「帆奈ちゃん、どこに向かってるの?」
瀬奈を連れて一旦水名まで戻り、ふたりで静まり返った住宅地の中をてくてく歩く。
ふたりで、と言っても、瀬奈は歩いているように見えるだけだが。
実験してみたところ、瀬奈はあたしから一定距離以上離れられないらしい。本人が立ち止まろうとしても、立った姿勢のままあたしの方に引き寄せられてしまうのだ。
それ以外にも瀬奈に聞いてみたりして、色々なことが分かった。
瀬奈はあたしの魔力をガソリンにして駆動しているエンジンのようなもので、魔力を切ると消えてしまうこと。
あたしの中で眠っていた間、あたしの記憶を断片的に受け取っていたこと。
瀬奈は情報の集合体だから、あたしに見えている瀬奈は想像の産物ではなく、正真正銘の客観的な瀬奈の投影だということ。
……などなど、不思議なことがいっぱいだ。
幽霊の性質についてはまだ謎が多い。
瀬奈とずっと一緒にいるためにも、その仕組みは究明しないと。
「帆奈ちゃん?」
「……あっ」
呼ばれて、我に返る。
そういった理論的なことを考えるのは後だ。今は目の前の瀬奈に集中しよう。
「今はね、とりあえずお風呂に入ろうと思って。お祝いしたいところだけど、生まれたばっかで疲れてるでしょ?
……あっ、心配しなくていいよ! お祝いはでっかいのやったげるから!」
「生まれたばっかって……ふふっ。帆奈ちゃん、私は疲れてるって感覚がないの」
「え? そうなの?」
「うん。私は帆奈ちゃんの脳に働きかけてるだけの意識体だから」
瀬奈は柔らかな微笑みを浮かべた。
またドキリとする。
幽霊になってから、瀬奈は中身が少し大人っぽくなった感じがする。ようやく嫌な世界とさよならして余裕が生まれたのかな?
ただでさえお淑やかな見た目をしているから、振る舞いまで落ち着いていると、詰め寄ってくる昔とはまた違った意味で心臓に悪い。
でも、
「へえ、そうなんだ! 疲れてないんだったら、お風呂上がりにここら辺で散歩しよっか?」
もう昔のように緊張して逃げるようなことはしない。
瀬奈は長い時を経て奇跡的に帰ってきたのだから、あたしも笑顔でしっかりとそれを受け止めるべきだ。
「こんな暗い中で散歩するの? 危なくない?」
「あっははは! あたしたち魔法少女と幽霊だから、襲ってくるやつなんかよりよっぽど危ないよ!」
「んふふ、確かに」
瀬奈はそう笑うと、口を閉じた。
残るものは足音だけとなった。
だけど、あたしたちの間の沈黙は心地よいもののように感じられた。
◇
銭湯に着き、人目を盗んで脱衣所に転がり込む。
本当なら暗示を使ってもいいけど、なんでもかんでも魔法に頼るのは魔力がもったいないし、痕跡が残るから危険だ。
暗示という保険を手にしつつも、今日まで自分が生き延びる分には使わずに済んでいる。おかげで万引きのスキルもぐんぐん伸びた。
脱衣所のロッカーに荷物を詰め込んだリュックを入れる。キーバンドを手首に通すと、となりで待機していた瀬奈の方に向いて告げた。
「さて――――ここで瀬奈に送る魔力を、切ります」
「え?」
「お風呂に入るからねー」
脱衣かごの前まで行き、魔力の供給を切ろうとした。
しかし、
「だ、だめ! 私も一緒に入る!」
瀬奈が今日一の大声で抗議してきた。
「え、でも瀬奈、お風呂に入れるの?」
「そりゃ入れるよ! それに、私はイメージなんだから――――ほら!」
突然、瀬奈のイメージがノイズ掛かって揺らぎ、虚空に散る。
何事かと、瀬奈がいたはずの場所を見つめていたら、
「――――!?」
再び現れた瀬奈は下着姿に変わっていた。
透き通った肌を蠱惑的に隠す黒いレースのブラジャー。肋骨、へそ……その更に下へとたどっていくと、同じ黒いレースのショーツが目に止まる。
……ビキニタイプの総レースパンティーである。
