休日のオフィスビルには人がいなかった。
平日であれば追手たちは混乱を起こさないように追跡をやめてくれていたかもしれないけど、残念ながら暗闇の中で唯一響いているのはあたしの荒れた呼吸音だ。
追駆から逃れるために長い廊下を走る。
このオフィスビルには何度か来たことがある。もちろん、消灯のためだ。
あたしにあってあいつらにないもの――――それは、屋内の構造をも熟知していること。
あいつらだってあたしの手がかりを調べている中で、ある程度の土地勘が身についているだろう。
しかし、ここら辺のビルを全て回って管理者やマップを頭に叩き込んだあたしには遠く及ばない。地形を知ると言っても普通は屋内まで把握しようとしないものだから、当たり前といえば当たり前だが。
このビルは規模が大きく部屋の数も多いから、身を隠すのに適している。
追手が追いかけてきていないことを確認してから速度を緩め、エレベーターホールまで行って現在位置を把握した。
「10階、か」
真ん中くらいの階だった。
無人の今エレベーターを使うのは自らの居場所を相手に教える行為に等しいから、逃げるとしたら左右にある2つの非常階段を使うしかない。
逃げ道を塞がられる前に、一旦別の階まで向かわないと。そこで方針を立てよう。
通路の終わりにある扉を開けて、階段に駆け込む。
隣接の階は発見されやすいだろうから、急いで5階まで行き、廊下に出た。
一旦この階の部屋で息を潜めてやり過ごそう。
極力音を立てずにドアを開けて、広いオフィスに入る。
事務机の間を通り抜けて、窓に近い個室にこっそりと入った。万が一の場合に再度窓を割って脱出するためだ。
ただ、できればこの手は採りたくない。
確かに魔法少女にとって5階からの着地は容易いものだが、窓を割るのは目立つし、空中に身を投げているときは落下しているしかないから、あまりに無防備だ。
追手の数が把握できていない以上、むやみに自分を捕まりやすい状態に晒すべきではない。
それに、1分はとっくに経過していた。暗示が解け、常盤ななかとあの青いやつが戦線復帰してくる頃合いだ。
あの女なら、少なくとも一人は外に配置して臨機応変に対応できるようにするだろう。更に1階の出入口と屋上も封鎖してくるはずだ。
さて、どう脱出するか。
(……地下、地上、空中)
このビルに対する理解を記憶の底から掘り出す。
(――――っ!)
「……あっは」
小声だが、答えにたどり着いた喜びをこぼした。
「あたしは滅ぶよ……追いかけなくたって、こっちから出向いて滅んでやる。だけどさ……」
「瀬奈を展望台に連れてあげるまでは死ねないんだな、それが……!」
立ち上がる。今から非常階段で1階に向かおう。1階まで行き――――入口ではなく、
なにせ、今日はエックスデー、消灯する日。
だとすれば、無人というのは単なる先入観にすぎない。
今度は出るためにドアをゆっくり開けて、静まり返った廊下に出る。
追手の姿がない。おそらくまだこの階にたどり着いていないのだろう。
静々と歩いて、目的地に近い左手側の非常階段まで来た。
思い切り螺旋階段の真ん中の空洞に向かって跳ぶ。
「……よっ、と」
重力に体を委ねて1階まで運んでもらった。
着地するときだけ手すりにつかまって打撲を防ぎ、床を蹴ってしまわないよう手すりを跨って内側に入った。
廊下に通じるドアを開ける。
ギィーという古びた音が響いた。
バレないでくれよと心の中で念じながら、忍び足で垂直の密閉空間から外に出た。
「…………っ」
胸が緊張でバクバクしている。
ここをしくじったら、瀬奈を救う計画は全て水の泡となってしまうのだ。
あたしが死ぬ分にはいいけど、瀬奈の命が掛かってる以上失敗は許されない。
慎重に部屋と部屋の間を進みながら、魔力の気配を探る。
すると、
「――――!」
先ほどと同じ反応がピリッとこちらに伝わった。
(これは、おそらく……)
青いやつが入口の方で待機している。
移動していないということは、あたしが同じ階に下りたことにまだ気がついていないのだろう。
動きを把握されていない事実に胸を撫で下ろすも、いつバレてもおかしくない距離なので、急ぎ足で給湯室に向かう。
扉を押してこっそり部屋に入る。
奥にスタッフオンリーと書かれた扉があるのが目に入った。
「……ここだね」
あたしはこの隠れた扉を知っている。消灯の調査の際に知った。
深呼吸をして、ドアノブに手を掛けた。
ドアの向こう側には、
一段一段下りていき、地階に移動する。
地下一階の戸を引くと、人目を気にした小綺麗な白い空間から一転、無機質なコンクリートで構築された細長い通路が続いた。
