光喰らいの魔女レティシア~未亡人クーデレ敬語デカ尻エルフ退魔師が淫魔美少年に完堕ちするまで~ 作:灰鉄蝸@機甲猟兵エルフリーデ発売中
――果てなき夜闇の中を一人歩くことが、この命に残された唯一の道だった。
失った。
奪われた。
取り戻さねばならない――そんな思いが胸をよぎったものの、おのれが何を失ったのか、女は言葉にできないことに気付いた。
鉄錆のにおい。
目も覚めるような鮮血の赤。
肉が切り裂かれ、骨が砕ける音。
奇妙にねじれた死骸の山を、愛する人々の骸を忘れられるはずもないというのに。
わからない。
――わたしは、何を、失ってしまったのだろう。
◆
護衛の姿が見えなくなって十分経ったとき、少年はどうやら自分が絶体絶命の窮地にあるのだと悟った。
父母が亡くなって以来、自分の立場が以前にも増して危ういことは承知していたが、よもやここまで状況が悪化するとは想定していなかった。
どこか甘えがあったのかもしれない。
まさか実の兄の忘れ形見までは殺すまい、と。
シグは歯噛みして自らの甘さを呪う。叔父の凶行を安く見積もった代償は、まず護衛につけられた従者の死であった。
口数が少なくろくに話したこともない相手だったが、護衛のレイルは父の代から家に仕えており信用に値する忠義ものだった。
その彼が自分に断りもなく十分間、姿を見せないのは異常だ。
すっと深呼吸。
周囲をそれとなく見回す。
のどかな昼下がりの街並み。
人族と魔族が入り乱れて、人の流れが途絶えることない港町。
鮮魚を運ぶ荷車の軋む音、客を呼び込む商店の従業員、聞き慣れぬ異国の言語での罵り合い――この共和国を象徴するような光景。
街を行くのは大人であり、子供である少年――まだ第二次性徴を迎えていない体は華奢で、少女と見間違えるほどだ――は如何にも浮いていた。
不味いことになった、と思う。
どうやって安全な場所――屋敷まで戻れば、流石に叔父も手を出してこないはずだ――に戻るか思案していると。
「おう、いたいた。待たせたな」
知らない男の声。
いつの間にか背後に立っていた誰かは、こちらが反応するより早く、シグの肩を後ろから強引に抱き寄せた。
「そこの店で飯を食おう。俺ぁ腹ペコでね」
ぎゅっと肩を掴む指は痛いほど力が込められており、親しげな猫撫で声はその実、背筋がざわつくような悪意を孕んでいた。
顔が強ばる。
シグの護衛がどうなったかを物語る鉄錆の香り。
自分の頭より上から響く声は、そいつがシグよりはるかに屈強な大人の男であることを示していた。
下手に抵抗すればどうなるかわからない。
ささやくような声で問うた。
「おれをどうするつもりだ」
「飯を食ったら叔父さんのところに連れて行く」
まるで親戚の大人が、聞き分けのない子供をあやすような声音だった。きっと周囲の目にもそう映っているに違いない。
されるがままに手近なレストランに連れ込まれる――ちらりと横目に見た男は、如何にも紳士然としたスーツ姿だったが、ゴツゴツした指は暴力に手慣れた人間の厳めしさが馴染みきっている。
内装は小洒落てはいるが、少し奮発すれば労働者でも十分に手が届く価格帯――総じて中流階級向けとわかる店だった。給仕に案内されるがまま席に着いたところで、初めて男と向き合った。
大きい。
身長は一九〇センチを超えているだろう。
人懐っこい笑みを顔に浮かべているが、どこか野卑な色をにじませる髭面。
軽く冗談を言うように、名も知らぬ殺人者はシグを見下ろしてこう言った。
「関係ない人たちをぶっ殺されたくはねえよな?」
「やめろ。おれ以外の人を巻き込むな。お前の目的は、おれだけだろ」
