マンションの屋上、よく晴れた穏やかな朝が広がっていた。
雲一つない蒼天が滞りなく進んでいく町の日常を見守っている。
そよ風に頬を撫ぜられながら、あたしは意を決して瀬奈に魔力を通した。
「んふふ……帆奈ちゃん、おはよう」
瀬奈はすぐに現れた。
くすり、と、妖艶に笑う。
姿こそ同じだが、雰囲気はまるで違っていた。今の瀬奈からは不安や恐怖を感じない。近頃の様子に反して、落ち着きすぎているのだ。
「おはよう。今日は……」
「今日はね、続きをやるの。昨日のようなやり方はお上品すぎると思わない? イタズラ程度のことじゃなくて、もっと大きいことをやろうよ」
あたしの言葉を遮って、瀬奈はスッパリと言う。
「一気に魔女を放とう。混乱を起こして、町の機能を停止させるの。それで私は確かめられる――――その様子を見て、私は何を思うのかを」
「……しがらみを断ち切れるのか、ちゃんと確かめたいってこと?」
「うん。それも含めて、私が何を望んでいるのかをはっきりさせるの」
瀬奈の言い方からすれば、要は実験だろう。
社会を混沌に陥れ仕組みを壊した暁に、瀬奈は本当に憎しみを手放せるかどうかを確かめるための実験。
その態度は危うさを多分に含んでいるけれど、実験するつもりがある以上、瀬奈の中には憎しみ以外の意思もまだ残っているといえる。
だから、あたしは無駄に引っ張ることなく答えた。
「分かった。そういうことなら、やろう」
「んふふ、ありがとう。それじゃ、手持ちの魔女を全部集めて駅に放とう。帆奈ちゃんからも暗示を掛けて、町をぐちゃぐちゃにするの」
「…………」
瀬奈は容易く、魔女を全て集めて新西区に移動させろなんて要求をしてくる。
昨日の時点ではグリーフシードの数を心配してくれていた瀬奈が、だ。
あたしが魔女化しても構わない、というわけではないのなら――――瀬奈はあたしを魔女にしないための手段を用意できているのだろう。
「瀬奈……一つだけ聞いてもいい?」
「うん、いいよ」
「瀬奈は魔女の侵食を止めることを諦めていないんだよね?」
瀬奈はおかしそうに笑った。
「んふふ……止める必要はもうないよ。ううん、最初からなかったんだ」
「…………」
「ただ、私はどこかでまだそう思いたくないみたい。だから、そのどこかが私の考えに勝てるのか、それを知るの」
「……そのための実験なんだね」
あたしが言うと、瀬奈は頷いた。
本来の瀬奈の勝率は限りなく低いだろう。理性では、既に瀬奈は魔女に染まることへの抵抗感すら手放している。それを悪いことだと捉えていないのだ。
だけど……そこに可能性がある以上、賭けてみるべきだ。
もしかしたら、瀬奈は仕組みが壊れる様子を見て、悪いのは瀬奈を縛りつけていた社会であって人々ではないことを理解してくれるかもしれない。そうやって、生前の憎しみと決別できるかもしれない。
その一縷の望みに縋りついて、あたしは作業に取り掛かった。
◇
魔女を全て集めるのにかなり時間が掛かった。
日が落ちる直前になって、あたしたちはようやく実験を開始した。
魔女には職場、道路、公共施設や区庁舎あたりを重点的に狙うように指示してある。
あたしと瀬奈はといえば、混乱を一望できる新西中央駅の屋上まで行って魔女の動きを観察していた。
ちょうど帰宅する時間帯なのもあり、駅前はサラリーマンと学生で混み合っていた。上空からは、黒い集合体がうじゃうじゃ蠢いているように見える。
「……始まったね」
いくつもの魔力反応が違う場所で同時に起きる。
何秒か遅れの、悲鳴。
それが妙にピッチのズレた形で重なって、耳障りな合唱となる。
血色の夕焼けに包まれた駅がざわつき始めた。
一定のリズムで前進していた集合体が、悲鳴の上がった場所を中心にして分裂する。
どうやら暴力事件が起きているようだった。魔女の口づけを受けた人間が些細なことで争い出したのだろう。
しかし、魔女はこれしきのことで満足しない。あたしが瀬奈の要望に応え、駅周辺の秩序を徹底的に破壊するように命じていたからだ。
魔女たちは捕食対象の大群から贄を得ようと活発的に動いていた。目に見えるわけではないけど、種々の騒音がそのことを伝えてくれている。
電車の停止信号の音。
怒鳴り声と叫びと喧騒。
車のクラクション。
「わぁ、こんなに簡単に壊れていくんだねー!」
「…………」
瀬奈は瞳を輝かせて騒乱の町を眺めている。コンサートか何かを見ているような表情で。
その態度は正しいはずだった。あたしだって心からこの混乱を喜んでいたはずだった。
だというのに……騒動を静観するあたしと瀬奈の間には、埋められない溝があるのを感じずにはいられなかった。
音を聞くたび、思う。
――――本当にこれでよかったの?
