扉の境界線が二人を離し、レヴィは扉越しにまだ部屋にいる【敗者】のことを見つめた。
自分のために用意した服のように感じられるが、サイズがあっていないのはそもそもこれがレディース服でもなければ小さな服でもない、別のものだからだろう。
レヴィはどこかで嗅いだことがある、と思いながらシャツの袖に顔を埋め、すんすんと匂いを嗅いで顔を綻ばせた。
「……いいにおい」
そう言った瞬間扉が開き、服を変えた【敗者】が現れる。
吹いた風から香る匂いを受け取って、あぁ、とレヴィは呟いた。
「この服、……」
「サイズが合わないか?貴様のような幼児に合うサイズの服などない。嫌なら全裸で過ごせ。それこそただの猿以下になるが……」
「……【敗者】の、匂い」
彼は憎たらしいような声で話していたものの、レヴィから零れた言葉で完全に言葉を止めてしまった。
「……?どうしたの?」
【敗者】はふいと顔を背けた。
レヴィは彼がなぜ言葉を止めたのか気になって、【敗者】の方に近づくが、【敗者】はその大きな手で彼女の頭を掴んで引き剥がそうとする。
「……あ、……なるほど」
――金を稼げるようになるまではこうやってサイズも合わない服を着て外を出歩いていたものだ。
戦う時なんかはサイズの合わない服なんて不愉快にしかならないけど、そうでなければ別に恥ずかしいところさえ隠れていればどんな服であろうが今でも気にしない。
レヴィは【敗者】から離れるとスタスタとあらぬ方向に歩みを進める。
風呂の時に移動した時から分かったが、この家はあまりにも広すぎるとレヴィは感じた。
一部屋だけで己の住んでいたワンルームと同じくらいだ。
それに、廊下の奥の曲がり角も階段も見えなかった。
多分それは本来存在しているはずだが、あまりにも大きい家ではレヴィの優れた視力も無駄になる。
「ふーん、……あいつ、いい家住んでるじゃん」
そんなことを言いながらレヴィが歩みを進めていると、突然早足で近づく足音が聞こえてきた。
「……おい」
「ん?」
「貴様……なぜわざわざ僕の目の前で脱走しようとする?」
「え?いや、服あげたから出ていけって事でしょ?」
【敗者】はその言葉に本当に意味がわからない、信じられないという表情を浮かべた後、無言でレヴィの腹を蹴りあげた。
「う゛ッ?!」
「貴様の頭には何が入っているんだ?砂か?それとも空気か?スポンジ以下の脳味噌でしかないからそんなことが考えられるのか?」
「はぁーー?!だって跳ね除けたのはそっちじゃん!」
「貴様が変なことを言うからだ!」
「変なこと言ってないし!」
向かい合って威嚇しあっていると、【敗者】はレヴィを担いで部屋に戻った。
「むぅぅうー……」
「は、またも脱走失敗のようだ」
「うるさい!そもそも服あげて体洗ったんだから施しは終わりでさっさと家に帰れって事じゃん!あげられるものなんか何も無いし!」
「なぜ僕になんのメリットもないようなことをして解放してやると貴様は本気で信じているんだ?対価を求めるに決まっているだろう」
【敗者】はソファに座ると、その上にレヴィを座らせて完全に拘束する。
頬をつついたり引っ張ったりして、完全に遊んでいるみたいだ。
先程スキンケアをする時に触れた感触の良さが忘れられず、【敗者】は檻に戻すよりも先にその頬に触れることを優先した。
そして、尻のポケットにまだ入っているボディクリームも早く塗る必要があるというのに、中々【敗者】は口に出せない。
「だって、わたしに利用価値なんてないもん。それに気づいた瞬間あんたはわたしを外に投げ捨てるか、それともボロ雑巾になるまでボコボコにするだけだよ。
あぁそうだ、さっき食事を摂れとか言ってたし……試しにヘビでも口に詰め込んでみればどう?」
レヴィはため息をついて、【敗者】の腕を掴もうとするも彼はふいと手を離し避けた。
そして、今度は整えたばかりの頭をくしゃくしゃと乱すように撫で始めたのだ。
