夜遊美乃謳 作:noll【ナル】
胸倉を掴まれ、息が詰まるかと思った瞬間に襲い掛かって来たのは強烈な拳であった。突然の衝撃に目の奥がチカチカしたような気がするが、それよりも何よりも久しぶりに来る痛みに内心目を丸くした。
――あれ、俺って線路に落ちて轢かれたんじゃ?
そんな思いが湧きあがるも、それを塗り替えるように追撃とばかりに俺の無防備な腹へと拳が突き上げられる。俺は言いようの知れない痛みと衝撃、そして突き上げられたことによる内容物の逆流に血の気を引いた。思わず口元を押さえながら蹲れば、俺を嘲笑うかのように頭上では品性の欠片も無い下衆いた笑いが口々に吐きかけられた。
――なんだ、いったい? どうなってるんだ?
全ての事に辻褄が合わない俺は痛みと吐き気を堪えながら困惑するしか出来なかった。どういう事だ、それしか脳内を埋め尽くしていなかったのだが、亀のように蹲った俺に対し、まるで御伽噺に登場する亀を虐める餓鬼かのように俺を足蹴りにしてくる奴らに俺は言いようの知れない殺意を覚えた。しかし何処からどう見ても惨めな俺を助ける者など皆無。というか、俺が第三者であっても多分助けない。どういう状況でこうなったのかは謎だが俺であれば自業自得だろう、と判断して慈悲があれば警察に連絡する手段を取る。それが世の常であり、理想形であろう。触らぬ神に祟りなし。
しかし訳も分からずにいる俺にとっては少しでもこの状況が打開できれば御の字なのだが……、さてどうしたものか。というか、え? 俺ってマジでどうなってんだ?
俺の腹をゲシゲシと遠慮なく蹴ってくれる奴らを尻目に俺は内心で首を傾げる。しかし記憶を探ろうにも背中を押されて線路へのダイブ、という割りと衝撃展開が脳内を埋め尽くしている為に答えが一向に出て来ない。むしろ出てきたら快挙であろう。そんな一人討論を内心で繰り広げていると、近くでグズグズと惨めに泣く声と「すんません! すんません!!」と許しを請う弱者の声が聞こえた。その声に俺は何処か聞き覚えがあったのだが、やはり記憶の海から引き上げられてくる情報は皆無であった。誰だっけ、という無情な思いを脱却するために隙間から声のする方へと視線を向ける。
すると俺の脳内に一つの稲妻が走った様な気がした。
「――は?」
飛び出てきた声が何とも間抜けであったと同時にか細かった。そして俺はその光景に見覚えがあった事を流れ込んでくる記憶の激流によって思い出した。弾ける脳内、顔、声、名前、そして繋がり、記憶の海から救い上げられた薄れていた思い出が次々に引き上げられていく。それに涙が滲み、そして小さく「なんで」と口に出した。本当に訳が分からな過ぎて自分の意識が可笑しくなりそうな錯覚を覚えてしまう。
コレは電車に轢かれた事による現象なのだろうか? つまりコレは走馬燈? 死ぬことの無い半端者が走馬燈を見た? なんで、どうして? 疑問が次々と湧いては答えが出て来ずに涙を滲ませ、自分は目の前の出来事に目を逸らしたかった。
コレは懐かしくもあり、苦い思い出。まだ自分という存在が人間であった時の楽しかった日々だ。でも――、今は違う。いや、正確には今起きている出来事から俺の人生は普通から逸脱したように思う。そしてそこから起きた出来事を切っ掛けに俺は人ではなくなった。昼の世界で生きる事が難しくなり、夜の世界へと逃げた。
日差しを受けても針を刺す痛みが無い事に嬉しさを感じた。口の中にある犬歯も一般的な長さだ。間違っても口内で怪我をする心配が無い標準的な長さだし、鋭利じゃない。肌も病的な白さじゃない上に、黄色人種特有の色だ。全てが俺の懐かしい物たちだった。嬉しい、それだけがただただ嬉しかった。かつてあった物たちが帰ってくる喜びは失った者にしか分からない事だ。