「調子に乗るんじゃねえぞクソガキが。テメエのオカマ掘ってケツ穴開きっぱなしにしてもいいんだぜ?」
その言葉が自分の容姿――少女めいた華奢な体つきに女のような美貌――を揶揄するものだと気づき、シグはかっと頬を紅潮させた。
母親譲りの少し褐色のかかった肌が赤らみ、怒りで瞳がうるむ。
その様をニヤニヤと薄ら笑いで眺めると、男は再び親しげな猫撫で声に戻った。
「冗談さ、シグルゥスの坊ちゃん。魔族の名家の御曹司に、俺みたいな善良な庶民が手を出す分けないだろぉ?」
「レイル……おれの護衛は」
「勝手に口を開くんじゃねえクソガキ」
男の威圧的な言葉には、可能なら今すぐシグの顔面を殴って屈服させたいという嗜虐性がにじんでいた。表面上の愛想がよくとも、すぐに地金がさらけ出されるから何の意味もない。
不味いな、とシグは思う。
暴力の気配に怯えて、さっきから心臓の鼓動が早くなっているのもそうだが―残虐性が理性を凌駕しているような手合いと二人きりなどぞっとしない。
異様な雰囲気に気圧されてか、店内にいた客も足早に食事を済ませて席を立っていくのがわかった。
助けは望めない。
店員も厨房の奥からそっとこちらを覗き込むばかりで、一刻も早く料理を出して距離を取りたいと思っているのが丸わかりだ。
がたん、と席を立つ音。
音のした方に視線を移してすぐ、どうして今まで気付かなかったのだろう、と思った。
ちょうどシグと男の隣のテーブルで、その女性は食事を取っていた。今までその存在に気付かなかったのが不自然なほど近すぎる距離――そして一度目にすれば目を奪われずにはいられない美貌。
そう、一目で恋に落ちるほどに。
喪服のような黒いスーツに身を包んだ若い女――青く艶やかなショートカットの頭髪が映える、切れ長の目を持つ美女だった。
女性にしてはなかなかの長身で、一八〇センチ近くもある背丈に加えて、引き締まった肢体が厚手の布地の上からでもわかる。
尖った長い耳を見れば、それが
淡雪のように白い肌とすらりと伸びた手足、腰は高く細く、骨盤がよく発達し成熟した
浮世離れした、まさに妖精と呼ぶほかない美女は――
「見てください……このお店の白身魚のムニエルは鮮度のよい食材を使い、腕利きの料理人が調理した一皿です……この価格帯のお店としては破格の美味と評していいでしょう。だというのに、あなたが聞くに堪えない恫喝を繰り返すせいでこれしか美味しく食べることができなかった。どうしてくれるのですか?」
――口を開くとがっかりするぐらい俗人だった。
「はっ?」とか「えっ」とか、そういう疑問符に満たされた一呼吸のあと。
髭面の男は猛然と怒り狂い、勢いよく立ち上がって唾を飛ばして喚いた。
「なんだこの女ァ――」
そう口にするが早いか、もう拳はうなりを上げて女の顔に向かっている。
綺麗なものをグチャグチャに壊すことで支配のよろこびを覚える生粋の残虐性――おそらくはその気性ゆえに血なまぐさい仕事を任された手合い。
その場に居合わせた誰もが、美女の顔の骨が砕け、肉がぱんぱんに腫れ上がる惨状を予期して目をつぶった。
だが。
不可解なことが起きた。
ぴたり、と男の動きが止まったかと思うと、だらんと口を開けてよだれを垂らしながら虚空を見つめること数秒。
完全に正気を失ったかのような表情のあと、いきなり髭面の口から絶叫がほとばしった。
怪鳥のような奇声を上げて、椅子を跳ね飛ばしながら店外へ走り去る男。ほとんど体当たりせんばかりの勢いでドアを開ける姿は、この世のものとも思えぬ何かを見たような恐慌状態を示している。
ぽかんとあっけにとられる店の給仕と、しげしげと興味深そうに店内を覗き込む外の野次馬――ざわざわと周囲が騒ぐ中、女はすまし顔でムニエルの残りを平らげていた。