「あんた人の話聞いてないの?!」
「貴様の妄想は聞き飽きた」
「妄想じゃなくて経験則!」
「妄想だ」
【敗者】はレヴィにここまでしてやったのに何の恩返しもなくこの女を離す理由などない。
際限なく利用して、命の全てを【敗者】のために燃やし尽くして、全てを捧げるのがこの女の役目だ。この施しは単なるラポール形成の為であると【敗者】は何度も己に言い聞かせた。
そうでなくても、自分の思考に異常をもたらす程の"何か"を持つ女を何も知らずに手放せるほど、【敗者】の知的好奇心は枯れ果ててはいない。
レヴィは突然体が動かなくなったと思った瞬間、【敗者】がすうと息を吸い込む音が聞こえて動揺する。
「ッ、……な、なんの、つもり」
「僕は無駄に何もしないで捨てるつもりなどない。僕の目的のために利用し、そのために意志など関係なく好きなように操る……価値がなければ最初から拾ってなどいない。それだけだ」
「どうせ捨て駒だって言ってることには変わりないでしょ?!ならもっと駒らしく扱ってよ!なんでこうやって優しくするの!?」
体をどうにか動かそうとしても、【敗者】の不明な力は強く全く動けない。
ただ叫ぶだけのレヴィに彼はくすりと笑った。
「……貴様はこれを優しさだと思っているのか?」
「そんなにわたしの言ってることは変?!
わたしのことをルビィの妹扱いしないことも、わたしに生きる価値がない、意味が無い、フォトンがないから出来損ないだ、呪われているって……
そう言わないことだって、それに、わたしに暴力振るうだけじゃなくて、頭に触ったりして……
そうやってすることを優しさだと思うわたしがそんなに惨めに見えるわけ?!」
【敗者】はいや、と直ぐに返事を返した。
そうではない、とも付け足した。
「貴様を評価してきたやつがどれほどの脳無しか、貴様を見ているとよく分かる」
「は……?」
【敗者】はレヴィのあまりにも常識知らずで愚かでバカな所は心底理解出来ず今日に限っては捨てたいと一瞬考えるほど苛立っていたが、レヴィの言う価値のないと彼の考える価値のないは全く一致していなかった。
そして、最後にはその愚かな所すら寧ろ何か心を柔らかくしていた。
「反フォトン体質の何処が"価値がない"と判断できるのか、僕には理解し難いな。呪い等のオカルト的な要素に踏み込むのもまた一興、それを研究し、解明するのが研究者のすることだろう?」
「……それだけじゃない。わたしは全部がダメなんだってさ」
「よくもそこまで根拠が無いことを信じ込めるものだ…」
レヴィの顎の下に彼の指が触れ、顔が持ち上がると【敗者】と目が合った。
彼はその赤い瞳をレヴィにだけ向けた。
レヴィの瞳は間違いなく【敗者】を見つめている。
「あぁ、……善い」
「え、……何が?」
「貴様の悪い所は自己肯定感が低い所、卑屈になる所、それから自己嫌悪しているくせに他人に攻撃的すぎる所だ。自信を持つかウジのように這いつくばっているかどちらかに絞れ」
「……?」
レヴィが【敗者】の言葉の意味を考えている間に、彼は彼女の目をその大きな手で覆った。
「生憎、僕は貴様の飼い主ではあるが貴様のカウンセラーになったつもりは毛頭ない。自分の希死念慮くらい自分でなんとかしろ」
「わたしはむしろ生き汚いほうで…」
「しかし、貴様は僕の飼い犬でなかったとしても、その辺を彷徨いているだけの有象無象の万倍も価値があることはこの僕が証明できるだろう?」
「る、……さ」
レヴィは彼の言いたいことがようやく理解できた。それはレヴィが言われたことのなかった言葉で、それを理解するまでには時間がかかった。
しかし、彼はレヴィに対して価値があると言ってくれているのだ。
出会ったばかりで、彼に対してなにか善行をしたわけでも無ければ彼の役に立ったこともないというのに。
――どうして彼はわたしにこんなに優しくしてくれるのだろう?