待ち望んでいたはずの混沌を全く楽しくない気持ちで眺める。
このとき、
「あれ」
ガタガタと屋上のドアが揺れ出した。
その乱暴な振動で、人がドアを開けようとしているのだと知る。
――――ドンッ!
ついには押し開けられたその扉から、スーツを着た女性がふらふらと死んだ目でこちらに向かってきた。
不審な様子ですぐに察した。
「……!」
そう、女性の首には魔女の口づけが落とされていた。
すぐに駆けつけ、あたしたちに目もくれない女性に魔力を流す。
額に微細な魔力を通して攻撃を加えると、彼女はたちまち気絶した。
普通はこんな応急処置を取らない。被害者を仲間の魔法少女に任せて、口づけをした魔女を倒すのが通常の対応だ。
しかし、あたしたちの実験がまだ終わっていない以上、気絶させることで自殺を防ぐしか方法がない。
女性の脈拍を確認してから立ち上がった。
すると、
「帆奈ちゃん、なんで助けるの? 全部壊すんでしょ?」
後ろから不満げな瀬奈の声が飛んでくる。
「壊すのは仕組み。人間じゃない」
「……分かっていないんだね。仕組みを作るのは人間だよ? そして人間はいつだって最悪の仕組みを作ってきた。人間はそういう害悪なの」
「…………」
「唯一帆奈ちゃんだけがやつらと違う。仕組みの中で生きるのをやめて、ずっと壊そうとしてくれた……そういう帆奈ちゃんだけが、救うに値するの」
瀬奈はなだめるように、優しい声であたしにそう告げた。
きっとあたしには、声と同じように優しい顔を向けてくれているだろう。
……だからこそ、振り返らなかった。
振り返れなかった。
心の中に、黒い靄が溜まっていく。
それでも大丈夫なふりをして背筋を伸ばすと、突然、大掛かりなクラクションが同時に鳴り響いた。
「――――っ!」
女性を床に寝かせて、急いでフェンスの方に向かう。
そこから飛び降りる勢いで上半身を乗り出して見ると、
「んふふふ、事故だね」
駅の真っ正面で玉突き事故が起きていた。
元々往来が激しい場所だったから、こういうことが起こりやすかったのだろう。自動車が数台、数珠繋ぎの状態になって燃えている。
サイレンの音、救急車の音。
金切り声が次々と上がる。
「…………あ……」
車だけじゃない。歩行者も巻き込まれて、3名ほど下敷きになっていた。屋上からでもはっきり捉えられるほどに、死体が、赤い。
またもやクラクション。またもや悲鳴が上がる。
命を助けに来た救急車が駅の中に突っ込んでいく。
交通事故と魔女の相性がたまたまよかったのか、それとも指示が強力だったのか。
予想を遥かに超える規模で、立て続けに悲劇が起きた。そう淡々と表現すべきことではない一つ一つのことが、そう淡々と表現されるくらいに、巨大な罪のほんの一部として起きていた。
阿鼻叫喚の様相を呈する世界。
視界でまばらに、赤い点が燃えている。
赤い点が先ほどまで穏やかだった駅に広がっていく。
あたしの肩にどんどん乗ってくる。
その重みに、骨が歪み、折れていく。
人が死ぬ。人を殺す。
それはどういう意味なのか。
人が自分の手で死ぬ。死んでいる。
その意味が、実に……実によく分からない。
命の重さをうまく感じられないまま、命を背負う。
それによって押し潰されながら、それをうまく感知できずにいる。