どうしてこんな事になったのかは分からない。だが、コレが俺にとって都合のいい夢幻であるならば、どうかかつて出来なかった俺への
俺はそう願ったと同時に、目を固く閉じて息を深く吸い込んだ。渦巻いている疑問など全て薙ぎ払い、俺は守りの体勢を解き、反撃する道を選んだ。
*
人間と言うのは単純であり、油断の多い生き物だと自負している。自分が優位に立っていると錯覚している時ほど人間というのは一番迂闊であり、少しの事で統率は乱れる。だからこそ、今は好機であった。どう見ても負け一択、そんな人間が急に反撃に出ればどうなるか。人とは面白いと思うと同時に、これが弱肉強食の世界だと教えてくれる。
吸血鬼としての血が目覚めてから力をセーブしていた。下手をすると人間など俺の拳一発で木端微塵になるからだ。だから人との争いは出来るだけ避けてきた。でも今なら、人としての血が濃い、人間の部分がまだ残っている今なら、思う存分の力を奮っても粉砕することは無い。それがとても嬉しく、俺は目の前に立ち塞がる一個上の先輩に先程のお返しとばかりに拳を放つ。
図体がデカいと小回りが利かない、背が女みたく低い俺なら懐に入り込むなど造作もない。そうして人の急所の一つである顎を的確に狙い打てば人は面白いほど呆気なく倒れてしまう。
次の狙いを定めれば先程の攻撃を見て学習したのか足技を駆使してくるも、普段使いしていない事など丸わかりで、俺はそれを交わして逆に一本足になっている事を良い事に足払いをかけて転がしてやった。防御することも出来ずに頭を打ってもんどり打っている男に先程の足蹴りのお返しだと同じく足蹴りを腹に二、三発してやれば汚らしい唾液を砂に撒き散らし嗚咽した。ちょっと蹴り技強すぎたか? とやや不安に思いつつも同等の力だった気がするし、大丈夫だろう。と勝手に判断を下す。さーて次々、と次の獲物を捉えようとすれば向こうから「おらぁてめぇ!!!」と品性の欠片も無い声と共に名乗り出てくれた。俺はそれに「こいよおらぁ!!!」と迎え撃ち、相手側のパンチをいなして鳩尾に膝を喰らわしてやる。え、弱……と驚異の弱さに目を丸くすると同時に先程まで相手に土下座して謝罪していたかつての友人が目を丸くして俺を見ていた。思わず吹き出しそうになった笑いを堪え、俺は次の標的を見つけようとした。しかし、三人という人数を倒した事による功績か、相手側の威勢が萎んだように見受けられた。
「あれ? もう来ないんすか? 案外、臆病者なんすね先輩?」
「あ? んだてめぇ!?」
「さっきまで亀みてぇだったくせに、チョーシ乗ってんじゃねぇぞ、ゴラァア!!!」
煽るように言えば面白いように釣れる光景に堪え切れず笑みを浮かべながら「威勢だけは良いですね」と続け様に煽りをきかせる。こういう喧嘩は相手の理性を失わせた方が決定的な勝利を導き出す。俺は青筋を立て始める残り三人を見やり小首を傾げて問うた。
「それで? 亀みたいだった俺ともう一戦やってくれるんすか?」
センパイ、と揶揄いを滲ませたイントネーションで煽ってやれば三人の内、二人が釣れた。先陣きって拳を携えたまま俺を殴ろうとしてくるお座なりな攻撃を笑って受け止め、俺は意表を突かれたかのように間抜け面をする男の腕を引っ張りバランスが崩れた所を顔面キックを喰らわす。防御も出来ずにクリーンヒットした顔面を両手で抑え込む惨めな男に後続に続く男をぶつけさせタイミングを狂わせる。まるで仕組まれたドミノかのように崩れていく様は酷く滑稽で哀れにも見えた。俺はそのまま倒れ伏す男二人を見下ろしながら男の急所である股間を踏みつけてやる。悲鳴を通り越した言葉にもならない絶叫に俺は笑みを浮かべつつ、最後の一人となった男を見やり「で? まだやります先輩?」と小首を傾げて問いかければ残された男は面白いほどに身体をビクつかせてその場から逃走してしまう。俺はどーしよっかなー、と一人黄昏ながらもとりあえずかつて捨てる事になった仲間たちの元へと足を進める事にした。