機械室、倉庫、ゴミ置き場……普段なら開けようとも思わない部屋がずらりと並んでいる。慎重に進み、真ん中に位置する部屋の前に立った。
――――電気室。
「…………」
ガラリと開ける。
案の定、部屋の中には人影があった。
あたしが消灯するように指示していたスタッフの男性だ。
暗示を掛けられたまま、指定した時間を待って呆然と突っ立っている。
「……代わりにやったげるか」
男の前を通り、予告なしに変圧器の入った箱に向かってマンキャッチャーを大きく振り下ろした。
ガチン、と火花と共に飛び散る金属の音。
それが清らかに響いたあと、叩き割られた電気設備だけが残されていた。
壊れた機械を見た男は我に返ったようにピクリとした。
与えられた役割をなくして、ようやくお目覚めってとこだろう。
「――――しっ、静かに。
で、お願いなんだけど……今から車を出して」
叫ぶ暇を与えず次の暗示を下す。
すると、男の瞳から瞬時に光が失われた。
こくりと従順に頷く男。そいつがいそいそと部屋を出るので、あたしはその後ろについて駐車場に向かった。
夜の駐車場はなかなか不気味だった。無駄に広い上に肌寒く、真っ暗なのも相まってこれこそ幽霊が出そうな雰囲気だった。
男が自動車のエンジンを掛けると、あたしも後部座席に乗り込む。床に座って、外からはあたしの姿が見えないように体を丸めた。
足の方に振動を感じる。
さっそく男は車を発進させ、地下駐車場の出口に向かった。
「このまま電波塔まで行って」
指示すると男は再度頷く。
あたしは一段と低い位置から窓を見上げて外の状況を観察していた。
ビルとビル、そしてたまに街路樹があっけなく流れていく。
「……今のところ、大丈夫そうか」
休日のオフィスビルから車が出るのは明らかに不審ではあるが、一般人に危害を加えるつもりがないからか、常盤ななかたちは追ってきていない。
もしかするとあたしが見えない位置から後をつけて下車を待ちわびているかもしれないけど、車内にいる分には安全だろう。
束の間の安息にほっとして、暗い夜空を眺めた。
ひとまず危険が去ったからか、ふと自分の状況を客観視する。
不思議な気分になった。
こんな一般家庭が乗るような普通自動車に乗ったのは人生で数回しかない。死ぬ直前に、多くの人にとって当たり前の日常を経験することになるとは。
(運転免許を取って、こんな感じの車を買って、それで瀬奈と一緒に海沿いでドライブしてみたり……)
馬鹿げた幻想が浮かんでくる。
それを考えたってしようがないと分かっていながらも、画面が勝手に浮かび上がってくる。
でももうすぐ電波塔に着くし、あと少しだけ夢に浸っていてもいいのかもしれない。
(そうだなぁ、曲を流そう。イイ感じのプレイリストを作って、それを聞きながら運転しよう)
(瀬奈、どんな曲が好きなのかなぁ。窓ガラス壊して回る感じの曲はあんまり好きじゃなさそうだなぁ)
(……そういえば、本当に好きな食べ物も分からないままだった)
今更、知りたかったことがわからずじまいだったことに気づく。あたしも瀬奈も、日常の形が他人と少し違っていたから、お互い受け取った情報に偏りが生じていたのだろう。
好きな曲を聴かせ合ったり、好きな食べ物を一緒に作ったり。本当はそんな生活が送りたかったけど、それがいつの間にかあんな遠い場所に――――この夜空より遠い場所にまで行ってしまった。
「…………考えたってしようがないよなぁ……あっは……」
結局は諦観に戻る思考を口に出すと、
ギィー。
車の速度が下がり、やがて止まる。
目的地に着いたのだ。
「……ありがとね、おじさん」
運賃は残念ながら払えないが、夢を見させてもらった分の礼は伝えておく。
車を下りると、ブーンと、あたしを乗せていた自動車が遠ざかっていった。
ソウルジェムを出し、魔力反応を探る。
深く息を吸い込んで、どんな微細な動きも逃がさないないように五感を研ぎ澄ます。
「……まだ来てないか」
油断大敵だが、少なくとも客観的情報としては追手がいないようだった。
振り返り、仰ぎ見る。
夜空を背景にして、巨大な電波塔がそびえ立っていた。
真っ暗な町の真ん中で燦々と輝く中央区のシンボル。
すたすたとその裏にある小さな入口まで歩くと、変身を解き、リュックの前ポケットを開けた。
その中には、グリーフシードがもうない。瀬奈との実験で回収したものも全て残りの仕上げに使ってしまった。
「まあ……もう死ぬわけだし、ね」
ポケットから合鍵を取り出して、回す。半年前に手に入れた、展望台に続く非常階段の鍵だ。
中に入るや否やすぐにバタンとドアを閉めた。
息を一つ吸い込む。そうしてから、タッと地面を蹴って、階段を駆け上っていった。
タッ、タッ、タッ!
