傷だらけにされた舞子と沙弥が、
その友情を取り戻した日から二日が経った。
「ねぇ、裕美子~。
帰り、ちょっと本屋寄ってこ~?」
「おっけ~。
今日、ちょうど欲しかったマンガでてるはずだし~。」
「あれぇ?
何か集めてたっけ?」
「ほら、『ラヴデビ』描いてた人の短編集が確か昨日発売日だったはずなのよ。」
「私、あっち系は読まないなぁ~。」
学校の一日の行程の最後たる掃除を終え、
クラスメートたちが慌しく帰り支度を始める中に舞子の姿があった。
「本屋、舞子もくる~?」
「え?
あ、私は今日はいいや……」
「そう?
じゃ、また明日ね~」
蜘蛛の子を散らすというべきか、
学業の呪縛から解き放たれた生徒たちの引き際は素晴らしい。
すぐに教室は舞子だけとなった。
「……ふぅ。」
そのため息は自己嫌悪。
『なんで、私が今ここにいるんだろう?』
それが、その内容だった。
舞子と沙弥は昨日、学校を休んだ。
沙弥は今日も休んでいる。
これは当然といえば当然だ。
あれだけの事件の直後だから、
笑顔で学校に出て来いという方が無理というものだろう。
しかし。
舞子は今、学校にいる。
(……まじですか、私……?)
たったの一日だ。
あんな暗い森の中で泥にまみれながら、
凶暴な男たちに押さえつけられ、レイプされ……
で、二日で復活。
常識的にありえない速度で舞子は一応最低限、
表向きだけは立ち直りを見せていた。
昔からそうなのだ。
棗に腕を焼かれた時も然り。
昔、知り合いの家のブルドッグに足を噛まれて病院に担ぎ込まれた時も、
次の日にはもう普通に遊んでいた。
とはいえ。
さすがに今回の立ち直りの早さには舞子も笑うしかなかった。
(沙弥は、きっと今も泣いているのに。
私、だめじゃん。)
舞子は窓から外を眺める。
青空は、これ以上ないくらい青い。
「……」
あのあと、一連の事件に関しては、
沙弥の強い要望により口外しないことに決めた。
沙弥は騒がれるのを覚悟で男たちに復讐するより、
耐えて忘れる道を選んだのだ。
それに男たちも『狩人』の手により、最低限の報復は受けている。
「……あ。」
ぼーっと眺めていた青空の下、
舞子は校庭の隅に『それ』を見出していた。
視線を手元に戻すと、
少しだけ巻き込んでいる上履きのかかとを直す。
――ガラガラガラ……
そして、教室は完全に空になった。
◆
校庭の隅、水道の横に立つ一本の大木。
それは別になにか特別なものでもなければ、
学校に代々伝わる逸話があったりもしない。
だが、舞子はなんとなくこの木が好きだった。
大木な割に迫力もなく、目立たず、そこにあり続ける。
それはまるで『私は人畜無害です』といっているようで、
舞子も似た者意識を覚えているのかもしれない。
舞子はそんな木の下に腰を下ろす『彼』――いや、『狩人』の姿を見つけた。
舞子が近づくや、すぐに『狩人』の目も舞子を捕捉する。
その顔は相変わらず不気味にニタついているが、
今日は頬に貼られた大きな絆創膏が、
彼の『近づきがたいオーラ』を払い去っていた。
「こんにちは。」
「いよう。」
まず、それだけ交わすと、舞子も敦の横に腰を下ろす。
「あの……有難うね、助けてくれて。」
「いや、一匹逃がした。
ま、そのうち見つけ出して殺すけどな。」
「あははははは……」
「くっくっくっ……」
片や人畜無害な草食獣、片や凶暴極まりない肉食獣。
だが、その両者のやりとりは微笑ましいくらい自然であっけない。
それはどこかクレヨンで描いたまんまる太陽が似合う光景だ。
「あの時、ちょうどあの辺りにいたの?」
「ああ、親父に買い物頼まれた帰り。
お前の声が聞こえたからさ」
「ふ~ん。」
それは何故か、妙に嬉しい言葉だった。
舞子は少しだけ頬を染めて視線を空に泳がせる。
すると、敦に関するある記憶が思い浮かぶ。
それは『あの日』の前日に見た夢だ。
どんな内容だったか、はっきりとは覚えてはいない。
だが、そこに自分と敦が登場していたことと、
酷く卑猥な内容だったことだけを思い出せる。
(……!)
