ジメジメした空気が肌に粘りつく。
鼻につく酸っぱい匂い。色んなもので合成された、とにかく酸っぱいとしか分からないような匂いだ。
むせ返るほど気持ちが悪いのに、自分は実によくこの匂いに溶け込んでいる。
ここはどこだろう?
色で言えば、灰色。形で言えば、四角。
ここは灰色の四角い空間だ。あたしは汚れた灰色の壁に囲まれて、四角い空間に閉じ込められている。
立っているだけで、なんだか気が滅入る場所。
でも……なぜか見慣れているような気がする。
どこだったっけ……?
「――――ぁがっ!」
「そんな面でこっち見てんじゃねーよ!」
腹部に走った衝撃ではっと見上げる。
そこにあるのは、酒に酔った男の真っ赤な顔。
瞬時に全てを思い出す。
そうだった……そういうやつもいた。世間では父親って呼ばれていたやつ。
あいつは死んだはずだから、今度こそ、夢かな。
「あっは……」
やめてくれよ、最初の最初から掘り返すなんて。
◇
一人、歩んできた道を――――崖までの道をたどるような夢を見る。
両親が死んだ後は孤児ってやつになって施設に入った。
3年前までそこで過ごしていたけど、大した思い出はない。
……小学校でもいじめられていたからね。もうそれだけでいっぱいいっぱいだった。
でも、あのときはまだ未来を信じていた。
地元を離れていい感じの学校に行けば、何かが変わるんじゃないかって。
だから勉強した。人と関わらずに済む大義名分でもあるし、その頃はとにかく没頭した。
受験勉強をするには学校の教材じゃ足りないから、まともな問題集を入手しようと、施設のスタッフと掛け合ってみたり。
自分から話しかけに行ったの、あれが最初で最後なんじゃないかな。
その後、努力もとい逃避が功を奏して、あたしは学費免除を受けて水名女学園に入学した。
「うぐッ……」
「目障りだっつーの! もう学校来んなよ! 水名の恥がッ!」
「……っ」
でも、うまくいかなかった。
うまくいくはずがなかった。
だってあたし自身何ひとつ変わっていなかったから。いつまで経っても陰気臭い自分じゃ、どこに行っても同じだ。
環境が変われば全てが変わる、というのは甘い理想にすぎない。
何かをするたびクスクス笑われていただけのいじめはエスカレートして、とうとう暴力の嵐となって身体に降り掛かった。
教室にいると何をされるのか分からないから、弁当はトイレにこもって食べていた。
喧騒に満ち溢れていた昼休みのトイレの個室は驚くほど静かで……そこにただ存在しているうちに、自分はもうそういう性質のものなんじゃないかって思えてくる。
心の表面に張りついた怒りと憎悪のもっと奥、根っこの部分へと染み込んでいくように。
「あたしは持たざる者だから、持っていないだけ。虐げられる者だから、虐げられているだけ」
結論をつぶやく。
今までがそうだったように、これからもそうなる。
あたしの深層に、その確信が染み渡った。
◇
この夢はあたしの歴史――――被虐の歴史だ。
大きな歴史が織りなす密な網の中で、勝手に紡がれてきた翻しようのない小さな歴史。
社会、町、家庭、学校。
気持ち悪いくらいに周到な仕組みに首を絞められながら、あたしは被虐を強要される。持たないことを強要される。
悪意に追い詰められて、あのときあたしは崖を飛び降りたのだ。