これしか食べられなかった、とは何だったのか。
「わたしの食事を邪魔するのは、決して許されないのです」
明らかにやり過ぎだったが、かといってそれを非難するのははばかられた。というか状況的には、チンピラから助けてもらった側なのだから礼を言うのが筋であろう。
そう思い直して、自身の灰色の髪を指で撫でる。本当に綺麗な人だったから、緊張してしまう。
大人びた振る舞いを自身に課している少年は、しかしながら、その身長と同じく所作に幼さが残っている。
「あ……ありがとう、ございます……助けてくれたんですよね」
「ええ、そうです。あ、さっきの男が頼んでいた料理……豚肉のトマト煮、いいですね……これは私が頂きます。代金は危機を救った対価ということでいかがでしょう?」
「別に構わない、けど……」
あっけにとられる少年を横目に、妙齢の美女――おそらくシグの倍ぐらいの年齢――は幸せそうに微笑んだ。
とても、とても機嫌が良さそうに微笑む女に見とれて、シグは一瞬、ついさっき自分の護衛が殺されたことを忘れそうになる。
その微笑みが美しいと思ったから――
「わたしはレティシア――はじめまして、幸薄い少年」
――恋に落ちた。
◆
かくしてシグは今、美味しそうに料理を頬張る女性の姿を目に焼き付けている。どういう状況だこれ、と思う。
おそらく見知った人間が殺されているというのに、その事実と目の前で美味しそうに食事する女性の姿が結びつかず現実感を失ってしまう。
だからそのわかりきった問いかけをしたのは、多分に気を取り直すためだった。
「さっきの……古い、退魔の技ですね? 幻覚を見せるような……」
「昔、少々。今では使い道のない芸ですよ」
ついさっき、その使い道を披露して見せた口でそれを言うか。
こともなげに言ってのけた女が、実は自分を狙う刺客であるという可能性は最初に除外した。
仮にそうだったならあっという間に殺されているだろうし、もし幻術の類の術中にはまっているのなら、なおさらどうしようもないではないか。
そんなことを考えていると、女性――レティシアはふと思い出したように尋ねてきた。
「そういえば、あなたはお金を持っているのでしょうか。率直に申し上げて、子供一人でこういったお店で食事するのは珍しいことです」
「何かあったときのために持ち歩いてますよ。さっきみたいなとき、逃げるために」
ぴたり、とナイフとフォークを動かす手を止めて。
もぐもぐと咀嚼したあと、レティシアは無表情にシグの顔を見た。
「…………ちょっと待ってください。今、わたしはあなたが命懸けで逃げるためのお金で食事を……?」
「まぁ……そういうことになりますね」
「……美味しく頂きます」
でも食べるんだ、と思うシグだった。
もぐもぐと上品に、それでいてハイスピードで豚肉のトマト煮込みを食べていくレティシア――その姿からは「怪しげな魔術の類で暴漢から自分を救ってくれた謎の美女」という客観的事実が一切感じ取れなかった。
なんだろう、この人すごく変だ。
そんな彼女の姿に呆れないのは、たぶん、その姿が美しいと思ってしまっているからだ。
「ところで先ほどの悪漢の話ですが、護衛の方というのは……」
「おれの護衛で……ほとんど話したこともなかったけれど、父の代から仕えてくれていました」
「……なるほど、お悔やみ申し上げます」
それ以上、レティシアは護衛の件を追求してこなかった。身なりのいい富裕層の子弟が、付き人の一人も連れずに街を歩いている異常さに心当たりがないわけではないのだろう。
自分を取り巻く状況の異常さに、思わず愚痴のように言葉がこぼれた。