人を殺すのは初めてじゃない。
いじめたやつらを消したとき、あたしは罪を犯したのに笑えていた。
それは、あいつらは絶対的な悪だと思えたからだ。
瀬奈が魔女になったあとも、間接的に何人も殺しておきながら、ひたむきに目的のために生きてこれた。
それは、あたしには大義名分があったからだ。
そうだ……この悪性の底なし沼で息ができていたのは、あたしに相応の理由が備わっていたからなんだ。
だからこそ覚える、内に向けられた破壊衝動。
キンキンキンキンと。
うるさい。
ああ、サイレンの音がうるさい。
音と音が混ざる。不調和音を響かせる。隅々まで侵される。
「……あ、ぁ……」
頭が、割れそうだ。
しかし動けない。逃げられない。
足を縛りつけられたように、見つめたくもない光景を見つめている。
「帆奈ちゃん、大成功だね! 狭い範囲だけど、世界が着実に壊れてってくれてるんだよ。ほら、また一人死んでくれた」
となりを見ると、瀬奈は陶酔したように手を重ね合わせ、世の終わりを崇めていた。
天真爛漫な表情で、純粋無垢な思いで、死を喜んだ。
目の前の惨劇は瀬奈にとって喜劇でしかなかった。
人間は敵でしかなかったんだ。
……答えはもう分かった。
あたしの負けだ。
だったらもう、この実験を続ける必要はどこにもない。
「……終わりに、するよ」
辛うじて喉から声を絞り出し、あたしは今度こそ本当にフェンスを飛び降りた。
そろそろ他の魔法少女も駆けつけてくる頃合いだろう。先越される前に、グリーフシードを全て回収しなければいけない。
死んでいく人々を前にしてそんなことを考える余裕があることすら、今は耐え難い。
冷え切った心は……罪を犯すことに慣れ切ってしまったあたしの理性は、醜いものだと思った。
◇
――――なんてひどい。
――――妹さんのお見舞いに来ていた子じゃない。
――――まだこんなに若いのに……。
横たわっている死体のそばを通り過ぎると、救急車から涙混じりの声が聞こえた。
ハエが耳元で飛び回っているように、残響が大きくなったり小さくなったりしている。
その受け止めきれない音をかき消そうと、単調な作業を無心で繰り返した。
魔女結界に入っては、暗示を掛けた魔女を殺す。ペットにしていた魔女を一つずつ潰す。
そんな作業を、機械になったつもりでやった。
途中で魔力反応がしたりもしたけど、知っている追手の魔力パターンはなかった。
いや、追手の魔力パターンがあったとしても、もういい。
もういい。もう殺されても。
そうだ……あたしは最初から殺されたかったんだ。
最初から悪は裁かれるべきだったのに、引きずったからこうなったんだ。
あたしが魔女を回収している間、瀬奈は上機嫌であたしを応援しながら褒めていてくれた。
だけど、嬉しいとも悲しいとも感じなかった。
もう何も感じない。
悪が滅ぼされるのは摂理だ。
それこそが筋であり、瀬奈が生きていくに値する世界にするために必要なことだ。
今のあたしは、瀬奈を苦しめていた存在と同じ立ち位置にいる、悪の代名詞。
だから――――あたしが生きているのは間違っている。
あたしたちの大切な約束は間違ったものだった。
間違ったものを守り抜くことで、果たして幸せな未来は望めるのか?
遅すぎた疑問を胸に抱いて、あたしは帰路についた。