俺を含め五人のなんちゃって不良グループ。少し喧嘩が出来るだけで世界が俺たちの物だと勘違いしていた子供ながらの狭くも楽しかった世界。でも、今日起きた喧嘩で本来であれば子供ながらだった世界は崩壊し、俺たちは本当の不良の道へと堕とされた。ただ友達と楽しく馬鹿みたいなことをしながら自分を護る為に拳を揮う、何処かの不良漫画みたいな事を思い描いていたのが一変し、弱肉強食の死の世界に日々絶望していた。そして終わりなき世界が続くと思った最中で待っていたのは人としては生きられない母からの真実。
全てが狂ってしまった事に悔いる事は何度もあった。時が戻れるのならば、やり直しという物が出来るのならば、俺は迷わず今起きていたあの瞬間を思い出すであろう。
そしてそれが今さっき達成され、俺の中で燻っていた闇が晴れたような気がした。だからあの時、後悔と絶望で黄昏ていた言葉じゃない言葉を彼らに告げることが出来る。それが堪らなく嬉しくて、悲しくて、何処までも残酷で都合の良すぎる夢だと感じた。頬に何かが流れるのを感じながら、俺は雨かな、なんで馬鹿みたく臭い事を思いながら目を丸くする四人の元へと行き、しゃがみ込んだ。
「勝ったぜ、おめぇーら。帰ろ」
そう言った瞬間、四人から涙ながらの熱い包容が来ることに目を丸くしながらも、流石に雪崩れ込むようにしてやって来る四人を受け止め切れず、そのまま地面に倒れ伏すことになった。イッテェ、と反射的に思ってしまうものの両手から感じる人の体温に懐かしさを覚えた俺は気付けば歯を見せて笑みを浮かべていた。
幸せ過ぎる夢に俺は目覚める何時かに自然と恐怖した。
*
過去の自分が覚えていない夜の世界。でもそれが、本来の俺が生きる世界だ。夜は血が騒ぎ、全身に燃えるような熱が走る。だから吸血鬼はなるべく軽装を好む。その例にもれず俺も夜は欧米人並の軽装で冬を過ごしたりもして周囲からドン引きされたのが懐かしい思い出だ。
終わりが来ない走馬燈に首を傾げつつも、俺は上空に浮かぶ月を見て奥底から何かが熱く巡っていくような気がした。月に魅入られた、なんて馬鹿かと思うがまだ目覚めてもいない吸血鬼としての血が一瞬だけでも起きてしまえば、俺はそれに抗いなど出来る訳がない。
吸血鬼に正装なんてない。己が思う服を着れば、それが己としての正装となる。十六歳になった時、母から告げられた言葉だ。俺は出来るだけ涼しい格好と、タンクトップやハーフパンツなどを選ぶ。そして最後の仕上げとして万が一朝日を浴びても肌を守れるように自分の姿をスッポリと覆える黒いコートを羽織る。コレは中一になった頃に母から押し付けられたコートなのだが、まさかそれが役立つ時が来るとは思わなかった。
窓を開け、夜風を浴びながらコートに付属しているフードを目深に被る。
「さあ、夜遊びの始まりだ」
ニヤリと月と共に笑みを浮かべながら、俺は窓から外の世界へと飛び出した。風を受けてコートがはためくその姿は、まるで翼を授けられた悪魔のようであり、月光を浴びた俺は脚力を使い屋根と屋根を渡り歩き、当てもない夜の世界へと身を進めるのだった。
*
都会は眠らない街と言われている。確かに俺が数年暮らしていても、この街が静かに眠った時など一度も無かったような気がする。だからこそ、化け物であろうともこの街は誰もが自由に受け入れてくれる。そんな気にさせてくれる。だからきっと俺はこの街を捨てきれずにいるのだろう。