「……さっきのやつはバスカーズ探偵社……脅迫、誘拐、拷問、殺人、およそ考え得る暴力すべてを金で請け負う……最低の連中ですよ」
それを聞いて何を思ったか、レティシアは困惑したように眉をひそめた。青い髪の女は、尖った耳をへにゃりとうなだれさせて困惑を表現。
「申し訳ありませんが、探偵というより傭兵の類では? 近頃の共和国の世情には疎いのですが、何故そのような輩が暗躍しているのでしょう」
「探偵の看板を掲げたならず者です。依頼人は金と権力で警察を黙らせられる金持ちばかり、レイルの件も強盗に遭ったとでも処理されて終わりですよ」
古くからの因習と報復の歴史で彩られた旧大陸から逃れ、多用な種族が集って作られた島国がこの共和国だが――逃げ込んできたのは無辜の民だけでなく、本国にいられなくなった権力者や資産家も大勢いるのだ。
そして人が移動すれば、それだけ多くの文化や習慣も輸出される。
汚職も腐敗も立派な文化なのだ。
「……この国には貴族がいないと聞きましたが、存外、そういう存在はなくならないのですね」
「失礼ですが、この国に来てどれくらいに?」
あまりにも浮世離れした物言いを訝しみ、シグはレティシアに問いかけた。
青髪の美女は肩をすくめた。
「ええ、ついこの前まで大陸の山奥に隠居していた身ですから。何分、世情に疎いのです、御曹司」
「御曹司って……」
「少なくとも一般庶民に護衛が付くなど聞いたことがありません」
それはそうだが、ずいぶんとはっきり言ってくれるものだった。
存外、レティシア女史はいい性格をしているらしい。
そして頭が冷えてくると、今も自分の状況が危険なことに変わりないと気づけた。
もう十分だった。
テーブルの上に料理の代金を置いて、すっと立ち上がる。レティシアは一瞬驚いたような顔をして、すぐに彼を引き留めた。
「待ちなさい。護衛を殺された子供が、一人でどこへ行くのです?」
「どうか早くこの街から離れて。向こうはまだ、あなたの顔まで把握していないはずだ」
それが馬鹿げた感傷なのだとわかっていても、見ず知らずの女性を自分の問題に巻き込みたくなかった。
たとえ相手が善意からシグを助けてくれたのだとしても、頼りたくない理由だけはたくさん見つかった。
「これは、おれの問題です」
「あなた一人では殺されますよ、御曹司。何故、意地を張っているのです――少なくとも、わたしは殺されそうになっている子供を見捨てる気はありません」
仕方がないだろう、と思う。
つくづく自分は運の巡りが悪いらしい。
よりにもよって、こんな窮地で助けてくれた相手が退魔師だなんて。
「おれがシグルゥス・スワルヒガ――魔族の血を引く一族の末裔だからですよ、元・退魔師殿」
シグの顔に浮かぶのは、年端も行かぬ少年に似合わぬ自嘲の笑み。
押し黙ったレティシアに背を向け、少年は席を立った。
◆
手短に、結論から述べよう。
案の条と言うべきか、一時の感情任せの行動が招いた結果はろくでもないもので――シグルゥス・スワルヒガは街を出る前に悪漢どもに捕まり、郊外の倉庫に連れ込まれてしまった。
悪漢どもの数は五人。
逃げ出すには分が悪すぎた。
そして今、六人目の足音。
椅子に縛り付けられたシグは、その聞き慣れた足音で顔を上げた。
予想通り過ぎて何の驚きもなかった。
「……叔父上、あなたの仕業か」
「つくづく出来の悪い甥だよ、お前は」
茶色の髪に鳶色の瞳、立派な口ひげを蓄えた厳つい面相の紳士。それがシグルゥスの叔父であり、見事に甥と似ても似つかぬ容姿であった。
灰色の髪、緑色に輝く鬼火の瞳――シグルゥス・スワルヒガが誰より色濃く淫魔の血を引き、先祖返りを果たした個であることを証明する色。
