「何処ほっつき歩いてたのか知らないけどちょっと遅すぎない? もうちょっとで定着するとこだったわよ」
「別にいいじゃないですか。こうやって帰ってきたんですから」
「まーねー。別に呪いが定着したってフェルの問題だしねー」
結局ボクはここに帰ってきた。無事日没まで間に合ったようで、両手の呪印もあっさりと解かれた。解いてもらったのは初めてのような気がする。
いつもあれだけでたらめに呪印を刻んでいくものだから、こうやって約束を守ったことが不気味とさえ思えてくる。
ただ、呪印は定着直前に剥がすものじゃないらしい。かなり深いところまで刻印が入っていたようで、手の皮を丸ごと剥がすような激痛だった。
変な痕は残らなかったけどまだ少しヒリヒリが残っている。今後呪印を解かれる予定があるならできるだけ早く解いてもらえるようにした方がよさそうだ。あんな痛みは二度とごめんだ。
今回は後遺症も残らなかったけど、一歩間違えたらどうなっていたか分かったものじゃない。
「そういえばご主人様、もう片方の呪印って結局どんな呪いだったんですか?」
「んー、聞きたい? んっふっふ、まぁ別に大したもんじゃなかったんだけどねー」
パンをむしゃむしゃと頬張りながら言う。
沢山もらってきたとはいえ、そんなにいっぺんに食べるとあっという間になくなってしまうのだけど、その辺はあまり考えていないようだ。
「ま、消しちゃったし、今更教えてもしょうがないね。定着してもいいならもう一度つけてあげるけど」
「結構です」
きっとボクがあのとき、村に残らずルビーのところに帰ろうと決めたのは呪印のせいに違いない。
そうでなければ、ボクがこんな魔女の奴隷生活を選ぶはずがない。
そうだ、そうに決まってる。呪いさえなければ……。
母さんを目の前にして帰るなんてこんな悲しい思いをしないで済んだはずだ。
「ふぅ……それにしてもパンなんて食べたの何十年ぶりだろ。こんなに美味しいもんだったとはね」
どうもルビーは母さんの作ったパンを気に入ったようだ。
ボクが来る前など言葉で言い表せないゲテモノばかり食べていたのだから当然だ。
でも、久しぶりってどういうことだろう。昔はルビーもまともなものを食べていたのだろうか。
魔女だって一応は人間だし、ボクと同じように母さん父さんがいるのだろうけれど、今のルビーを見てそんな家族の姿は目に浮かばない。
幼少期があったかどうかさえも定かじゃない。突然今のままの姿でポッと沸いて出てきたのではないだろうか。
「さて、おなかもいっぱいになったことだし、そろそろ、ね」
ルビーが瞳の色を妖しく光らせ、唇を吊り上げる。
こんな魔女に幼い少女だった時代があったなんてどうやったって想像できるものじゃないな、とボクは気の抜けた溜め息をもらした。
※ ※ ※
「さ、いつでもいらっしゃい」
ベッドの上、またいつものようにルビーが誘うように言う。
いやらしく身体をくねらせ、ボクを待っている。
ただ、今日はさすがに疲れていた。身も心もだ。自分のいた村に帰れたのに、そこに自分がいないという喪失感だけを持ち帰り、むしろ帰りたいと思っていたときよりもずっと心は沈んだかもしれない。
あんなに母さんに会いたいと思っていたのに、こんな気持ちになるなんて。
そんな疲れた意識はまどろみに落ち始め、目の前のルビーが母さんとダブる。
全然似てない。似てないが、そう思った途端、寂しさが込み上げてくるのを感じた。ああ、ボクは母さんに思い切り甘えたかったのだ、と帰ってきて初めてそれが分かった。
「……母さん」
結局、一度も言えなかったこの言葉を小さく、小さく呟く。
そしてそのままベッドに倒れるよう、ルビーにボクの身体を預けた。
ルビーは温かくて、いつもはそこまで意識してなかったのに、何処か落ち着くような気分になれた。どうしてだろう。
いつもと変わらないはずなのに。
「どうしたのフェル? 今日はずいぶんと甘えてくるわね、うふふ」
「……なんでもない、です」
今日はちょっと疲れただけ。ただそれだけ。別に意味なんてない。
「ママのおっぱいが恋しくなったのかなぁ~?」
相変わらずルビーはいじわるっぽく言う。
母さんが恋しくなったのは間違っていない。ちょっと甘えたい気分になったのも確かだ。でもそんなんじゃない。
おっぱいが欲しくなるなんて、赤ん坊じゃないんだから。大体、こんな寂しい気分にさせたのもそもそもルビーのせいだ。
ルビーさえ変なことしなければ。ルビーが。このルビーが、ルビーのおっぱいが、腹立たしい。なんでこんなにやわらかいんだ。
さわさわとルビーの手がボクの頭を撫でる。
それが一瞬、母さんの手のように思えてきて、それでなんだか心地よいと感じてしまって、なんとなく無性に怒りのようなものがこみ上げてきた。
ギュウっとルビーのおっぱいを揉みしだく。
痛がるかと思ったのにボクの力は弾力に負けて、ただルビーのおっぱいの形を少し変えただけだった。
「せっかく、せっかく帰れたのに……、誰もボクのこと、覚えてなかったんだ……」
小声だったけれど、ボクの声は酷く震えていた。
やっぱり自分のことを覚えている人がいなくなるというのは悲しいし、寂しい。
ずっとそれが実感なかったのに、改めて思い知らされてしまったんだ。
特に母さんだ。母さんにやっと会えたのに、あんなもどかしい別れ方をしてしまった。ただ一言、母さんと呼びたかったのに。
望んだのは確かにボクだ。でも、こんな気持ちにさせたのはルビーだ。
どうして、どうしてボクはここに帰ってきたのだろう。どうしてボクはこんなもやもやを抱え込まなければならないのだろう。
何がなんだか分からなくなって、頭の中はまたぐちゃぐちゃになってしまう。
「……フェル」
先ほどまでとは打って変わって、弱い声だった。
そんな申し訳なさそうな声で耳元でささやき、ルビーがボクの頭を撫で続ける。
ルビーに理解できるのだろうか。ボクのこのもやもやしてぐちゃぐちゃしてよく分からないものが混ざった、この気持ちを。
ただただボクを優しく抱いて、優しく撫でる。
なんでルビーはボクをさらったのだろう。なんでボクなんかを奴隷にしたのだろう。そんなことさえしなければボクは。
……ルビーも寂しかった?
