「ありがとうございました、またいらしてくださいね」
ドキリとしてしまった。
店先から客と共に現れたのは、ボクの母さんだったから。
いや、ここはパン屋なのだから店員である母さんが店から出てくることは何もおかしくはない。それでも、ボクは喉に何かが引っかかるような、そんな息苦しい気持ちに襲われていた。
「あら、いらっしゃいませ。どうぞお立ち寄りください」
母さんが、ボクを接客する。素朴な笑顔で。ボクのよく知っている、その笑顔で。
「《ああ、はい》《ではお言葉に甘えて》」
「村は楽しんでいかれましたか?」
「《ええ、とても》《楽しいの好きですから》」
「若いのにお使いなんてエライですね。何処からいらしたんですか?」
「《ちょっと遠いところですね》《でも日帰りはできますよ》《今日もそのつもりで》」
「そう、ずいぶんと疲れた顔しているものね。なんだったら少し休んでいきなさいな。お茶をお出しするわ」
「……ありがとう《ございます》」
※ ※ ※
懐かしいパンの匂いに包み込まれる。
久しぶりと思っていた家の中は、まるでボクがいなかったことなんてウソだったんじゃないかというくらい、暖かく迎え入れてくれた。
店の中には母さんと何人かの客がいるくらい。ボクは店の隅の椅子に座り、お茶をすすっていた。この味もなんだか懐かしい。
ボクが出そうと思っても出せない母さんの味だ。
母さんは店を右へ左へとひっきりなしに動き、客の対応から新しいパンの仕込みまでを一人でこなしていた。
今日は特に客の出入りが多いからとても大変そうだ。見慣れた光景だけど、いや見慣れた光景だったから、ボクは気がついたらふと立ち上がっていた。
「《すみません》、ボクも手伝うよ」
「え? でもお客様に悪いわ」
「……せめて、お茶のお礼だけでも。大変、そうで、すし」
「そう。まあ、忙しいのは本音ね。もう連日だし」
「突然すみません」
「いえ、助かるわ」
別にいいよね。秘密をバラすわけでもないし。そう、自分に言い聞かせながらも、ボクは母さんの下に寄る。
「実は明日の仕込みも間に合わせないといけないの。だから材料を倉庫から出さないと」
「はい、分かりました《任せてください》」
「ふふ、お願いね。あ、いらっしゃいませ。どうぞご覧になってください」
そうこうしているうちにまたお客さんが現れる。やはり忙しいのだろう。
工房の中もまたいっそう小麦の匂いでいっぱいだった。
作業台は粉で真っ白に染まり、片隅の焼き立てのパンが陳列する棚から漂う香ばしい匂いがまた食欲を煽ってくる。
さて、ボーっとしている暇はない。パンの材料には小麦だけでなく砕いた木の実や採れたての蜜なども使うから数が多い。早足に、ボクは棚の下から小麦を引っ張り出し、作業台に置く。そして隣の棚に並ぶ小瓶から調味料を取り出し、これも作業台の上に置く。
「ごめんね、ありがとう。あら、材料の場所分かった?」
したり、そういえばボクはここに初めて入ったことになっているんだった。
「ええ、ちょっと探してみて、これじゃないかと。間違ってたらすみません」
「いいえ、ごめんなさいね、とっさで何も教えられなくて。うん、大丈夫よ。ピタリ」
やはり、あまりうかつに動き回るのはよくなかったのかもしれない。
しかしそうこうしているうちにもまた仕事が増えてくるし、まだたくさん残っている。ボクがいない間もずっと一人でこの仕事を続けていたと思うと、このくらいのことでボクが弱音を吐いている暇もない。ほら、またお客さんが入ってくる。
こんな時間が当たり前だったときがあったなんて思うときがくるなんて。こんな時間を久しぶりだなんて思うときがくるなんて。寂しいと思っていたし、今は暖かいと思えている。ボクの頭の中はとてもぐちゃぐちゃだった。母さんの手の中で練られるパン生地のように押されて伸されて、何度も何度も形を変えられていく。
「あ、悪いけどそこの水とってくれる?」
「はい《どうぞ》」
狂ったように時間が目まぐるしく動いているような気もしたし、まるで止まったようになだらかで静かに時間が過ぎていくような気もした。ボクは今、どういう気分でいるのだろう。自分でもそれがよく分からなくなっていた。
こうして母さんと一緒にパン屋を経営している自分が本当にあるべき自分だったのか、それともあの魔女ルビーの元で雑用を押し付けられている自分が今ある本当の自分なのか。
迷うはずもないのに、その答えがボクの中で選べないでいた。きっと、これは魔女の呪いのせいだ。ボクはそう思うことにした。
「ふぅー……、お客さんも大分捌けてきたわね。今日はありがとう、とっても助かったわ」
「いえ、お役に立ててよかったです」
気がつけば、日が傾き始めていた。今から戻らないと日没にまで間に合わないかもしれない。
でも、ボクは何処に帰るべきなのだろう。
いっそこのまま、ボクはボクの家にいてもいいんじゃないか? だってここはボクの家だ。
呪いのせいで上手く伝えたい言葉が伝えられないかもしれないけれど、こうやってボクはボクとして過ごすことができる。これ以上に何を望めばいいのだろう。
いや、もうひとつの呪いのこともある。
どんな呪いかは知らない。突然ボクの頭が狂いだして母さんの前であられもない姿を晒すことになるかもしれない。
村の人たちにとっても全く知らない旅人がおかしな病気で狂ったようにしか思われない。
ルビーだったらきっとそのくらいのことはするだろう。選択肢なんて、あるのだろうか。
「あの、《おばさん》はいつもこんなに一人で大変じゃないですか?」