その瞬間、心臓がどす黒い手に握り潰されたような感覚。
舞子は危うく禁忌の記憶を呼び起こしそうになってしまい、
慌てて正気を取り戻す。
「そ……それにしても高田って、呆れるくらい強いよね……」
「バッカ。
キャリアだよ、キャリア。」
舞子がそういうと、敦は意地悪な猫みたいな笑みを見せる。
『ニシシ』というやつだ。
だが、その顔には何か決定的な違和感があった。
「……あっ!?」
そして、舞子はそれに気づいた。
つい数日前に見た時にはあったものが、なくなっているのだ。
「高田、その歯……」
前歯が二本ほど欠けている。
その原因が、あの夜の稲垣の一撃によるものであることは明白だった。
舞子の顔から、柔らかさが失せてゆく。
「ああ、べっつにィ?
俺らの世界じゃよくあることだし。」
「よ、よくないよ……ッ!」
敦の歯を、舞子は歯医者よろしく覗きこむ。
よく見れば被害は二本だけでなく、他の歯も少し欠けている部分があった。
さすがに触るわけには行かないのでわからないが、
もしかしたら他の歯もぐらついているかもしれない。
『これは全部永久歯だ』とか『たしか、前歯には保険がきかない』とか、
そんな言葉が頭の中をぐるぐると回る。
「ご……ごめんなさい……」
「いや、だから別にいいってよ。」
「ごめんなさい、私のせいで……」
舞子は、少し前にも誰かから言われたような台詞を漏らす。
立ち直ったばかりの舞子は、再び足を溝に取られていた。
しかも、これは非常に厄介な溝だ。
他人のせい、もしくは自業自得で自分が傷つくのはいいが、
自分のせいで他人が傷ついた場合は別だ。
例の驚異的な精神的回復力すら役には立たない。
「どうしよう……どうしよう……」
「おっまえさァ、人の話聞いてるのか?
だからいいっつーに……」
「どうしよう……
私、どうしよう……うぅぅ……」
「……って泣くなよ!
俺が悪いみてぇじゃねーか!」
「ごめんなさい、悪いのは私です……」
「……ハァ……」
こんな舞子には、さすがの敦もため息を漏らす。
血で血を洗う世界を歩いてきた敦に、
女子のこういう部分は理解できないのだ。
だが、好きな女の子が目の前で泣いていようと、
決して守勢に徹したりしないのが敦だった。
「私どうすれば……どうすれば……」
「……じゃあ、そんなにいうならさ、岡本?」
「……?」
舞子は敦が見つからない答えを提示しようとしているのだと気づき、
泣き顔で彼を見上げる。
「俺に一発犯らせろよ。」
勢い任せに言った直後、特大の後悔が敦を襲う。
今の舞子の乙女心に対して、その言葉がどれだけ鋭利な刃物になるか、
敦も気づいていたはずだった。
だが、つまらないプライドを張るために強気に出すぎたのだ。
「……!」
一瞬、瞳孔が開いたかのようにも見えた舞子の瞳。
恐ろしい魔法にかかったかのごとく、彼女の中に恐怖の記憶が蘇ったのだ。
「わ……わりぃっ!