謎の分析をしてしまい、謎の分析をしてしまった。謎の分析をしてしまった自分が不甲斐なくて思いっきり頬をパシッと叩いた。
「は、帆奈ちゃん!?」
「…………ふむふむ、なるほど。瀬奈、服は脱げるんだね!」
とりあえず言葉だけでも虚勢は張る。
もう昔のように緊張して逃げるようなことはしない、と言った矢先に緊急事態で視線が脱衣所の床に逃げてしまっているあたしだが、いきなり危険物でぶん殴られたのだから致し方なしだ。
それより、あたしの健全な入浴環境のために予防線を張っておかねば。
「えー、瀬奈はお風呂の温度は感じられないんだよね?」
「それでも入りたいの。お風呂、普通の生活って感じがするもん」
瀬奈の声はどことなく寂しげに響いた。
あたしは床を凝視しているから、その表情が分からないけど。
「…………」
そんな大したことじゃない。どんなことよりも瀬奈の願いを優先すべきだ。
この世の友人同士がみんな当たり前にやっているのと同じように、瀬奈と一緒に銭湯の湯船に入ればいいだけの話だ。
……なんだけどさ。
ちょっと困るんだよなぁ。
だって、こう。
色々まずいじゃん。
だってあたしは、瀬奈のこと……。
「帆奈ちゃん、もしかして……」
そうやってくよくよしていると、うかがうような瀬奈の声がした。
「もしかして……恥ずかしいの?」
「……えっ」
図星を突かれ、ギクリとその顔を見上げる。そうしたら必然的に瀬奈の柔肌まで視界に飛び込んでくるわけで……慌ててぷいっと顔を背けた。
そんな一連の動作を受けて、クスクス横から笑い声が聞こえてきた。
そう、あたしはごまかすより先に、ジェスチャーで瀬奈の質問に答えることになってしまったのだ。
でも、しようがないものはしようがない。困るものは困るものなの……!
脱衣所から動くに動けなくなったあたしを見かねてか、瀬奈が代案を持ちかけてきた。
「そしたら、私がバスタオルを巻いて入るから。こんな感じ!」
おそるおそる瀬奈の方に視線を戻すと、いつの間にか瀬奈はタオル巻きになっていた。
といっても綺麗なデコルテが丸見えだし、落ちそうな布一枚で緊張が和らぐことはないけど……。
「う、うん。それなら……」
仕方ない。これで妥協しよう。体が勝手にドギマギしているけど、裸よりは断然マシだ。瀬奈に日常生活を楽しんでもらうことが一番なんだから無視だ無視!
そう思って再び脱衣かごに向くと、今更重大なことに気づいてしまった。
あたしの裸は見られるんだ。
「――――」
頬がかぁーっと熱くなった。
「帆奈ちゃん? ……あ」
瀬奈も同時に同じことに気づいたようで、小さな声を漏らした。
今度は少し気まずい沈黙が流れる。瀬奈がゴクリと喉を震わしたのが聞こえる。
そうだ。今からあたしは瀬奈に見られながら、服を脱がないといけないのだ。
「……っ」
平常心、平常心、平常心……。
お経を唱えるように念じながら、赤紫色の上着を持ち上げた。袖口から逆方向へと腕を引っ込めて、かつての制服を脱ごうとする。
下のブラウスが露わになる時点で、あたしは動きを止めた。
水名女学園の制服はワンピース型だ。つまり、スカートの部分まで下ろしてしまうと、いよいよ瀬奈に下着姿を晒してしまうわけで。
そうする前に、ちらりと背後の瀬奈を見た。
……なぜか、露骨に顔を赤くしてじっと見つめてきている。
「瀬奈、さ」
「う、うんっ」
「ちょっとあっち向いてて?」
「あ、うん」
くるっとあたしに背中を見せる瀬奈。バスタオルから滑らかそうな肌と、微かな背筋のラインが覗く。
「…………」
ぼうと、その骨格を示す浅い窪みを眺めてしまった。
数秒後にはっとして、八つ当たりのように制服を脱ぎ捨てる。
あたしだって人のことは言えない。そりゃ気になる。瀬奈のことなんだから気になるに決まってるじゃん!
