魔女の絵画
秋も過ぎ去り、肌寒い風の突き抜けていく夜の都を、馬車が走る。蹄鉄で石畳を鳴らしながらも、ソレはそこへとたどり着いた。
都の中心に近い位置にある、一際大きな屋敷だ。嘶きと共に馬車は車輪を止め、中より現れたのは身なりの整った男と、その傍らに小さな少年が一人。
そして、その二人を出迎えるように、屋敷の玄関先から寒さを感じさせないほどに陽気な面持ちの大男が現れた。
「ラースカ卿、遠路遥々よくぞいらした。歓迎しよう。さあ、外は寒かろう」
「なぁに、我が祖国に比べれば暖かいものよ。はっは」
「コリン君も少し見ないうちに随分と大きくなったものだな。ワシを覚えておるかな? 君のおしめを替えてやったこともあるぞ。ふはは」
「お、お久しぶりです、ブラット様」
「うむ、礼儀正しい子だ。流石はラースカ家の跡取り息子よ」
ブラットと呼ばれた大男は、その大きな手でコリンの小さな小さな頭を覆い尽くすように撫で上げる。コリンはくすぐったそうに笑みを浮かべ、ブラットを見上げた。
「さて、積もる話もあるだろう。遠慮することはない、ラースカ卿。一級品の酒も取り寄せてある。長旅の疲れが飛ぶまで存分に飲み明かそう」
「望むところですとも、ブラット卿」
一行は、そこに並ぶ使用人たちの手厚い歓迎と共に、屋敷の玄関をくぐる。外の寒さを一瞬にして忘れ去らせるほどの暖気が主と客人たちを包んだ。
高貴な装飾品をあしらえたエントランスには溜め息が出るほどに圧巻される。
「――ッ」
しかし、その中で一人密やかに息を飲んだ少年が、そこに立ちすくんでいた。
そこにあったもの、それは一枚の大きな絵画だった。
屋敷の中のどれにも目もくれず、玄関の先、その正面にあったソレに、コリンはまさしく目を奪われていた。
「その絵が気に入ったかい、コリン君。それは宝石よりも価値がある」
ブラットは優しく微笑みかけるも、当のコリンは絵画に意識がいってしまっていて言葉の半分もすり抜けていっている様子だった。
「あの方は、一体どなたなんですか?」
絵画を指さし、コリンが訊ねる。
その絵に描かれた人物は、コリンの知る人物のどれにも当てはまらない。おぼろげな月明かりの下、闇と戯れるように踊る、見るも妖しげな女だった。
美しいという言葉だけではとてもではないが言い表せないほどに魅力的で、そして何よりも幻想的だった。
「あれは魔女だよ、コリン」
コリンの父親が答える。
「魔女はもう最近では見かけなくなったが、あのような人知れぬ何処かに隠れ住んでいるのだ」
「父上、どうして魔女は隠れ住むようになったのですか?」
純粋無垢な眼で息子のコリンは父に問う。
「何者にも相容れなかったからさ。人の生き血を啜るものもいれば、骨をも食らう魔女もいる。忌み嫌われた魔女は人里を離れることとなったのだ」
「かつては魔女を追い詰める裁判も何度も行われてきた。中にはワシが指揮を執ったものもある。無論、全ての魔女が悪者だとは言わんがな。見たまえ、コリン君。魔女は恐ろしいものばかりではないだろう?」
そういってブラットは目の前の絵画に目を向ける。
たった今の話を聞いても、その魔女には遜色のない魅力を放つ。一体どのような絵の具を、どのような絵筆を、どのような技術を持ってすれば、ここまで一つの被写体を鮮明に描写にすることができるのだろう。
夜の闇を映し出すその絵は、その魔女を中心に輝いてすら見えた。
「魔女にはもう、会うことはできないのですか?」
絵に心を引かれたコリンは、見とれるがまま、その言葉を自然と口にした。
「さぁてな。世が変われば会えるかもしれないし、それまでに自然と淘汰され消えゆくかもしれない。こればかりは分からぬさ」
「世を変えるのは我々の役目だろう? ラースカ卿よ」