そのある種の美貌が、ことさら叔父の劣等感を刺激しているのもわかっていた。
シグの叔父は権力と財力を求める俗物でありながら魔族至上主義の思想にもかぶれているという、どうしようもない人間だった。
そしてシグルゥス・スワルヒガは聡い子供だったが、叔父への侮蔑を隠しきれるほど演技が達者でもない。
二人の関係の悪化は必然であり、トドメになったのはつい最近起きた事件――シグの父母の事故死だ。その死そのものに事件性はなかったが、そのような絶好の機会に叔父に魔が差すのは必然であった。
後見人という立場でシグの財産を好き勝手にすればいいものを、叔父がそうしなかったのは、やはり憎まれていたからだろう。
――魔族らしい魔族に憧れる叔父と、古き魔族を嫌悪する甥。
それが淫魔の先祖返り、シグルゥス・スワルヒガの人格である。
シグは生粋の魔族として振る舞うには繊細すぎたし、現代人でありすぎた。祖先の行ってきた数多くの殺戮と陵辱と支配の記憶は、おぞましい種族記憶として意識に焼き付けられていたが、それは彼を苛みこそすれ啓蒙するなどありえない負の遺産である。
こんな記憶、持っているだけでつらい。だというのに魔族至上主義を掲げる叔父はそうではないらしい。
自らの魔族の理想像を甥っ子に投影する男は、現実の甥がそうではないことに腹を立て、とうとう当主の座の乗っ取りを画策し始めたのである。
「シグルゥスよ。お前にスワルヒガの家を任せることはできない」
「これは……叔父上。とうとう簒奪者になる覚悟が決まりましたか」
「抜かせ。魔族の誇りもわからぬ愚かな甥よ――老若男女を支配した始祖スワルヒガを、何故蔑む!」
「鬼畜に先祖返りして何になるッ! おれはあなたとは違ッ」
呼吸が止まる。衝撃が体を突き抜けていった。
腹に叩き込まれたつま先が、鋭く皮膚越しに臓器に突き刺さったのだと気付いたときには嘔吐していた。
痛みと苦しみが美少年の脳を支配し、胃液と一緒に今朝食べた朝食の成れの果てが、倉庫の床にぶちまけられる。その頬が苦痛に染まるのを、叔父の付き人たち――金で雇われた探偵社の悪漢どもは冷酷に見下ろしていた。
「黙れ愚か者がっ!! 私がスワルヒガを継ぐのだ! 魔族の栄光を取り戻すのはこの私だ!!」
シグの細い首に、ぎゅっと叔父の太い指が食い込む。
息もできない苦痛の中、よだれと涙が冗談みたいにあふれてきて――ああ、この人ではスワルヒガの家は無理だなと悟る。
精々、虚栄心を周囲に利用されて財産を食い潰されるのがオチだろう。
そんなありきたりの愚かな叔父の姿を、殺されようとしているシグはどこか他人のように見つめていた。
刹那。
赤。
朱色。
鮮血が吹き出して。
頭を失った叔父の体が、ごろりと床に倒れ込む。
「げほっ、ごほっ!!」
急に力が抜けた指から、喉を解放されて咳き込みながら新鮮な空気を吸い込む。吐瀉物の酸っぱいにおいが混じっていてなお、呼吸できるよろこびは格別だった。
死んだのか、と首なし死体を見て思う。少なくとも叔父は不死の魔族などではなかったし、頭を失えば即死する程度に血の薄い魔族だ。
雇い主が殺されたのに静かだな、と思って周囲を見回す。
わかったことは一つ。
悪漢どもはそれどころではないほど、突如、現れた外敵に怯えていたということ。
倉庫の出入り口。
西日が差し込むその場所に青い髪のエルフが一人、たたずんでいる。
思わず、シグルゥス・スワルヒガは年相応の幼い声音で問うていた。
「どうして……」
「よってたかって悪漢になぶり殺しにされようとしている子供が一人……助けるのに理由が必要でしょうか?」
レティシアはそう言うと、一歩、前に踏み出した。
