そうして現実は夢を追い越した。
◆
べちゃっ、べちゃっ、と。
挽き肉とジャムをばら撒いたような床を踏みしめながら、部屋の奥に向かう。
「――――」
恐ろしい何かがここに棲んでいる。
知らない誰かがあたしを見ている。
黒い影がベッドの下から伸びてくる。
死体が増える。どんどん膨れ上がる。
「瀬奈……?」
気づけば、ベッドの上には瀬奈が横たわっていた。
上から覗く。
息がない。
「あ……あれ」
まるで魔法のように……いつの間にか、あたしはナイフを手に持っていた。
体が勝手に動く。
関節が一人歩きした。
誰かに操られたように制御の効かないあたしの肉体は瀬奈に向かってナイフを振り下ろし――――
「――――!」
ぽふっと、手応えのない反動を得た。
いや、違う。何の衝撃もない。
深く切りつけていたはずの手は、高く空に伸ばされたままだった。
「あ……ぁ……っ」
部屋は平穏に戻った。
バクバク跳ねている心臓だけが先刻までの異常を告げている。
目の前には瀬奈がいない。視界に入っているのは空き家のベッドだけだ。
あたしを見ている者も、勝手に纏わりつく影も、血も死体もない。
ここは至って正常な部屋だ。
「あっは……なん、だったん、だろ……」
縮こまり、無理して笑う。
自分の状況は分かっていた。
見えてくるものも聞こえてくるものも信用ならない。
そう……魔法少女の身体は病気にならないが、心の方は倫理の毒に侵されるということだ。
グリーフシードを集めるために犯してきた罪で、あたしはとっくに限界を迎えていた。
未だに善を尊ぶ心と悪を突っ走る行動があまりに不均衡だから、精神の基盤が徹底的に崩れてしまったのだろう。
そう客観的に自分を分析するくらいの理性が残されている理由は、あたしが大きすぎる約束を抱えているからだ。
「……瀬奈」
名を呼び、プログラムを起動させる。
「…………」
そうして現れた瀬奈は虚ろな目をして突っ立っていた。
――――あれから、あたしと瀬奈は遠い町に逃げた。
魔女退治と宿探しに明け暮れる流浪の日々。
あたしは瀬奈の魔力を賄うために、魔法少女をグリーフシードにするといういつぞやの提案を実践した。
それと同時に、瀬奈との約束を実現するために、瀬奈を原型に留める方法を一生懸命模索した。
しかし、後者については、努力がことごとく水の泡になった。
瀬奈は今にも魔女に同化してしまうというところまで来ている。
辛うじて瀬奈を繋ぎ止めているのは、あたしの存在そのものだ。
瀬奈は過去を全て忘れた。笑い方も忘れた。
昨日のことも、もう思い出せずにいる。
ただ分かるのは、
「帆奈ちゃん……」
あたしのことだけ。
瀬奈はあたしと一緒にいる、そのことだけを目的に生きている。
瀬奈には今日しかない。明日になれば、今この瞬間の出来事も魔女に侵食されて、瀬奈の独立を脅かすデータとなってしまう。
だから、瀬奈はどんなに嬉しい思い出であっても、その記憶を解除して忘却せざるを得ないのだ。
そして、あたしは明日になれば失われる今日を瀬奈と共に過ごすためだけに、こうして息をしている。
この人生の先に喜びはない。あるのは積み上がっていくばかりの罪だ。
それでもどちらかが潰れるまで、あたしたちはお互いを生かすために生きなければならない。
明日に命が失われることに怯えながら、あたしは瀬奈の体に腕を回し、恐怖を鎮めるために強く抱きしめた。
瀬奈はあたしに触れてもぽかんとした表情のままだ。魔女の見せる悪夢に抗うのに、全ての精神を使い果たしてしまったのだろう。
さながら生き地獄の今日を、あたしたちは生きている。
本当の地獄に落ちるまで、ずっと。
END:生き地獄