やけになって、音速でブラウスもニーハイも脱ぎ去った。
タオルを乱暴に拾い上げて瀬奈の横を通る。
「ほ、ほら、瀬奈、もう行くよ!」
「――――っ。う、うんっ」
あっちもあっちで、明らかに動揺した声で返事してきた。
この状態で瀬奈の顔を見るのはさすがにハードルが高すぎるので、あたしは振り返ることなく浴場の引き戸をガラリと開けた。
◇
お風呂に足を浸けて、温度に慣れてから全身を入れる。
瀬奈はといえば、あたしが体を洗い終わると、待ってましたと言わんばかりにいきなり中に飛び込んだ。
もちろん、パシャーッと飛沫が上がることもなければ、お湯が溢れることもない。
瀬奈は幽霊なんだなと、改めて思った。
こんなにしっかりとした人体が見えているのに、物理作用が全く生じないのは変な感じだ。まるで質の高すぎる4D映画を見ているみたい。
少し間隔を開けつつも、瀬奈のとなりに腰を下ろす。
「帆奈ちゃん、ちょっと背が伸びた?」
すると、瀬奈がチラッとあたしを覗いてきた。
そうしてから、それらしく腕を伸ばして「ふぅー」と気持ちよさそうな声を漏らす。
「ある程度時間が経ったし、たぶん?」
「そっかぁ。帆奈ちゃん、大人になるんだ」
感慨深そうにつぶやく瀬奈。
そりゃそうだよ、と、言おうとした矢先に言葉の意味を悟って口をつぐんだ。
「いつか帆奈ちゃん、私を超えちゃうかも」
瀬奈は頭より少し上の方まで手を持っていき、予想した身長をあたしに示しながら笑いかけた。
それが、案外低い。もっと高く見積もってくれてもいいのに……。
「うーん、あんまり変化を感じてないから、時間が掛かると思うけど」
「そっか」
「でも瀬奈よりは高くなりたいかな〜!」
小さいより大きい方がいい。その方がカッコいい。
「んふふ、帆奈ちゃん、伸びたいと思ってるんだ」
「こんな生活じゃ伸びないだろうけどね! あっは……!」
「そっか……楽しみだなぁ」
ぷくぷくと、瀬奈は顔までお湯の中に浸かる。というのは比喩で、実際瀬奈が何をしてもお湯は注ぎ口のリズムに合わせてしか動かない。
ふと銭湯の黄色い天井を見上げる。
外から現状を認識すると、夢を見ているような気持ちになる。瀬奈が誕生したことも、瀬奈がとなりにいることも、あたしの日常に溶け込んでいることも、全部夢みたいだ。
……だけど、何より不思議なのは、瀬奈がそばにいなかったこと。
こんな当たり前にいる存在が欠けていた先刻までの時間は明らかに狂っていた。歪んでいた。
突如の違和感にのぼせそうになる。
自分を構成していた時間軸が積み木のように崩され、嘘と本当がごちゃごちゃに入り乱れているようだ。
この瞬間さえ、嘘なのではないか?
崩壊していく固定観念の隙間から出てきた疑問。
全ての前提を疑い始めると、富士山を描いた銭湯の壁が水彩を掛けられたようにぼやけ出した。
「…………あ」
そんなとき、瀬奈の手がそっとあたしの手の上に乗せられたことに気づく。
あたしにはその柔らかさを感じることはできない。
しかし、その手は、この一瞬一瞬は真実なのだとあたしに告げている。
その実感に心が震えた。
感覚を確かなものにしたくて、手の主の名前を呼ぶ。
「瀬奈」
「うん?」
「――――おかえり」
喉につっかえていた約1年間の執念が、希望が、この4文字になってこぼれ落ちた。
瀬奈は何度か瞬きをした。そうしてから……優しく目を細めて、頷く。
「うん――――ただいま、帆奈ちゃん」
帰還を告げる言葉を聞いた瞬間、あたしは心の底で誓った。
絶対に瀬奈を守り抜こう。
たとえ夜が更け、この全てを折り曲げる絶望が降り掛かったとしても、絶対に。
一度奪われてしまったものを、今度こそ最後まで。
この夜、あたしはこの誓いを胸に刻みつけた。