たった今、魔族を一人殺したとは思えぬ平然とした様子――凍り付いたように動かなかった探偵社の悪漢どもは、そのときになってようやく自分たちの立っている状況のまずさに気付いたらしい。
「な、何だお前は!」
誰何に答えて、レティシアは軽く一礼。
男装の麗人は優雅な仕草とともに名乗りを上げた。
「こんばんは、魔族の皆様方。わたしは、そうですね――昔の通り名は〈光喰らいの魔女〉と申します」
奇妙な沈黙が下りた。
男達は互いに顔を見合わせ、なんとも言えない表情になっている。
「……誰だ?」
「お前、知ってるか?」
「いや……」
どうやら誰も知らないらしい。
シグルゥスだけが、記憶の片隅に引っかかるものを覚えたが――すぐにそれどころではなくなった。
悪漢たちの一人が、彼の体を持ち上げて拘束する。
線の細い美少年の胸郭が、みしりと音を立てて悲鳴を上げた。
「ぐ、あ……」
「動くな、このガキが死ぬぞ!」
しかし人質を取った恫喝にもレティシアは一切動じず、淡々と彼らの無知を責めるだけだった。
すべてが無意味なのだと嘆息するように。
「無知とは悲しいものですね、魔族。我が一族、我が夫を
嘆息した男装のエルフが、指を動かした瞬間。
夕刻の燃えるようなオレンジ色の光がかき消えて。
ただ、漆黒の闇が視界を飲み込んだ。
「しかし、とても残念です。実感のない理由で殺される苦しみは、私もよく知っています。せめて、そうですね――」
めきめき、ぐちゃりと何かが軋み潰れる音。
男たちの悲鳴が聞こえる。
「――その魂の一欠片も残さず、平らげてあげましょう」
憤怒も憎悪も軽蔑も憐憫もなく――ただ、愛おしむような声音とともに。
ぷつり、と一切の音がしなくなったのを、遠のく意識の中でシグルゥス・スワルヒガは聞いていた。
◆
目を覚ますと、そこは見慣れたベッドの上だった。天井は自室のそれであり、部屋の内装もこれまた見慣れたものだ。つまりは古めかしいスワルヒガの家のそれ。
今はもう、ほとんど使用人も残っていない空虚な屋敷だ。
すべて悪い夢だったのかと思ったが――
「おや、気がつきましたか?」
――聞こえた声に現実だったと思い知らされた。
ベッドの横の椅子に腰掛け本を読んでいたらしい青髪の美女は、さも当然という顔でそこにいた。
「……なんで、あなたがここに?」
問いかけに対して、レティシアがしれっと取り出したのは一通の手紙。
「これを」
その手紙の差出人は故人だった。
ナタリア・スワルヒガ――シグの母の名である。
筆跡に覚えがあった。
「母さんの、手紙?」
信じられないもいのを見たように、手紙とレティシアの顔を交互に見やる。
それにしても美人だ。切れ長の目も、涼やかなも鼻梁も、桜色のつやつやした唇も、何もかも魅力的だとシグには思えた。
さりげなくレティシアに見惚れているのをどう受け取ったのか、青髪のエルフはなんとも言えない表情でため息をつく。
「ありきたりの言い方をするなら、友人の忘れ形見を守りに来た、ということになります」
「……どうして、最初にそう言わなかったんです?」
「わたしも都会に困惑していたので……田舎暮らしが長いといけませんね」
無表情でうなずくレティシアの顔には、嘘は書いていなかった。代わりにシグは深い困惑に包まれた。
どうしよう、この人すごい変人かもしれない。
「ああ、もちろん、あなたとは初対面でしたよ。ナタリアと交友があったのは、彼女がスワルヒガに嫁ぐ前の話ですから」
「あの、じゃあもしかして……この街に来るのも」
「この国に来るのも初めてです、ナタリアの子シグルゥスよ。ええ、はい、わたしは道に迷っていたのです」