そんなまさか、なんてことを思った。
ルビーだって魔女とはいえ人間だし、不老不死でもう何十年、何百年生きているかも分からないが、少なくとも昔は誰かと一緒にいたんじゃないだろうか。
家族だったり、友達だったり、あるいはいたのかは知らないけど恋人とか。
どんな理由があるのか、ルビーはこの森に住んで、外の村や町と関わろうとしない。いや、関われないのか。
寂しいから、誰かを傍に置きたかった。それが、たまたまボクだった。
そういうことなの?
ルビーはわがままだし、不器用だし、魔法以外のことなんて何もできやしない、しようともしない。だからやり方が分からなかった。強引な方法しか取れなかった。
そういうことなのか?
ボクの頭はまた混乱する。
ボクが母さんを寂しくて帰りたいと思う気持ちと、ルビーが寂しくてボクを連れ込んだこの気持ちが同じ気持ちなんだろうか。
ああ、分からない。何も分からない。
ボクはどうしたらいいんだろう。もしかしたらボクは分かっていたんじゃないだろうか。ルビーの秘めた気持ちを。
だからここに留まっていて、また帰ってきてしまったのでは。
「ごめんね、フェル……」
ルビーが優しくボクにキスをしてきた。いつもあんな無理やりしてくるくせに、なんで今更謝るんだ。意味分からない。
なんだか今日は恥ずかしく思えてくるくらいに、優しいキスだった。
今日母さんと会ってしまったからだろうか。ルビーと母さんがまだ被って見える。違う、違うんだ。ルビーは母さんじゃない。
でもボクの寂しさを拭うような温かさを、ボクは感じていた。
「そんな顔しないでよ」
ボクはたった今、どんな顔をしていたのだろう。
少なくとも、涙で濡れた、鼻水も垂れ流しの酷い顔だ。
誰のせいだと思ってる?
ルビーのわがままで、ボクはこんな思いをしているんだ。
ずっと、ずっとずっと堪えてきたんだ。考えてしまうと悲しいという感情に押しつぶされてしまいそうだったから。
どうしてルビーはボクが帰りたいと言ったとき、それを許したのか。
多分、それがルビーなりの精一杯の気遣いだったのかもしれない。
でもそれは優しさじゃなかった。
間違っていたんだ。だって、堪えてきたものが全部、全部壊された。
村に戻っちゃったから、もう堪えられなくなってしまったんだ。
ねえルビー、なんでボクを奴隷なんかにしたの?
ボクじゃなくてもよかったんだよね?
どうしてボクはこんな気持ちにならなきゃいけないの?
黙ったままルビーがボクの身体をより強く抱き寄せる。
痛い。痛いのに、ボクはそれを拒めなかった。これは呪いのせいじゃない。
ようやくルビーの抱え込んでいた気持ちが見えたような気がしたから。
奴隷のようでも、玩具のようでも、ボクはきっとルビーにこういう風に必要とされていたんだ。
気づいたらボクは、ルビーを抱き返していた。まるで互いが互いを慰めあうよう。
ルビーがまたキスをする。甘いキスだ。
だからボクは舌をからめておかえしする。ふと、暗がりの中、ルビーの瞳が見えた。前髪に隠されたルビー色の瞳は少し潤んでいたような気がした。
それが見えた途端に、ボクのぐちゃぐちゃだった頭が、徐々にパズルを解いていくように、少しずつ、少しずる、整理されていくようだった。
ああ、やっぱりルビーは、こんなに不器用だったんだ、と。
ボクとルビーは少しの間、そうやって互いに口付けをし合い、いつもよりも優しく、身体を重ね、何も言わないままに、交わった。
こんな気持ちでルビーと夜を過ごしたのは初めてだったかもしれない。
ただただ甘くて、ただただ切なくて、言葉にもできないくらい複雑な思いを抱えたまま、ゆっくり、ゆっくりと夜が更けていった。