今のなし!……なしでッ!!」
らしくない、オーバーアクションでの否定の素振り。
さすがの敦も、今ばかりはプライドは二の次だ。
かっこわるい部分を曝け出してでも、なんとか舞子をなだめようとする。
だが、もう遅かった。
「ううん……『いいよ』。」
それは敦が常日頃から鼻血を噴かんばかりに望んでいた言葉だったが、
貰うタイミングが最悪だ。
嬉しさよりも後悔が先に立つ。
だが、舞子の言葉にはその先があった。
「でも。
その前に一つ聞かせて欲しいの……」
「な……な、なんだよ?」
「あの……さ。
すごい変なこと聞くんだけど……」
舞子は一度視線を逃がし、また戻す。
「高田ってさ。
その……もしかして。
私のこと、好きだったり……する?」
「エッ。」
「なんか、いつも気がつくとこっち見てる気がするし。
あと、一昨日の時とかも……」
「あ、いや……」
「あっ……ううん、いいのっ。
違ったら気にしないで!
単なる自意識過剰……あはは……」
引きつってはいるが、舞子はあの独特の憎めない困り笑いで咄嗟にお茶を濁す。
『私は人畜無害です』
校庭の片隅に立つこの木より、数段上の笑顔。
だが、まさにこれだった。
敦はすぐ目の前にあるこの笑顔を見て、自分の気持ちを再確認していた。
敦が惚れたのは、まさにこの舞子のこの笑顔だったのだ。
『岡本のこの笑顔を守りたい。自分だけのものにしたい。』
それが敦の最も純粋な想いの形だった。
「あのさ……岡本。
頼むから、怖がらずに聞けよな。」
「……え?」
「悪いけど俺、ずっと前から岡本のこと好きだぜ?
ヌく時だって、お前以外オカズにしたことねぇしさ……」
「う……うん……」
「今のお前にいうのもなんなんだけど……俺は正直、お前とヤリたい。
他の女なんかどうでもいいんだ。
俺には岡本だけなんだ……」
酷く不器用な愛の告白。
それは本当にどうしようもないくらい下品で不器用だ。
だが舞子に対してなら、それでも十分だった。
「うん……有難う。」
「で……でもな、それとこれとは別。
ともかくさっきのはなしだから!」
「ううん……いいの。」
そういって彼女が見せた笑顔は、少しだけ安らかなものになっていた。
「高田、私とエッチしよ?」
その瞳には優しさの裏に秘めた強さ。
か弱くも鋭い輝き。
それは何かの決意の輝きだ。
「……む、無理すんじゃねーよ!
お前、あんなことのあとで怖くねぇのかよ!」
「――怖いよ。
でも、今逃げると……もう勝てなくなる気がするの。」
「……」
「もうエッチな本を見てにやけることも。
エッチな想像をしながら……その、オナニーとか……することも。
できなくなっちゃう。」
「お……岡本……」
「私ね、本当はすっごいすっごいエッチなんだよ?
もうね、なんというか、救いようがないくらい、
いっつもエッチなことばっか考えてる。」
「はは、なんだよ……
岡本も俺と同類だったんだな。」
「うん。」
笑顔だ。
舞子は包み込むような笑顔を敦に向ける。
「でも、あのあとからさすがに怖くなっちゃって。
それで息が詰まって、苦しいんだ。
今は、一人じゃエッチなことに踏み込めなくなっちゃってる。」
「あ……ああ……」
「だから、高田が私のこと『好きだ』って言ってくれるなら……
一緒に、エッチして欲しいの。
高田と二人でなら、怖くないかもしれないから……どう、かな?」
「い…いや……『どうかな』と言われても……
俺、既に幸せすぎて死んだんだけど……」
『あはは』と笑う舞子の胸の奥には、未だどす黒い記憶が張り付いている。
体の震えも取れきってはいない。
だが。
自ら恐怖に立ち向かい、克服しようとする強い意志ははっきりと生まれていた。
「じゃあ……」
舞子は敦の手を取る。
そして、それを自分の左胸に押し付けると、上から自らの両手を添える。
「……決まりだね。」
敦が思わず向けた視線の先。
そこには沙弥とはまた違う、
精神的な美しさを纏う舞子の姿があった。