遠くで聞こえる車の排気音もバイクのマフラー音も変わらない。人々の騒めきも、酔払いの怒号も、それを宥める仲間の声や警察官の嘆きの声も全て。タワーマンションの明りも消えているのもあれば煌々と煌めく場所もある。ヘリが飛び、ビルの屋上に設置された航空障害灯が怪しく点滅している。そんな街の中を俺は人知れずに上を歩く。
「――ん?」
屋根伝いに歩いていたそんな時、俺の耳に何かが拾い上げられ、俺の足がふいに止まった。立ち止まった先に広がるのは住宅街。そして目と鼻の先にあるのは木々が生い茂る公園。初めはそこで猫の縄張り争いの喧嘩かと思ったが、よくよく耳を澄ませてみると如何やら人間同士の喧嘩だと分かった。不良同士の喧嘩であれば止めはしなかったのだが、聞こえてくる会話の節々に女性の声が混じっている事を知り、少し違うな、と感じ取った。
打撃音が聞こえ、悲鳴が聞こえ、下品な笑い声が耳に入るのが酷く気分を害した。月に魅入られて高揚していた気分が一気に堕ちて行くのを感じる。俺は気分を害された苛立ちを抱えながら下へと降りて行く道を選んだ。
ふわりと飛び上がり、ゆっくりと降下する。等間隔に設置されている外灯の隙間から人が殴られ蹴られていく影を見て俺はまるで自分が殴られたかのような錯覚を覚える。しかし同時に女性の抵抗する声を聞いた瞬間に、俺は目を細めた。
「それは違うんじゃないか?」
徐に呟いた言葉を口にしながら、俺は地面に足を着けたと同時に大きな声で「ねえ!」と声を上げた。まさかの第三者の登場に当事者たちは各々で異なった反応を見せてくれたのを面白く思う最中、一足早く我に返った不良の「なんだてめぇ!?」という威勢のいい声が夜の公園に響いた。しかしその威勢のいい声は何処か震えている。なんでだろう、とふと思うもそう言えば今の恰好ってコートを羽織っているせいで全身真っ黒な出で立ちだった事を思い出した。あぁ、だから……と一人で答えを導き出して一人で納得していると「おい、関係ねぇならすっこんでろ!」と別の不良が声を上げた。そして不良に拘束されている女性が口元を押さえつけられている中で「んー!!」と言葉に出来ない悲鳴を上げているのも耳に届いた。
「嫌がってる女性を無理矢理どうこうするのは男の風上にも置けないと思うけど?」
「あ? いっちょ前に説教か?」
「説教だと思う?」
「つーか、声からしてお前ガキか?」
「おいおい、ガキならとっとと家に帰ってママのおっぱいでも吸ってな?」
俺の声を聞いた不良が急に元気を取り戻したかのようにゲラゲラと笑い始め下品極まりない事を口走る。これに俺は一人「うわー、懐かしい台詞。マジで言ってる奴っているんだ……」と不良の台詞に感動していた。
「あ? 何ブツブツ言ってんだ?」
俺が一人で感動に浸ってしまっていると、不良が俺の態度にいちゃもんを付けてくる。それに思わず「あぁ、ごめんね」と反射的に返してしまうと舐められていると感じ取ったのか「あぁん?」と厳つい声を上げて来た。
「舐めやがって! おい、此処のルール教えてやろうぜ」
「そうだな」
出た、謎の不良ルール。懐かしすぎる。世界は俺らを中心に廻っているとイキっている時に登場する俺ルール的なやつだ。一般人にして見たら知るかボケ、な内容なのだが不良界だと勝った者に与えられた独裁ルールなので致し方が無い。かつての俺も辿った道だ。そしてその独裁ルールを覆すのもまた勝者のみの特権になる。だからこそ、行われることはただ一つなのだ。
俺はニヤニヤと勝ちを見据えている不良を一瞥しながら息を吐いた。仕方がない。俺は迎え撃つようにファイティングポーズを構えながら小さく呟く。
「夜遊びの邪魔をした罪は重いよ?」