明かりを消した部屋の中。
瀬奈の肩に腕を伸ばすと、瀬奈はぐるりとあたしの方に向いた。
子犬が甘えるみたいに、目を閉じてあたしに体重を預ける。
手をゆっくり動かす。首から背中へ、そして背中から首へ。繰り返し瀬奈の背を撫でた。
「んふふ……」
あたしの肩に頭を乗せ、髪にスリスリしてくる。
その仕草に気持ちが止まらなくなって、撫でるのをやめて思い切り両腕の中に収めた。
溢れてくる感情を動作で明かしたあたしに、瀬奈はされるがまま身を委ねている。
どうやら、甘い空気にもっと酔っていたいのはお互い様のようだ。
そのまま瀬奈をぎゅうと抱きしめる。
間に空気が入りこまないように。
時計のない空き家の部屋だから、あたしたちを急かす音はない。時間はここを遺してどこかに行ってしまった。
「……帆奈ちゃん、ありがとう」
ふと、瀬奈はこうこぼした。
「うん?」
「夢が叶っちゃったの。帆奈ちゃんに見つけてもらって、一緒にいてもらって、抱きしめてもらって……本当に十分すぎるほど叶っちゃった」
「……あっは。まだ叶えてないことがあるでしょ?
「んふふ、そうだね……」
瀬奈は実感できない人の温度を探し当てるかのように、ぐりぐりと顔をあたしの肩に擦りつけた。
静かにその様子を見つめながら、甘える瀬奈を受け止める。
そうして気づく。瀬奈の肩が小刻みに震えていることに。
穏やかだった息が、少しだけ……ほんの少しだけ上がっている。
ぐすっ、と、小さな声が漏れていた。
「瀬奈……?」
泣いている。
慌てて体をずらしてその顔を見ると、暗闇の中で微かに光るものがあった。
瀬奈は長いまつげの裏に涙を溜めていた。
両目の雫を落とさないようにしながら、あたしに笑う。
「私、本当に幸せで……怖くなるくらい幸せだから」
「……うん」
「そうだ、最後のお願いをしてもいい?」
両手を合わせ、祈るようにあたしに聞く。
もちろん、断るわけがない。
「いいよ、なんでも」
「じゃあ――――今日だけはみことって呼んでくれる?」
最後のお願いと言われたそれは、これだけだった。
ずっと一緒にいることよりもずっと容易く、あっけなく叶えられること。
瀬奈は涙を我慢しながらあたしにそんなことを懇願する。
だとしたら、これを最後と名づけたのにはそれなりの意味があるだろう。
あたしとしては、どんなお願いだって叶えてあげたいから、本当はもっと欲張ってほしいけど……瀬奈は基本的に自分からあたしを頼らない。昔から、あたしに負担を掛けるようなことをあえて口に出すのは、どうしてもそうしたいときだけだ。
そんな重みを持ったお願いに応えるために、口を開く。
「――――みこと」
「……!」
「みこと……みこと。慣れないな……」
名前を呼んでいるだけなのに、なぜかすごく恥ずかしい。
でも、苗字じゃなくて名前なのは……その、えっと、あれ。あれだ。
お嫁さん、をもらったみたいな感じ。
瀬奈もそういう意味で要望を出してきたのだろうか?
分からないけど、綺麗な顔がふにゃふにゃにふにゃけている。
「えへへへへへ……」
「……みこと」
「はいっ、帆奈ちゃん」
「明日もみことじゃダメなの?」
そう聞くと、瀬奈はうんと頷いた。
「今日は特別だから」
「別に、そうしたいなら今後そう呼んでもいいけど……。というか、たまに呼ぶのもダメなの? 今日みたいなことするときとか……あっ」
声にしてから、また瀬奈を抱きしめたいと暗に言っているのと変わらないことに気づいて、慌てて口をつぐんだ。
瀬奈はおかしそうに笑っている。
「んふふ……帆奈ちゃんがそう呼びたいなら別にいいよ。私の中では今日が特別ってこと」
「……なんで?」
「…………」
瀬奈は言葉を探すように黙り込んで俯いた。
静寂が広がる。
ようやく顔を上げたとき、少しだけ悲しそうに眉を寄せていた。
「今日を本当のことにするから」
「…………」
「帆奈ちゃんも、今日が本当のことなんだって覚えていてね……ふふっ」
そう言うと、瀬奈はあたしの手を取り、指を絡めた。
両手とも繋ぐと、その状態でまたあたしの身体にもたれ掛かる。
手を握り合わせたまま、あたしは瀬奈の感触に、香りに、温もりにその存在を見出す。
更けていく夜の中、溶け合わさったように瀬奈を抱きしめている。
ずっと今日だったらいいのになと、外界で無情に夜明けまでの残り時間を数えている空の砂時計に願った。