「あら? 心配してくれるの? ふふ、ありがとうね。大丈夫よ」
大丈夫なように見えるものか。こんなに痩せ細って今にも倒れてしまいそうなのに、まるでそんな素振りを見せないで働いている。
こんな重労働、ルビーの下でやっている雑用なんかとは比べ物にならない、そう思えてくるくらいだ。
「大変は大変よ。辛いし、苦しいのは確か。でもね、この店は私の店だから、ね」
「どうして《おばさん》はそんなに頑張れるんですか……?」
「だってこの店は私の主人が残したものだもの。捨てるなんて考えられないわ」
そうだ、ボクの父さんはボクが生まれて間もなく、亡くなった。だからボクは父さんのことをよく覚えていない。
ただ、母さんからずっと聞かされてきた。父さんは自分の夢だったパン屋を作り、日々を一生懸命に過ごしていた。母さんはそんな父さんに惹かれたんだと。
でもそれってあんまりじゃないか。
パン屋を作りたかったのは父さんの夢だ。母さんじゃない。
いなくなった父さんのために、何も母さんがこんなに頑張る必要なんてないじゃないか。
「なんだか不思議そうな顔、してるわね。ああ、そうそう私の主人ね、ちょっと遠くに行っちゃってね。今はいないのよ」
まるでただ遠くに出かけているかのように言う。
ボクにはその言葉がウソだと分かるのに、何も言えないでいた。
「あなた、若いのによく気がつくわね」
「え?」
不意に母さんが何かを見透かしたように言う。
「この店は主人のものだし、きっと私には関係ないのかもしれない。だって私、元々は料理だって何もできなかったしね」
母さんが料理ができなかったなんて初耳だ。だって母さんの作る料理もパンもあんなに美味しかったのに。
「でも惹かれ過ぎちゃったっていうのかな。どうしても傍にいたくなっちゃってね。鎖に繋がれた犬みたい。で、気づいたらこうなってたわ。あはは、ヘンな話でしょう? もうあの人はいないのに、鎖だけ残っちゃった」
そういえば母さんはいつも父さんの話をするのが好きだった。
べた惚れというのだろう。父さんのことをよく知らないボクには母さんがどうしてそこまで父さんのことを好きになれるのかは分からない。
「ま、人生は色々ってことね」
鎖に繋がれている、というのなら今のボクもある意味、似たようなものだ。
ボクの場合はルビーに出会ってしまったがために、奴隷としてずっとあの家に繋がれていた。
でも母さんとは決定的に違う。あんな強引で、非人道的なことなんてない。
「あなたにはまだ若いから分からないかもしれないけど、こういう鎖ってね、何処にでもあるものなの」
確かに、何処にでもあるとは思う。
「私の鎖は幸せな鎖よ。でもね、世の中にはもっと辛い鎖だってあるのよ」
きっと、それはボクの鎖のことだろう。まさかボクが奴隷にされているなんて母さんは分からないだろうけど。
「けど、結局ね、人間って鎖に繋がれてないと生きていけないと思うの。だからね、自分から繋いだ鎖でも誰かに無理やり繋げられた鎖でも、それは大切にすべきだわ」
「それってどういう……」
「ああ、ごめんね。あなたにはちょっと難しい話よね。あはは、忘れて忘れて」
正直、母さんが何を言っているのか、今のボクには理解できなかった。
好きな人と繋がるならまだしも、奴隷のように扱われても大切にすべきだなんて、そんなものあるわけがないと思ったから。
「……そろそろ日が暮れそうね」
まずい。長話をしすぎてしまった。
もう急いで帰らないと日没までに間に合わない。
「ねえ、あなたがもしよければ、だけど泊まっていかない?」
母さんが優しく、そう言ってくれる。それもそうだ。大の大人ならまだしも、暗くなった夜道を一人で帰るなんて危険すぎる。
ここまで遠出してきたと行ってしまったから尚更だ。
ボクは…………、どうするべきだ?
最後の選択だ。時間の猶予はもうない。このまま呪いが定着しても構わないからこの家に留まるか、それともあのルビーの待っている家に帰るべきか。
こんな単純な選択、迷う理由がない。ないはずだ。
どうしてボクは悩む必要があるのか。たかが呪いじゃないか。母さんを残すなんてそんなことできるはずがないだろう。
でも、ボクは、なんでこんなに悩むのか。
「……すみません、そういってくれるのは嬉しいですけど。やっぱり帰らないと」
なんで? なんでボクはそんなことを言う? これも代弁の呪いのせいか?
「そう、ごめんなさい。また急に引き止めちゃって」
「いえ、色々と今日はありがとうございました」
「そんなこと。むしろ私の方が助かったわ。店も手伝ってもらっちゃったし、話も聞いてもらえたし、ね」
ボクは少しでも、母さんの支えになれたんだろうか。
ほんの少し一緒にいただけなのに。
「あ、そうだ。これ売れ残りで悪いんだけど、持っていって」
母さんが、いくつかのパンを包み、ボクに渡してくれる。すっかり冷めているけれど出来たての香りはまだ残っている。
その香りがもうすぐ消えると思うと名残惜しい。そうしているとふと、前髪がふわりと跳ねた。母さんの暖かい手がボクの頭をそっと撫でていた。
「男の子は無茶するものだけど、無茶しすぎはよくないからね。たまには甘えることも忘れちゃダメよ」
そんなにボクは無茶しているように見えたのだろうか。そんなことを言ったら母さんだってずっと無茶しているじゃないか。
でも、ボクはやっぱり何も言えなかった。どうしてだろう。どうしてボクは。
「……《おばさん》、また、来てもいいですか?」
「ええ、もちろんよ」
母さんはやはり笑顔でそう答えてくれた。
※ ※ ※