「……ありがと、【敗者】」
へにゃりと微笑むと、【敗者】は直ぐにその手を離し、レヴィの視界は開放された。
口元を手で抑え、睨みつけるように見る【敗者】の姿にレヴィは少し困惑するものの、彼の言葉は嘘だとは思えなかったから素直に喜ぶことにしたのだ。
「精々……僕の駒として働くといい。僕の足元に這いつくばる足置きとして、堂々としていろ」
よく考えてみれば常識知らずというのもメリットのひとつかもしれないと【敗者】は思った。
人として当たり前の事を何も知らないのであれば教えてやればいいだけだし、そんな些細なことを教えるだけで、地位や権力を与えたり、研究資金を投入して贔屓してやるよりも、ずっと簡単に相手から信頼を得て、忠実に従うように誘導できるからだ。
模造品のクラリッサ越しに声を伝えれば簡単に従わせられた三代目クラリスクレイスと同じように、【敗者】の目の前に立つ犬のような女だってその低い自己肯定感と初心な所から自分が味方であると伝えれば簡単に懐くだろう。
「……僕の、子犬」
_______
――まだ冷めやまぬ【敗者】の心がレヴィを檻には入れず、レヴィはいつになれば檻の中に戻るのかとじっと鉄格子の方を見つめながら床に座っていた。
「……野良犬」
【敗者】は心が揺らいでいた。
性欲も愛情も何も存在ないような冷えきった紛い物の知性に確かな火が宿り、空虚な心がが光で照らされるのを感じる。
「犬じゃないし…」
「そんなに嫌なのであれば、名前くらい言ってみたらどうだ?あぁ、だが駄々を捏ねてばかりで譲歩する気もない我儘で醜い実験動物のようになりたいなら別に僕は止めないがね?」
「…L」
レヴィの淡々とした返事に【敗者】は嘲笑う。
「そんなものは貴様の名前には値しないな、野良犬。狂犬か?幼犬でも良い。あぁ、躾の出来ていない馬鹿犬でも……」
「犬じゃないって言ってんでしょうが!」
レヴィは叫んだ後に俯き、【敗者】に向けて小さく呟いた。
「その、……待ってて」
「待つ、とは?」
まとまらない言葉に挙動不審で、床に膝をつけたまま【敗者】の事を見上げて恐る恐る言葉を発した。
「わ、わたし、その……人に名前を名乗ったことがないの。だから、……そのっ、頭の中がぐちゃぐちゃで、あんたの事、もっとちゃんと知りたいから、だから……待っててくれる?」
【敗者】は自然に首が動き、頷いていた。
断る理由がないと言うのは後付けのものとして、彼の頭の中にある何かに揺り動かされて、【敗者】はレヴィの顔を見ると無意識にそうしていた。
そして、【敗者】は手を伸ばしてレヴィの体を掴むと己の方に近づける。
「わっ?!」
「……エル」
「な、なに?あんた、……なんか、風呂入った時から変じゃない?いや、でもこんな短い時間しかいなかったし、変って定義するのはおかしい?でも、なんというか…」
【敗者】はレヴィの言葉に心の中で完全に同意した。
今の僕は変だ。どうかしている。
そう分かっていながらも、【敗者】の頭の中で常に計算されていた全ての計画がフリーズし、今は目の前の女をどうやって扱うか、どうやって自分に信頼させるか、どうやって自分が楽しむか、そんな計画が起動していた。
ダークファルスは深遠なる闇から生み出された、依代の強い欲望に取り付く生物だ。
ダーカー因子の塊であり、今は魂の無いと設定付られていた筈の器に入った【敗者】でさえ、いまだに彼の中には全知への強い執着が残されているはず。むしろ、変化することも無く、彼の意識と欲望はまるで記録のように停滞するはずだった。
「僕の駒に相応しいなりに近付いたじゃないか」
しかし彼の時は動いている。
