冷静に考えたら、いや考えなくてもすごいことをしてしまった。
頭にバグを起こしたまま何事もなかったかのように夕方まで水名の名所を回ったが、事態に対する認識が5時間遅れで脳にまで上がってくると、今更不甲斐なさで悶えそうになる。
なんであんなに余裕をなくしてしまったんだ。やり返してあげたりとか、こう、もっと色々できたはずじゃん!
肝心なところで素が抜けていない。ちっともカッコよくない。三つ子の魂百まで。そういう呪いだ。この対人能力の欠如はもう救いようがない。
そんなふうに落ち込んでいたら、いつの間にか太陽が沈みかけていた。
そろそろこのデ……デートも終わりにして、銭湯に向かおう。
◇
脱衣所に入った。
昨日や一昨日と同じように服を脱ごうとして、気づく。
「…………」
「…………」
この妙な雰囲気の中で裸になってしまうのだ。
制服の袖口を掴んでいた手を離して、さっそくタオル巻きになった瀬奈の様子をチラリとうかがった。
両手を固く握りながら、緊張した面持ちでじーっとあたしを見つめてきている。
じぃ〜っ。
「…………」
じぃ〜っ。
「…………っ」
こういうときって、普通は気になっていても興味がないふりをするものだと思うけど、瀬奈は遠慮しないで堂々とあたしを観察している。
あたしの裸なんて、見ても面白くもないと思うけど……。
瀬奈みたいに芸術的で柔らかそうでスベスベで繊細で透明感があってメリハリがついててスベスベで柔らかそうでもちもちしてて柔らかそうなわけじゃないし。
むしろなぜそんな完全無欠な身体を持っていながら他人の体に興味を示すのだろう。
抱きしめただけで壊れてしまいそうな肩。指を優しく包んでくれそうな二の腕。その横には、タオルでも隠し切れないほどよく実った――――
「…………今日は魔力切る」
「えっ?」
反論する暇を与えずに、プチッと魔力の供給を絶った。
最後にぷくっとほっぺを膨らませた顔が見えたが、今日は一人で入らないとだめ。そうしないとすごくだめだ。
もう余裕を持てどうこうの問題じゃない。そうしないとあたしが蒸発しちゃう。
……それに今日の瀬奈はカノジョなんだから、一緒にお風呂に入らないのが瀬奈の望む普通の日常に合致するのだ。そうに違いない。
屁理屈を並べながら服を脱いでいく。
淡い紫の上着、ブラウス、ブラジャーにショーツ。
順に床に脱ぎ捨て、とうとう隠すものがなくなった自分の身体を見下ろすと――――ふと。
一度も考えたことのない疑問が脳裏をよぎった。
瀬奈はこの体を見て、どう思ったのかな。
「――――っ!」
ぶんぶん首を振り、バタバタと風呂場に向かっていく。
今日のあたしはどうかしてる。まるで昔に逆戻りしたみたいで最悪だ。
湯椅子にどすんと座り、ぐっと蛇口のレバーを押した。
上からパラパラ降ってくる冷たいシャワーを頭に浴びせて、ひとまず冷静になろうとする。
シャワーヘッドを壁に掛けたまま雑にレバーを押したせいで、さっそく鏡に無数の水滴がついていた。そこには途切れ途切れに映った、真っ裸な自分の姿がある。
頭の中に、次々と変な疑問が浮かんでくる。
(どう思われてるのかな)
(こんな自分でいいのかな)
(……そもそも意味が分かってるのかな)
そりゃ、今までだってカッコよく見られたかったり、逆に瀬奈に見惚れてしまったりすることはあるけど。
でも…………キスなんて、しようと思ったことはなかった。
そんな余裕がなかったというか、自分が瀬奈にふさわしいとは思っていなかったというか、笑顔が見られればそれでよかったというか。
一緒にいる分には頼れる自分でありたいけど、だからって進んだことは夢のまた夢なわけで。
「……進んだこと」
数えてみる。
デートはした。
手は繋いだ。
お風呂も入った。
一緒に寝た。
キスもした。
「…………!」
なんと、いわゆるABCのAが終わってしまったのだ。驚きの事実である。
そしたら残りはもうアレとかアレとかアレしかない。
瀬奈の性格的には、知識さえあればきっと前へ前へと突き進んでいくだろう。
そうなったら。
そのときは。
「――――――ッ」
再びレバーをぐいと押して、硬くすら感じられるシャワーを頭に浴びせる。
ワシャワシャと髪をかき乱して、想像してしまった事実をもみ消そうとする。