外観と違って暗闇に包まれた鉄骨の裏側にはっきりとした足音を響かせる。小刻みなリズムは途切れることなく上昇していく。
タッ、タッ、タッ!
「はぁっ……はぁっ……」
いくら魔法少女でも、展望台までの螺旋階段をひたすら上るのはそれなりに体力を消耗する。
ただこうして規則的な運動をしていると、色んなことを考えすぎてぐちゃぐちゃにこんがらがっていた頭がスッキリしてきた。
「あっははっ……はぁっ……!」
思わず笑ってしまう。
あたしは一体何をしているんだろう。せっかく受験勉強で水名の特待生になれて、いじめてきたやつらも消して平穏な日々を送ろうとしていたところだったのに、瀬奈と出会って全部全部ひっくり返った。
学校はやめたし、好きな人は魔女だし、人間をたくさん殺した。
そんで、今はこの足で電波塔を上って!
この町全体を使った最高のプレゼントを贈ろうとしていて!
その後は他人に殺されに行くんだ!
本当に清々しいくらいに人生がひっくり返っちゃった。
「でも……っ、ねっ……」
後悔はたくさんあるけど、瀬奈のためにここまで頑張ったことは後悔していない。
瀬奈のためは、あたしのためでもあるから。
あたしの心はそれで満たされてしまうから。
静寂の間を突っ切りながら、思い返す。
光に飢えた蛾は、その末路を知ったからといって燃え盛る炎に飛び込まないわけにはいかない。
それは滑稽な話だと思っていたけど、それで光に照らされることができるのなら等価交換だ。
命を捧げる代わりに命が価値を得るのだから、悪くない話だ。
この選択が本当に救いをもたらすかすら分からない。唯一分かるのは、瀬奈がこの世界にいる――――それが真実であり続けること。
「ぁっはっ、あはは……っ!」
腹を抱えながら電波塔を駆け上っていく。
そうだった。究極的に言えば、何が正しいのか正しくないのかなんて、初っ端からどうでもよかったのだ。
あたしにはできないことがある。そういうふうに設計されているのだからそういうふうにしか生きられない。
たとえ瀬奈を消すことが世界を救うことになるとしても、瀬奈に生かされているあたしには瀬奈は殺せない。
だから、これがあたしにできる最期の足掻きなのだ。
「はぁ、はぁ……はっ――――」
最上階の扉の前に着く。
同じ鍵を差して回し、震える手でドアを開けた。
すると、
「あぁ……よかった」
あたしのプレゼントは無事に完成していた。
夜が更けた今だからこそ煌めく、生への祝福。
瀬奈への想いはこの光に凝縮されていた。
誕生日おめでとう、という言葉は、命を必要とする者が贈る最上の肯定だ。
そしてプレゼントはその最上の証明だ。
生を求めるから誕生を喜ぶ。
誕生を喜ぶから贈り物に人生を費やす。
もし客観的事象でしか物事は証明されないのだとしたら、そしてもし証明されないものは存在しないものに等しいのだとしたら、全ての行動で必要性を証明すればいい。
そうすれば、あたしを構成する全てはあんたを必要としていることになる。
「……瀬奈」
あとはこれを瀬奈に贈るだけ。
たとえこれを受け取った瀬奈が、もう昔のような笑顔を向けてくれないのだとしても。
あたしは全てを込めて贈ろう。瀬奈にあたしの全てを伝えよう。
今から、全てを包み隠さずに伝える。
「それが、あたしたちのさよならになるから」
つぶやく。
背筋をビシッと伸ばしてから、あたしは瀬奈のいる場所に魔力を送り込んだ。