「んっ……」
ぎしり、と古い木材のの軋む音。
それがきっかけで浅い眠りから目覚め、ぼんやりとした白い景色が無機質な部屋の天井に凝縮した。
「……ぁぐっ」
意識と共に痛みも浮かび上がってくる。
最近は一日中歩き回っているのと長期的な睡眠不足のせいで、少し動いただけで全身の筋肉が悲鳴を上げる。
倦怠感に負けないように上体を起こし、冷たい床に足をつけた。
立ち上がり、埃に覆われたカーテンをサッと開けて仄暗い部屋に朝日を入れる。
希望に満ち溢れた、爽やかな光。
熱を浴びると、ようやく体が本調子に戻ってくれた。
よし……今日もいつものルーティンだ。
「よいっしょ、と」
床からリュックを拾い上げてずしりとベッドの上に乗せ、前ポケットから残り1つのグリーフシードを取り出す。
支度をする前に、まずはソウルジェムを浄化しよう。
左手中指に嵌められた指輪を輝かせて形を変化させると、出てきた宝石はどんよりとした赤茶色だった。
「3日は持ったから、喜ぶべきか……」
黒い結晶を宝石に当てながら、ぼやく。
最近になって、グリーフシードの調達が魔力の消費量に追いつかなくなってしまった。
一つ目の理由は瀬奈だ。
半年経ってあたしの身体にある程度馴染んでくれたとはいえ、瀬奈を維持するためにはやはり大量の魔力を割く必要がある。
もう一つの理由は、ハイペースで暗示を掛けて回っていること。
エックスデー……瀬奈に夜景を贈る日が眼前まで迫っているのに、フィナーレがまだ完成していないものだから、本来瀬奈と過ごすはずの昼の時間も犠牲にして仕上げを急いでいるのだ。
幸い、後者に関しては今さえ乗り越えればいい。
歯を食いしばって、どうにかやり切ろう。
今ので持ち歩きのグリーフシードは使い果たしてしまったから、また保管場所から補充しないといけない。
……と言っても、一つの地域につき数個しか置いていないから、使いすぎは厳禁だけど。
我ながら、危ない橋を渡っていると思う。
それでもなんとか向こう岸にたどり着く直前までやってきた。
「……頑張ろう」
拳を握り、自分に活を入れた。
◇
閑散とした水名の街に出る。
体の内側に魔力を通し、瀬奈を呼び出した。
「…………」
姿を現した瀬奈の顔色は悪かった。幽霊だから体調がよくないことはないはずなのに、まるで瀬奈まで寝不足だというようにぼうとして突っ立っていた。
「瀬奈、おはよう」
「…………」
「瀬奈」
二度目の呼びかけで、瀬奈はようやくピクリとしてあたしの方に向く。
「あ……朝」
「うん。おはよう」
「……そっか。おはよう」
静かにそう応じると、口を一直線に結んだまま地面を見下ろした。
瀬奈は最近ずっとこんな調子だ。
昔の快活さはすっかり失われて、感情が抜け落ちた真顔がデフォルトになってしまっている。
その理由はなんとなく分かる。ただ、あたしも瀬奈もそのことを口にしない。
一旦それを話題に出すと、あたしたちの揺るぎない約束が揺らいでしまうとどこかで恐れているからだ。
「今日も魔女の様子を見に行くよ」
だから、余計な心配も労いも言葉にはせず、淡々と予定を告げる。
そうしていつも通り手を繋ごうと左手を差し出すと、
「……あのね、帆奈ちゃん」
瀬奈は手を重ねる代わりに、同じ場所に立ったまま重々しく口を開いた。
「悪い夢を見たの。すごく悪い夢」
「……消えていた間に?」
「うん。すごく痛くて、怖くて……だから、変になるの」
「…………」
何が変なのかはぼかして、瀬奈は泣きそうな声であたしに言う。
「私、変わったのかな。本当に魔女になったのかな……」
「瀬奈は瀬奈だよ。ちゃんと幽霊の瀬奈」
「…………ほんとに?」
「本当の本当。魔女はこんなことでいちいち不安になったりしないよ」
そう告げると、瀬奈はようやく安心したように少し口元を緩めた。
「そっか。確かにそうかも。私、まだ消えないんだ」
「それは違う――――瀬奈は
「…………うん。そうだよね……約束だもんね」
瀬奈は虚しい笑顔を貼りつけて頷いた。そうして、差し出された左手の上に右手を重ねる。
実在を感じさせようと、虚空に透ける指に自分の指をしっかりと絡める。
それが
