「帆奈ちゃん」
鈴を転がすような声が真っ暗な部屋に彩りを添えた。
あたしの名を呼ぶと、瀬奈が膝に乗ってきて抱擁を求めてくる。
もちろん、それに応えて細い腰に手を回す。
壊れてしまいそうな身体をぎゅっと抱きしめると、瀬奈は嬉しそうにこちらに顔を近づけてきた。
意を汲み、唇を重ねる。
「んっ……」
深く潜り込むような口づけを交わした。
やがて顔を離すと、唾液の橋がふたりを繋いで、揺れた。
「ねえ、帆奈ちゃん覚えてる?」
「?」
「初めてエッチした日のこと」
ぼっと顔が熱くなる。
忘れるわけがない。
「わっ、帆奈ちゃん、リンゴみたいになっちゃった」
「だ、だっていきなり言うから……!」
「ふふっ」
あたしの反応を見るのが楽しいのか、瀬奈はずっと口元を緩めたままだ。なんだか違和感を覚えるくらいに、笑っていてくれる。
「私はあの日の私を本当のことにするって言ったよね」
「……うん」
「あのね、私はあと少しで嘘に染まり切るの。もうじき約束を果たせなくなるけど、帆奈ちゃんに知っていてほしいことがあって」
「え……」
いきなり切り出されて、思わず戸惑いが口に出てしまった。
呆気に取られたあたしに対して、瀬奈は笑顔を絶やさない。ただ、少しだけ伏せられた美しい瞳には、静かな寂寥が宿されていた。
「私の願いは、ずっと帆奈ちゃんときらきらした毎日を過ごすこと。帆奈ちゃんとずっと一緒にいることだけじゃない……だから、もういいの」
「もういいって……約束、やめるの? ――――消えるの?」
こくりと。
悲しげな微笑みを浮かべながら、瀬奈は頷いた。
「覚悟していたはずだった。帆奈ちゃんと一緒にいられれば、待っているのが地獄でも突き進もうって。だけど……帆奈ちゃんと過ごしているうちにね、気づいちゃった。私はそんな未来を望んでいない」
「……瀬奈は消えないよ。まだ方法はある。瀬奈の憎しみが消えれば……」
「憎しみは魂、つまり魔女から来るものなの。幽霊の私が一時的にスッキリしたとしても、魔女の影響がある限り染まり続ける。だから、侵食を食い止めることはできないよ」
そこまで言うと、瀬奈は腕を広げた。
赤ん坊をあやすようにあたしの顔を優しく胸に当ててから、淡々と告げる。
「帆奈ちゃん、もう二度と私を呼び出さないで。そして――――鏡の魔女を倒して。帆奈ちゃんなら倒せる……もう帆奈ちゃんにしか倒せない」
「――――――」
「真っ当な方法でサヨナラしよう。でないと、私はあなたに縋りついて、最悪の方法であなたを傷つけることになる」
「そんなこと、するわけないって分かってるでしょ……!」
応えられない要求だった。
荒ぶった気持ちに任せて大声を上げてしまい、はた、と正気に返って瀬奈を見上げる。
「……っ」
目を見開いた。
きらりと、光源のない部屋で涙粒が光ったから。
瀬奈は泣いていた。
ポロポロ涙が虚空に落とされていく。
笑顔とはもはや表現できない崩れた表情で、不器用に頬を紅潮させて肩を上下させながら、瀬奈は泣いていた。
「じゃあ、帆奈ちゃんは私が生きていればそれでいいの? 何を犠牲にしても、どんなに傷ついても、私が生きていればいい? 生きている私が帆奈ちゃんと楽しい時間を過ごした私ではなく、私の皮を被った別人だとしても?」
「……っ、魔女だって瀬奈でしょ、別人じゃない! あたしは瀬奈に生きていてほしいの……それがあたしの願いなの!」
「……そっか。そうだったね」
あたしがそこを譲れないのを瀬奈も知っているのだろう。
ぐしゃりと痛ましく歪んだ笑みを再度貼りつけ、瀬奈はつぶやいた。
「帆奈ちゃんは何でもしてくれるけど、私を殺すことだけはできないんだったね……」
「…………」
「私はやっぱり間違えたんだ。なんで今更こんな気持ちを知るのかな……もしあのとき帆奈ちゃんのことを思いやれる私だったなら、こんな顔にさせることはなかった。本当にバカだよ……」
「瀬奈は消させない。諦めないよ。だから瀬奈も……」
「ふふっ、自分のことなら、私はとっくに諦めていたんだよ? ただ、約束の方を諦めるのは本当に難しかった……」
そう言うと、願いを託すように涙を浮かべた目を閉じて、小さく、しかし澄んだ声音で続ける。
「大丈夫だよ、帆奈ちゃん。約束だけなら、あの子が引き継いでくれる。帆奈ちゃんが許せないやり方で、私の当初の願いを踏みにじって……帆奈ちゃんと名ばかりの私を生かしてくれるはずだよ」
言い終わると、それっきり。