過去の亡霊ではなく、彼は確かに今を生きている。
彼を先に進めた欲望が、彼が言葉に発し続ける全知存在ではなく、また別の強い欲求で、それが知識に最も近く、知識と反するものだとすれば……
「何それ、褒めてんの?」
「及第点にはまだまだ程遠いがね」
「はぁ?!それくらい知ってるし……」
【敗者】の知的好奇心が駆られ、彼は不意にレヴィの鼻をつんとつつくと、レヴィは目を見開いて驚いた後に首を傾げて、それからぷっくりと頬を膨らませた。
「何してんの」
「……歴史を改竄した後なら言葉の定義を変えるくらい容易いと思わないか?」
「は?」
未知だ。レヴィの中には未知で溢れている。
だから【敗者】は手を伸ばさざるを得ない。
その体ひとつとっても、人間の肉体の構造なんてとうに分かっているはずなのに、触れるだけでその感触が他の全ての存在と違うもので、目に焼き付けるだけで脳を焼き焦がし、嗅いだこともない妖艶な匂いが【敗者】の心を引きずり出す。
触れる度に既知が増えるはずなのに、むしろ未知ばかりが膨らんで、【敗者】は分かりきっていた自分のことですら分からなくなり、再定義し直したり、レヴィの全てを喰らい尽くしてもまだ分からないことがありそうで、【敗者】はギュウと胸が痛くなった。
いま全知になれたら、きっと目の前の女の本名など瞬く間に分かるのだろう。
しかし、もしかしたらこの女だけは分からないかもしれない。理解できないかもしれない。
全知存在ですら、理解出来ない存在として処理するのかもしれない。
それなのに、それは【敗者】にとって最も鬱陶しい概念のはずが、彼の中の一番の期待を引きずり出していた。
未来は分からないからこそ面白いと言ったのは、彼女だったか……
「わたし、牢に居なくていいの?」
「……僕の気が済めば、戻す」
「外、出ちゃうかもしれないよ?それなのに、こんな風にしていいの?」
「貴様は絶対に出られない。貴様にとって理解できないやり方で、僕はそれを阻害することが出来る」
その言葉にレヴィは怪訝な顔で【敗者】を見つめた後、ゆっくりと脱力して体を預ける。
そうしても【敗者】がまだ脳水泳に浸っており、レヴィのことを見ていながらレヴィとコミュニケーションを取りたい様子には見えない所を眺めて、独り言のように呟いた。
「今は、くっついても怒んないんだね」
レヴィは彼の胸板に頭を寄せて、心臓がトクンと跳ねる音を聞いた。
人よりもずっと遅いペースだが、確かにそれは聞こえるものだ。
生きている。
偽りの機械の心臓を持って、コンピュータで動かされているに過ぎない自分と違って、【敗者】は自分の力で生きている……
「貴方がダークファルスでも、……一緒にいたいって思うのは、変、かな」
レヴィの零れた言葉に、【敗者】からの返事は返ってこなかった。
彼の手がポケットに入った何かを掴んでテーブルに置くと、【敗者】は目を閉じて、項垂れた。
「ちゃんと寝てね、【敗者】」
彼は睡眠など必要ないが、レヴィのその言葉だけを耳に入れると肉体の活動を緩やかに抑制していった。
二章で大体どれくらいの話数になるかを計算していた所、それなりに長くなりそうなので三章もしくは四章以降を続編という形で作品を分けるか検討しています。話数が長すぎると管理が少々面倒なのと、読者からしても見にくいのでは?と思ったため。
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続編として作品を分ける
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分けないで一つの作品でまとめる