乾いた表情に戻った瀬奈の横顔をちらりと見てから、空を見上げる。
半年前と変わらない青空。
だけど、世界は少しずつ侵食され始めた。
……いや、最初から侵食は始まっていたのだろう。それが慢性的なものだから、あたしが気づいてあげられなかっただけだ。
――――今はまだ帆奈ちゃんには見えない未来だと思うけど……約束した時点で、私は覚悟を決めたの。
――――帆奈ちゃんも、今日が本当のことなんだって覚えていてね。
今なら瀬奈の言わんとしていることが分かる。今更分かった。
魔女の魂に依拠している以上、瀬奈は少なからずその影響を受けてしまう。
それが更に進めば、ただ笑わなくなっただけでは済まない。瀬奈というソフトウェアがウイルスに侵され切った暁には、瀬奈は魔女に同化して消えてしまうだろう。
不安を掻き消したくて、瀬奈にバレないように空いた右手だけをぎゅうと握りしめた。
半年間、魔女の束縛から瀬奈を解き放つためにはどうすればいいのか模索し続けたが、未だに答えが見つからない。
瀬奈は消させない。絶対に消させない。だけど今は袋小路をまっすぐ歩いている。
未来に対する恐怖が、静かに胸の中に広がっていく。
「帆奈ちゃん……ごめんね」
そんな負の感情が瀬奈に伝わったのか、ふと、小声で謝らせてしまった。
「……なんで謝るの。瀬奈は大丈夫だって言ってるでしょ!」
「…………うん」
大丈夫だと強調すればするほど、自分の言葉が嘘臭く聞こえてしまう。
表面だけの励ましなんて意味がないのに、あたしにはそれしかできない。
やるせなくて、俯いた。俯いては、はっとして顔を上げる。
せめてあたしだけでも平気なふりをしていないと、この世界は本当に大丈夫じゃなくなるからだ。
◇
注意深く周囲を見回しながら廃ホテルの中に入る。
入口の近くで、鏡の魔女の結界がいつものように挑戦者を待っていた。
結界の前に立っただけで、膨大な魔力の渦に吸い込まれそうになる。
鏡の魔女は強力な存在になった。かのワルプルギスの夜まではいかなくても、その気になれば神浜を飲み込むことができそうな規模の災厄に成長した。
ただ、生前のしがらみを断ち切ろうとしたあの時以外、この魔女は人間に手を出したことがない。
だから魔女の危険性は軽視され、結界が訓練場として使われ始めたようだ。
あたしを追っているやつらもたまにここに集まってコピーを倒している。そのせいで、足がつかないよう、こっちの瀬奈に会いに来る回数は減らさざるを得なくなった。
今日は誰もいないようだから、結界内に入ってもいいだろう。
瀬奈の手を取って、魔女への道を進む。
◇
半年前とは比べ物にならないほどの長い距離を歩いて、ようやく最深部までたどり着いた。
部屋の真ん中に鎮座する屋敷の主人に謁見する。
古今東西の姿見をかき集めて虚空に漂わせたという不思議な空間で、黒い影の魔女は身震いするほどの魔力を纏いながら静かに佇んでいた。
ボスの風格というか、貫禄が出てきている。
やっていること自体は相変わらず眠っているか震えているかおままごとをしているかなのだが、魔力量と結界の密度が違うとこうも魔女の見え方が違ってくる。
ちなみに、結界の密度というのは、単に
この魔女結界は日々拡張されていき、多重の層を成すに至った。この部屋まで攻略できた人はそう多くはないだろう。
あたしが無事魔女に会えたのは、長年の経験と結界に対する理解、何より瀬奈の案内があるからだ。
「瀬奈、来たよ」
魔女を見上げ、挨拶する。
もちろん返事はない。あっちの瀬奈はおそらく想像の翼を羽ばたかせて違う世界に飛んでしまっている。
幽霊の方によれば、本体の魔女は四六時中妄想に取り憑かれているらしい。ぷるぷる震えているときは悪い想像、棒立ちになっているときは悪くない想像、という違いにすぎないとのことだ。
「たぶん今は楽しい夢を見てると思う……穏やかな夢」
本人が解説してくれた。
「そっか、それはよかった。最近はずっと震えてたから」
「……うん」
「今のところ大丈夫そうだし、今日はこれくらいにしよう」
魔女に背を向ける。
が、瀬奈はあたしに応じず、足を止めたままだった。
「……瀬奈?」
「帆奈ちゃん……見えたの」
「見えたって?」