沈黙の中、そっとあたしを抱きしめる力を強めた。しがみつくように、そして守るように。
感触がないのに、息苦しくなるほど力を込められているのを感じる。その矛盾が、これは最後の抱擁なのだとあたしに告げた。
夜が更ける。
瀬奈の定義した「本当の瀬奈みこと」には、もう二度と会えないだろう。
そんな確信に満ちた。
夜は残酷に真実を部屋に浮かび上がらせる。
奇跡を起こすためには、その分の犠牲が必要だ。
死者を永遠に生かすという奇跡を起こすためには、供物を捧げなければならない。
夜が更ける。深まっていく。
瀬奈を殺せないあたしとあたしを手放せない瀬奈が、捧げるものを選ぶときがやってきた。
◇ ◆ ◇
長いようで、短い夢だった。
目覚めると、そこは知らない家の白い天井。
あたしは一人ベッドの上で仰向けになっていた。
妙に目が乾いている感じがしたから、両目を擦ってみる。カサカサしている。
「…………そっか」
あたし、泣いてしまっていたんだ。
瀬奈が別れを告げに来たのだと気づいたから、無意識のうちに涙が出てきてしまったのだろう。
起き上がり、洗面所に向かう。
夢の追跡を振り切るように、いつもの歩幅とスピードで朝の支度を始めた。
今日も瀬奈を助けるために奔走しないと。
夜景の方もそろそろ終わらせないと。
グリーフシードを集めないと。
瀬奈を呼び出すときは、しゃんと立っていないと。
胸を張って、大丈夫だと言い聞かせないと。
瀬奈に希望を見せないと。
――――もう二度と私を呼び出さないで。
「――――ッ」
洗面所のドアを開けようとしたとき、グラッと来た。
夢の中で聞いた言葉たちを思い出して、そこまで来ていた息が吐き出せなくなる。
するする足から力が抜けていき、とうとう膝を折ってしまった。
足を地面にぶつけた。地面は冷たかった。現実を思い知らせるように硬く冷たい。
だからドアに手をつき、それを支えにしてゆらりと立ち上がる。
胃がズキズキ痛んで、心臓がバクバクしている。
――――怖い。
今日呼び出す瀬奈は、どんな瀬奈になっているんだろう。
どうやって約束を果たすつもりなのだろう。
あたしは、本当に瀬奈が生きてさえいればよかったの? 瀬奈に笑っていてほしいから、その笑顔がまた見たいから、この世界に誕生させたんじゃなかったの?
――――本当に瀬奈を呼び出すの?
当たり前の信念に疑問を呈した瞬間、あたしは既に崖っぷちに立っているのだと自覚した。
鏡の魔女に恐怖を抱き、瀬奈の命に戸惑いを覚え、約束の価値を問うたのだ。
まるで、瀬奈を殺すことに正しさを見出してしまったように。
「……あ、あぁ…………ッ!」
一旦心に穴が開くと、それがどんなに小さな綻びであっても、溢れてくるものによってどんどん広げられてしまう。
怖い 怖い怖い怖い 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
瀬奈が怖い。魔女が怖い。なにより、そう感じている自分が怖くて仕方がない……!
「ア……ッ、ハァッ、ぁあッ……」
呼吸を整えようとするが、不規則的な肺の
違う。あたしは断じてそんなつもりじゃない。断じて瀬奈の存在を否定しない!
瀬奈みことのいない世界を許す更紗帆奈はもはや更紗帆奈じゃない。
それと同時に自分の本音が、耳鳴りが、うるさい。
自己矛盾があたしを蝕んでいく。ソウルジェムが刻々と穢れを溜めていくのを感じる。
「だい、じょーぶ……全部、あたしの妄想だから……あんな夢は嘘……」
そうだ、昨日の瀬奈は昔のように笑ってくれていたじゃないか。
あたしたちは活路を見出したんだ。それを信じないでどうする。
直線を描くようにしてドアに爪を立てながら、自分に説得の言葉を言い聞かせた。
希望的観測ですらない、単なる嘘を。
本心が見え透いたまま、ひたすら自分に対して虚勢を張る。
どうにか、あたしは洗面所の中に入った。
「あっは……ひどい顔」
鏡を見ると、目が赤く腫れていて、下に濃いクマができてしまっていた。
だからこんな顔にさせたくなかったって、瀬奈に言わせちゃったんだ。
ぐちゃぐちゃになった最悪の顔を、腕で乱暴にゴシゴシと拭く。
まずはこの顔をどうにかしないと、瀬奈には会えない。
……そう、あたしは今日も瀬奈に会うよ。
あたしが瀬奈を消すわけなんて、ない。
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