泊まっていかない?」