しかし、一度はっきりまぶたに画面が映ると、それはずっとあるものとして脳内に刻みつけられるもので。
そこから逃げようとすれば逃げようとするほど、鮮明に、五感に訴えてきた。
募った想いと本能を混ぜ合わせたような気持ちに息が詰まりそうになる。
禁忌の衝動を塞ぐように、バンっと両手を顔面に叩きつけて視界を覆った。
「バカかあたし……」
つぶやいて、ようやく少し落ち着きを取り戻す。
今からちゃんと体を洗おうと、おそるおそる手を口の方に滑らせて目を開ける。
すると、思わず触れた指でそのまま唇を撫でてしまった。
「…………」
諦めた。
今日は磁石を貼りつけられたように、どんなに一生懸命そこから離れようと足を動かしたってあの出来事にたどり着く。
だって、しようがない。しようがないじゃんか。瀬奈と、キスなんて、しちゃったんだからさ……。
もう二度と会えないと思っていた。またその笑顔が見たくて、いや、もう見られなくてもいいからこの世界に在ってほしくて、それでずっと探していた。
そんな瀬奈にこんなことをしてもらったんだ。
頭がこうやって自然に喜んでしまうのは、責めるに責められない。
体を洗って、ふらりと立ち上がる。
今日は足から温度に慣れていかずに、最初からざぶんと全身を入れて湯船に浸かった。
富士山の絵を呆然と眺める。
……本当、何してんだか。
もう一度唇を触る。
得体の知れない気持ちが溢れそうになって、お湯の中で縮こまった。
クラクラする。
入浴していることを差し引いても、この暑さは異常だ。
暑すぎて、酸欠になって、首を絞められているように感じる。
こんな甘いのは絶対にだめなのに。
こんなに幸せになるのも、絶対にだめだ。
喜んでしまうのも、自分の中に残っていた幼いところも、好きな人に好いてもらえたことに対するこの素直な気持ちも。
だめなのに、余すところなく満たされてしまう。
寒い夜を一人で過ごしているならまだよかった。それが、不意打ちの余韻に引っ張られて銭湯でのぼせそうになっているんだから困る。
――――本当に、これでいいのかな。
また脳裏によぎる疑問。
ずっと一緒の生活を送りたいという瀬奈の願いを叶えることがあたしの大義名分だ。
であれば、ずっと一緒の生活を楽しんでもらうための行為なら何でも許される。それは何よりも優先すべきことだから。
「でも……」
あたしがそれに浸るのは、違うんじゃないか。
だって、手にしたこの幸せは瀬奈の願いで正当化されるものではない。おまけでついてくるこの気持ちは、ただの棚ぼたに喜んでしまう浅ましい欲望にすぎないのだ。
まるで、正義のための戦争で、蹂躙に悦びを見出してしまったように。
優しい混沌のためにやったことが冷たい秩序の肯定になってしまっている。
その考えを胸の中に見つけると、この甘い浴室がポロポロと崩れ始めた。
熱で回らなくなった頭が、冷水を掛けられたように冷えていく。
危機意識のサイレンが鳴って、深い眠りに沈んでいた本来の自分を呼び起こした。
……そうだ。あの瞬間を思い出そう。
目を閉じ、記憶を呼び覚ます。
あの鬱屈とした赤い景色を見たとき――――瀬奈の真実にたどり着いた瞬間、あたしは生きる目的を見つけた。
あたしには許せないことがある。それを許せないでいる限り、あたしは幸せになってはいけない。
あたしが幸せになってしまったら、瀬奈の苦しみはあるべくしてあったものになってしまう。
世界から瀬奈を奪った
「…………」
お湯の中から手を取り出し、皺くちゃになった小指を見つめた。
それを揺らしてみる。
――――ずっと帆奈ちゃんと一緒の生活を送らせてほしい。
叶える。叶えるとも。
それが瀬奈を笑顔にする、瀬奈の純粋な希望なんだから。
その希望の前では、あたしの怒りさえ取るに足らないものだ。
そうだ。これでよかった。間違っていても、これでよかったのだ。
踏み外していこう。
瀬奈が笑顔でいられるなら、あたしは幸せになりながら自分の幸せを責めていればいい。
奪うことで幸せになるこの仕組みを、悪者が幸せになるこの現状を、生きながらえることで肯定していればいい。
「あっは……」
つくづく理不尽な世の中だなあと思いながら、出した小指をしまって、笑った。