家出少年、森へ
春にはまだ遠く、凍てつくような風が肌を刺す。そんな町外れを逃げ惑うように駆け抜けていくのは、少年コリン以外の何者でもなかった。
宛もないといえばその通りで、遥か遠くの故郷すらコリンの居場所はもう存在しない。多額の借金にまみれて没落した貴族の家はとうになくなっていることも既に知らされている。
だからこそ、コリンは何処にも行き場所などあるわけもない。それでも、耳をすませばどうしたって聞こえてきてしまうこびりついた悪意の声から逃れるべく、追い風に流されるまま町を出ていった。
決意を抱いて家から飛び出していったことは、少年ながらにたくましいと思わされるところだが、あいにくとコリンには年齢相応、思慮が足りていなかった。
より明確にするなれば、土地勘もない異国の地で町から出ていくということのリスクをまるで理解できていなかった。
一人旅するにも、準備すら足りていなかったと言わざるを得ない。
なお、コリンがその致命的な事実に気付いたのは人里からやや離れた森の中で道を見失った辺りからになる。
※ ※ ※
「ここ、何処……」
か細いコリンの疑問に対する返事はフクロウの鳴き声だった。
鬱蒼とした森の中は、足場も悪く、何処まで歩いても景色が変わることもない。昼間だと言うのになお暗い。
小さな小さなコリンには、辛い道のりばかりが続く。
この先を進めば道が開けて、そこには町があって、優しい人たちが助けてくれるんだ。そんな現実逃避じみた妄想を何度かするも、既に何度か裏切られている。
森の奥へ奥へと進んでいるだけなのだから、それが町に繋がっている保証はない。仮にあったとしても、コリンの理想や期待に答えてくれるかも分からない。
「あだっ!」
あまりの薄暗さに視界も悪く、整備もされていない道、そこを歩き疲れたコリンが通ろうものなら、転んで仕方ない。
ドテッとものの見事に倒れ、コリンは地べたに這いつくばってしまった。
強烈な痛み、そして足が止まったことで急激な寒さを知覚する。次第に、どうして自分はこんなところを歩き続けていたのかという至極当然の疑問に行き着く。
しかし、戻る道もない。体力も限界。今さら帰ろうにもナイスなアイディアはてんで思い付かない。
あるいは、あえて考えないようにしていたのかもしれない。この絶望的な状況は根拠はなくともいずれどうにかなると楽観的に考えるしかなかったのだと。
何せ、このままでいればどうなるかなんて、考えたくもない。
暗い森の中、出口も分からずさ迷い続け、この後に何が起こるというのか。
とうとう地面にぺたんと座り込んでしまったコリンは膝を降り立たんで、寒さと寂しさに体を震わせていた。
何か面白いことを考えなきゃ。自己防衛的にコリンは記憶の糸を辿る。
そんなとき、ふと過ぎったのはあの日の夜に聞いた話だった。
こんな誰もいない場所には魔女が隠れ住んでいる。何者にも相容れなかった存在。人の生き血を啜り、骨をも食らう、魔女。
コリンは必死に、あの絵画に描かれた麗しい魔女を想像しようとしたが、思い出そうとすると、炎の中に飲まれていくあの日の出来事が痛烈にリフレインする。
コリンは吐き気を催すほどの、頭痛と耳鳴りに襲われた。今の自分の置かれた状況が如何に危険なものであるかをまたしても認識させられる。
とうとうコリンは、指一本動かす余裕すらなくなってしまった。
闇に包まれる森は、あまりにも静寂で、時間の経過を報せるものなどフクロウの声くらい。
いつ、自分が食い殺されるかも分からない、そんな妄想の怪物に怯えていると、コリンは自分の足元に木の実が落ちていることに今さら気付いた。
一粒二粒三粒と、ころころと何処かからか転がってきたらしい。
それは大したものじゃない。丸くて指で摘まめる程度で、口の中にほおるには手頃なもの。嗅いでみればほのかにいい匂いもする。
自然と、コリンは腹をきゅぅ、と鳴らしていた。こんな地べたに落ちていた木の実を食べた記憶などなかったが、空腹の今、妙にそれが美味しそうなものに見えた。
だから、コリンは、その木の実を、そっと、口元に、運ぼうとした――
「ちょっと待ちなさい!」
静寂を突き破る、甲高い声。草っぱの擦れる音でもなければ、小枝のへし折れる音でもない、明確にそれは人の声だった。
刹那、コリンの背筋が直立する。反射的に声の主の方へと視線が向く。暗がりの奥に立つ、その影を確かに見た。
「そいつをあたしによこしなさい!」
ずかずかと歩いて現れたのは、奇妙な汚れにまみれたローブを身にまとう、女らしきシルエットだった。
コリンは状況を把握しきれず、思考を停止する。そうこうしていると、その女らしき影は、コリンの目の前までやってきて、その手から木の実を奪い取り、パクリと食べてしまう。
「はぁー……お腹すいたわぁ」
食べて早々の一言がそれである。よほど飢えている様子。
「あ、あなたは誰ですか?」
「あんたこそ何よ。ランプも持たずに森に入ってきて。もう日が暮れる時間じゃない。それともあんたは暗闇の中でも目が利くの?」
当然のように疑問をつっ返される。言われてみればその通りで、既に薄闇にまみれて見えるものも多くはない。
「み、見えないです。僕、迷子になってしまったみたいで」
「でしょうね」
あっけらかんと言われる。
「今からだと森の外に出る前に完全に真っ暗になっちゃうけど、ランプ無しでも町までの道分かる? この辺りは狼も出るんだけど」
「む、無理です……」
「そういうときはどうする?」
「あの、もしよろしかったら助けていただけませんか?」
しどろもどろな絞り出したコリンの言葉を、鼻で笑いつつ、やれやれといった面持ちで、何やらローブの懐から徐に何かを取り出す。
それは、暗闇の中でよくは見えなかったが、絵描きの使う道具、絵筆のようだった。どうしてこんなところで絵筆を出すのか繋がりが見えず、コリンは違うものを見ているのではと思った。
「あの……?」
コリンの疑問の答えを出すかのように、女の影は不可解な行動を始める。そこいらの木の幹に向かって絵筆と思わしきソレを振るった。
するとどうしたことだろうか。薄暗い森の中に、突如として光が差し込んだ。その明るさに思わずコリンも目が眩んでしまうほどに。
「ひぃっ!?」
ほんの少し置いて、目を馴染ませたコリンがその光景を改めて確認する。
「何よ、そんなに大げさに驚いて。私は、アルテ。ご覧の通り、魔女よ」
目の前に立っていたのは、やはり絵筆を手に構えた女。いや、少女だった。見た目だけであるならコリンと大差ないくらい。
どういうわけか、木の幹には炎のような絵が描かれており、それがあたかも本物の炎のように明かりを灯していたが、それがどうという前に、違うものが真っ先に目に付いた。
少女の着ているローブのあちこちには赤い染みがべっとりとついていて、コリンを戦慄させる。
魔女。確かに少女はそう名乗った。ならば、この赤い染みは何だというのか。
確か、魔女は血を啜る。そう聞いていたコリンは直ぐさまソレが人の血なのだと思い至る。
「ああ、これは絵の具よ」
しかし違ったようだ。よほどコリンのおどおどとした様子が怯え、竦んで見えたようで、誤解を訂正するように先駆けてアルテと名乗った魔女が言う。
「なによ、取って食いはしないわよ」
コリンがどんな呆けた顔をしたのかは定かではないが、アルテはムスっとした表情で返す。
そんな仕草は少女のソレに見えた。