「ああ、違いない」
ふっはっはと大きく笑い、二人の大男と一人の少年はエントランスを後にした。
※ ※ ※
※ ※
※
月の満ち欠けを追って幾日か。
冬にしてはひりつくような熱気、夜にしては眩い明かり。目の前の光景をまさにコリンは目に焼き付けていた。
幼いコリンには何があったかなど理解しようもなかったが、その現実は確かに目と鼻の先、焦げた臭いと共に突きつけられていた。
一部始終を記憶する余裕すらなく、ただコリンの覚えている光景は炎の中に飲まれていく絵は最後まで美しく輝いて見えたということくらいだ。
険しい顔の使用人に抱き抱えられるようにして屋敷の外に飛び出したコリンは、そこで初めて自分が気を失っていたことに気付く。
さっきまで異様に熱い屋敷を走り回っていたはずなのに、いつの間にか使用人に運ばれていたらしい。
頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているようで、何が起きたのかを考えることもままならなかった。
何者かの手によって屋敷に火を放たれたのだ。それをようやくして理解したときには、ほんのつい先程まで眠りこけていた寝室が焼け焦げて崩れ落ちた後だった。
「父上……?」
ごうごうと燃え盛る炎に照らされる辺りを見回して、コリンはそこに自分の父親の姿がないことに気付く。そして次の瞬間には傍らに立っていた使用人に訴えかけるようにすがりついていた。
「父上は、父上は何処ですか? もう逃げられたのですか?」
使用人は答えない。悲痛の顔を見せるばかりで。
何が起きたのか、どうしてこうなったかなど、幼いコリンには分かるはずがない。使用人ですらそのときに起きたことを理解できていなかったのだから。
事の真相が明らかになるのは夜が明けて、もうしばらくしてからだ。
巨万の富を得ていた二人の貴族に逆恨みをした何者かによる犯行だった。
だが、そんなことを今のコリンが知るよしもない。寒空の下を泣き疲れ果てて、コリンは儚くも眠りに落ちた。
朝を迎えてもなお覚めることのない悪夢を見ながら。
コリンは一夜にして、あらゆるものを失ってしまった。尊敬する父も、その父の友人も、はたまた多くの財産も。
不幸中の幸い、コリンはブラットの屋敷に勤めていた使用人に保護される形で引き取られることになった。あの火事場からコリンを連れ出してくれた使用人だ。
一先ず路頭に彷徨う心配はなくなったものの、生活は一変する。
事がそれだけで済めばまだマシだったが、放火を発端にラースカ家の悪評が飛び交うようになっていた。恐らくは裏で放火の実行犯が組織的に根回ししていたのだろう。火のない所に煙は立たぬのだから。
ブラット家はその街でも一目置かれるほど信頼を獲得している名家。それが放火されることの意図を考えれば、嫉妬の前に怨嗟が説得力を持つ。
元より、貴族だったとはいえ、ラースカ家は遠方からやってきた、いわば余所者に過ぎず、名家とされていたブラット家が焼失してしまった今、擁護の声も皆無に等しい。
いわれなき誹謗中傷、身に覚えのない罵詈雑言。それらがコリンの耳に届かないはずもなく、悪徳を積んだ諸悪の根元として囁かれるようにまで至った。
ブラット家の名に泥を塗ったとさえ罵られるほどだ。
無論、コリンにはそれらが真実ではないことも知っているし、そんなことは微塵もないと分かっているが、理解も納得もできるはずがなかった。
使用人の家でこれからの身の振り方、細かな作法を学んでいたコリンだったが、ほどなくしてラースカ家に対する罵声の数々が聞くに耐えられなくなり、家出に至ったのは、至極当然のことだっただろう。
それはブラットの屋敷が燃えてから実に半年ほど経った後のことだった。