「魔女の夢が……」
瀬奈は目をぱちくりさせて、埋もれた物を見つけたかのように魔女を注視していた。
表情からは驚き以外の感情が読み取れない。そして、その驚きの意味合いは本人にしか分からないものだった。
だから聞く。
「どんな夢なの?」
「……救済の夢」
「救済」
仰々しい言い方で思わず繰り返した。
「救われるの。人間も私も」
「……魔女がそんな夢を見るの?」
「見るよ。見ている」
「瀬奈が同時に見ているってこと……?」
瀬奈はうんと頷いた。
「救うの。それで楽になって。そしたら、白くて。ほわほわ。帆奈ちゃんとずっと一緒にいられる」
「…………」
「よかった……!」
弾むような声であたしに話しかけるが、瀬奈はおそらく支離滅裂な言葉の羅列になっていることに気づいていない。現に魔女と感覚を共有しているからだろう。
瀬奈は素直に夢の内容を喜んでいるようだったが、魔女の求める救済がまともなものとは思えない。それを無邪気に受け入れているあたり、魔女と共鳴しているときは通常の感性から離れてしまうようだ。
不気味な夢にどんどん染まっていくのが、瀬奈の幸福そうな微笑みから見て取れる。
それが不安で、瀬奈にブレーキを掛けようとした。
「見終わった?」
「まだ。終わらないの。ずっと幸せだから……」
「……そっか。でも一旦ストップ」
「なんで? なんで帆奈ちゃんは止めるの? 私が幸せだといけないってこと?」
視線を魔女に固定したまま、瀬奈は一転して冷たい声音であたしを責めるように言う。
……かなり影響されてしまっている。
この状態で瀬奈を促してもまともに取り合ってくれないだろう。
心苦しいけど、魔力を切って無理やり魔女から引き剥がすしか方法がない。
心酔した目つきで魔女を見つめる瀬奈はまさしく魔に魅入られていた。
ついさっきまで平常運転だったのに、魔女と少し接触しただけでガラリと態度が変わる。繭が蝶となって舞い上がるように、自然に、しかし劇的に変貌を遂げる。
「…………」
プチリ、と。
消した。瀬奈を。
黙って結界の出口に向かう。
魔女の瀬奈に別れの挨拶をしようと、振り向くが。
「――――」
愛しいはずの影の化身が、一瞬恐ろしいものに見えた。
――――怖い。
仮にも瀬奈なのに、そう思ってしまった。
それを自覚すると、自分までおかしくなってしまったんじゃないかと疑い始める。
堅く心に根差した芯の部分がガタガタ揺れ出した。
今の鏡の魔女は、あたしから大切なものを奪う存在のように見えて。
それが許せなくて、だけど認めざるを得なくて。
だからあたしは唇を噛んで、無言で魔女結界を去った。
◇
一方的に魔力を切ったあと、あたしはグリーフシードを補充しに行った。
それからはぐちゃぐちゃに乱れた気持ちの整理がつくまで中央区で夜景の作業を進めることにした。
今の状態で瀬奈に会ってしまうと、あたしはきっと瀬奈の恐怖をうまく否定してやれない。
時の流れに任せて、虚勢を張るための余裕を取り戻さないと。
大学ノートを開きながら、一人で黙々と昼のオフィス街を歩く。
残り10棟くらい建物を消灯させれば、メッセージの内容が一応分かるようになる。
完璧に仕上げたかったが、途中で魔力が足りなくなって魔女退治に時間を裂いていたから、最高傑作に仕上げるより先にエックスデーを迎えることになりそうだ。
「うーん……仕方ないか。むしろ間に合っただけ幸運だよね……」
鼠色のマンションの中に入る。
電気室のある大型建物と違って、小規模のマンションの場合は部屋ごとに暗示を掛けていく必要がある。
しかも、訪れた部屋に必ず人がいるとは限らないため、根気強く何度も訪問しなければならない。3回くらい見に行っても人がいない場合は、思い切り侵入してブレーカーを壊すか諦めるしかなかった。
エレベーターを出て2階に着く。すぐとなりにある部屋のインターホンを鳴らすと、ガチャリとドアが開いた。
中から主婦然とした女性が出てくると、
「――――この日に電気を消して」
ノートに大きく書いた日にちを指し示しながら暗示を掛ける。
一軒終えれば、次へ。
あたしはこのようにして、同じ作業を太陽が沈むまで延々と繰り返した。