ボクは森の外の小道へとたどり着いていた。
ただそれだけのことでも感動せざるをえない。
何せ、野草採りに出かけるときもどれだけでたらめに森を歩き回ったとしても自然と家に着くのがずっと当たり前だった。
こうして外へ出られたのはルビーにさらわれてから初めてだ。しかし、あまり感動に浸っていて時間を無駄にしてはいけない。
幸いまだ記憶にはある道だった。これで全く知らない道だったらどうしようかと思ったが、ここからなら自分の住んでいた村まで向かうのにそう遠くはない。
まだ夢見心地な気分が抜けず、おぼつかない足取りだったが、ようやく帰れるんだと思うと、胸の奥の方がじわじわ、じんと熱くなっていくのを感じた。
小道沿いに歩き進めて、街道に着く。この人の行きかいの多い大きな道を進むだけでボクの村はすぐだ。
ボクの村は農村で、農業が盛んだ。
多くの家が畑を持っているか、またはそういう家とご近所づきあいの繋がりがあり、農業とは切っても切れないような、そんな村だ。
けして大きくはないが、都会まで続く街道の中継地点のような位置にある村なので、旅の行商人もよく立ち寄る。
言ってみれば、旅人たちの駅のような村で、それなりに賑わっている。
収穫期が近い時期が訪れる度に、村で作られた作物を買い込みにやってくる商人たちで宿はあっという間に満杯になり、泊まり場所をなくして民家で世話になるということもあった。
ボクの家でもそういうことは度々あった。
知らない人たちが家の空いた部屋に何日か宿泊していき、たまに沢山の旅のおみやげ話を聞かせてもらったりしたものだ。
街道に沿って、大きな黄金色の地平線が見えてくる。
一面を満たす小麦の草原が風にそよがれて波を打つかのよう。その風がまた心地好く、ようやくして自分の村に帰ってきたのだと実感が沸いてきた。
遠くを見渡せば、まるで小麦の海に浮かぶ小島のように密集した村が目に映る。いくつかの馬車が停まっているのがそこからでもよく見えた。
そうか、もうそろそろ収穫の頃合いか。となると、きっと村の中は連日お祭り騒ぎだろう。ここぞとばかりに店が屋台を出して、遠出で疲れた旅の商人相手に商売している光景が目に浮かぶ。
「おや、旅人さんかい? いやはや今日は多いなぁ、はっはっ」
「あっ……《どうもこんにちは》《賑やかそうでなによりです》」
ボクの言葉が置き換わって発せられる。ボクは声を掛けてくれたそのおじさんを、泥と砂埃にまみれたそのおじさんを、名前で呼んでしまったから。
忘却の呪印によって村の人はボクの存在を完全に忘れてしまっている。にも関わらずボクが名前を知っているとそれは矛盾になる。秘密をバラすことになる。
だからこそ言葉が置き換えられてしまったのだろう。
このおじさんは、ボクの住んでいた村の住人だ。その格好がおじさんが何者かを全てを語っている。この村で長く勤めている農民だ。
この広大な畑の多くを所有している。生活に困っていたときに作物を分けてもらったこともあるくらい気さくで優しいおじさんだ。
本当であればこうやって再会できたことは懐かしくて嬉しくなるところだったが、今のボクは真逆だった。
あんなに世話になった、あの優しいおじさんは、ボクのことをすっかり忘れてしまっていたから。
何処かであの呪いもウソだったなんて思っていたのかもしれない。
そのくらいのこと、分からなかったわけじゃないし、分かっていたつもりだったのに、それがとてつもなく強烈な痛みを束ねて、固めて、そのまま叩きつけられたかのような、そんな衝撃だった。
これからボクはあの村に向かう。でも、誰もボクを覚えている人はいないんだ。それが今、はっきりした。
「それじゃ楽しんでおいで、ちっちゃい旅人さん」
おじさんの優しい言葉が辛いと感じるのが、辛かった。
※ ※ ※
小さな田舎の村とは思えないくらいに色々な人々が行き交い、出店から立ち上る食欲をそそる香りが辺りの賑やかさを引き立てる。
この場にこうしているだけで、村の雰囲気に飲まれていく。
できることなら長居したいけれど、そうもいかない。
日没までにやっておきたいことを済ませ、そしてルビーのお使いを済まさなければならない。
しかし、この村でやっておきたいことといったらなんだろう。
もう既にこの村で何人もの知り合いに出会ったけれども、その誰もがボクのことを忘れてしまっている。
旅人としては歓迎されているが、もう住人としては迎え入れてはくれない。
一体ボクは何のためにここまで来たのだろうか。
あれほどまで帰りたいと思い続けていたこの村は、変わらないのに、ただそこにボクの居場所だけが、まるで最初からなかったかのように消えている。
こんなことを、こんな場所に帰ることを、ボクはずっと望んでいたのか。
どうしようもない虚しさが込み上げてくる。
この村中を取り巻く楽しげな雰囲気とは対称的に、心の中に灰色のもやのようなものが掛かっていた。
村は何一つ変わらなくて、ボク自身が変わってしまったから辛いのだ。
これ以上、ここにいても辛いだけだ。
そう思っていたはずなのに、それでもボクはまだここにいた。
そうだ、ボクはまだ一番帰りたかった場所に行っていない。そこへ行っても忘れられていると思うだけでやはり辛い。
しかし、それでも帰りたいという気持ちが消しきれず、ボクの足は迷ってしまっている。
ボクはまだ、ボクの家に辿りつけていなかった。
ボクの家は、村の中心に近い場所にある。村の中を通る街道をそのまま進めばいずれ目に付く。
心はまだ迷ったままなのに、少し、また少し家まで近づいていく。着いたところでボクはどうすればいいのだろう。「ただいま」といっても「おかえり」と言われないし、呪いがある限りボクの言葉も伝えられない。
しかし、とうとうボクの家はもう見えてきていた。
芳しい香りがここまで届く。
ずっと慣れ親しんできた甘くて優しい香りだ。
ボクの家はパン屋を営んでいる。
小さい村の中で、さらに小さなお店だが、評判はいい。
旅人も商人も通りすがりに、まるで魔法にでも掛かったかのようにこのお店のパンの香りに吸い寄せられていく。
そうして次の瞬間にはパンを抱えて店から出てくるのだ。