そこまで聞いていないのに自爆された。
どうしよう、なんて言ってあげればいいんだこれ。
シグは困惑と焦燥で顔を引きつらせた。歳幼い少年には荷が重い会話である。
そこで余計な考えを巡らせたのがよくなかった。
ふと、思い出してしまう。
――首から上がなくなった叔父の体。
――暗闇の中に響き渡る男たちの悲鳴。
それを為したのが誰であったかを意識すると、自然と手が震えた。
そんな少年の様子を見ても、レティシアはまったく動じなかった。
自身の行為の正当性を微塵も疑っていない人物特有の所作で、彼女はその話題を淡々と切り出す。
「今後、彼らがあなたの人生に関わることもなければ、その消息を知る必要もないでしょう」
「……死んだ、んですか」
「ええ、わたしが殺しました。あなたはすべてを忘れなさい」
有無を言わさぬ口調だった。
眼前で叔父の頭が消えて亡くなった子供に対しては、いささか、否、かなり配慮に欠ける物言いと言っていい。
だが、それがどうにも、彼女なりに憎まれ役を買って出ているのだとうっすら察せられた。
「しばらくはこの街に逗留しますが、あなたに顔はもう見せません。安心して――」
「ッ! 待ってくださいっ!」
思わず声を張り上げていた。
どうかしている。
相手は自分の叔父を含めた六人もの命を奪っている退魔師――魔族殺しを生業とする怪物たちの一人だというのに。
父母に護衛のレイル、そして叔父にゴロツキども。九人が立て続けにシグの周囲で亡くなった。まったくどうかしている現実である。
それを思えば、本当に自分はおかしいのだと思う。
だってこんなにも――
「いなく、ならないでください」
――得体のしれない女に、胸が高鳴っている。
「……あなたの身の安全は保障します。完全に安全が確認できるまでは守りますよ」
「えっと、そうじゃなくって……おれの前から姿を消して、影から守る、みたいな真似はやめてください」
「何故です?」
心底、不思議そうにレティシアは問うてきた。
言われてみると、何故なのかシグ自身にも答えることができない。
わからない。
わからないのに、これだけは断言できた。
「自分でもわかりません……でも、きっと、あなたが傍にいた方が安心すると思います」
「わたしはあなたの叔父を――」
「知ってます。ああなって当然の生き方でした、レティシアさんを責める気はないです」
もう少しで殺されるところだったのは明白で、それを責める気など微塵もなかった。
たぶん自分は、どこかおかしいのだと思う。
それが魔族としての先祖返りゆえの感性なのか、スワルヒガの家がそうさせているのか、シグルゥス・スワルヒガ自身にも区別できないけれど。
「……わたしが長命種の退魔師だともう知っているでしょう? あなた方の先祖と敵対してきた当事者ですよ?」
「…………でも、おれの命の恩人です」
むう、とため息。
たぶんレティシアは今、心から困惑している。
だから上手いこと切り抜けられる前に、畳みかけてしまえと心のどこかがささやいた。
人の生き死にさえも割り切ってしまう冷酷さと、それと相反する燃えるような情熱がシグルゥス・スワルヒガを突き動かしていた。
「あの……! おれの魔術の先生になって欲しいです。もう、守られてばかりは嫌ですから」
おそらく上目遣いの哀願になっていたと思う。
自分の顔の良さも加味して、きっと効果は抜群だというこの上なく嫌な打算もあったが――結果は彼の望み通りになった。
レティシアは怖いぐらいに青い瞳でじっとシグを見つめると、観念したように目を閉じて。
右手を差し出した。
「仕方ありませんね。ええ、では――よろしくお願いします、若様」
それが、シグルゥス・スワルヒガの