ボクと青い魔女と洗脳された城
山を下りきって、木々の合間から空が見えるくらいに浅い森の道に辿り着いた頃合い。すっかり日は落ちてしまい、開けた枝と枝の先にはもう星が見えていた。
見上げるととてもキレイな夜空なのだが、眺めていられる余裕は今のところない。
ボク自身、山越えの長距離移動で疲れてしまっているというのもあるけれど、それよりももっと酷い状況になっている。
「ぉ……、ぉしりぃ……、ぅぅ……おしりぃ……」
さっきからマリンはずっと自分のお尻付近に手をあてて、むずむずともどかしそうにくねくね歩いている。例の呪いのせいだろう。
後ろにいるボクからはどんな表情をしているのかは見えないが、おそらく果実のように紅潮していて、甘くとろけそうな顔をしているのだろう。
辛そうだ。痛い、苦しいではなく、気持ちいいをガマンするのが辛そうだ。このままだとまた、ガマンしきれなくなって暴走してしまうかもしれない。
「ダメ……ダメ……ッ!」
マリンはローブの懐からおもむろに、何かを取り出す。きっとさっきの水の入った小瓶なのだろう。マリンは急くように取り出したそれを自分の口元に運ぶ。
とたんに息遣いの荒さがなくなり、よれよれ歩きだったマリンの足取りに落ち着きが戻ってきた。
「……ふぅ」
「その薬って一体?」
ボクは思わず聞いてしまう。多分さっき、ボクも分けてもらったものと同じもののはずだ。一体どんな薬なんだろうか。
ここにくるまでにも何度か飲ませてもらっていて、その度に疲れが嘘のようになくなったことは確かだ。
それがなかったらきっと足で山を越えることなんてできなかったはず。
「え? あ、これ? これは別に薬なんて大層なものじゃないわ。水よ、普通の水。さっき森の中で見つけた泉から汲んできたのよ」
「ただの水? でも今も、それにさっきも、その水で確かに……」
ボクが言おうとしていることが分かっているかのようにマリンが言葉を紡ぐ。
「勿論、ただの水だったけど、変えたの。ちょっとだけね」
水を、変えた? そこにあるものを変えるなんてそんなこと、ルビーはできないと言っていた気がする。
魔法であるものを違うものに変化させることは無理だと。いや、違う。正確には、分野外だったか。えっと、なんていったっけ。
「錬金術って知ってる? あたしの一番得意なものよ。乾湿熱冷を掌握して物質を変化させるの。簡単に言うと、ものを別なものに変えてしまう魔法ね」
錬金術。聞くだけでも凄いものだと分かる。
それって、扱い方次第では何だか恐ろしいことになるような気がする。どんなものでも好きなものに変えられるのなら、建物を丸ごと砂に変えたり、人間をそのまま動物に変えたりすれば、国一つを滅ぼすことだって難しくないのでは。
「なぁんか変な顔してるわね。フェル君勘違いしないでね。何でもかんでも好きに変えられるわけじゃないんだからね」
心を読んだかのようにマリンが子供っぽく微笑む。
「水を温めれば湯に、冷やせば氷になるように、その物の変化を促す程度よ。やろうと思えば水を石ころにできるかもしれないけど、そこに辿り着くまで時間も掛かるし、魔力も酷く消耗するし、面倒くさいだけ」
何か詳しく難しいことを言っているような気はするけれど、知識のない今のボクには到底理解できそうにない。多分、そんなびっくりするくらいのものに変えられないということなのだろう。
「あんまり複雑な変化だと物一つじゃできないしね。今はそんな材料もないし魔力を足して薬っぽくしてみただけ。時間あれば薬草でも摘んで、もっと効力を高めるんだけど……、あの魔女がいつ追い付くか分からないしね」
そういえば、いくらずぼらなルビーももうそろそろボクやマリンがいないことには気づいているだろう。
そうしたら魔法を使ってボクたちを探しあてて直ぐにでも箒で飛んでくるはずだ。
「この森を抜けたら城はすぐだからそこまで急ぎましょ。それともフェル君は今からでもあの魔女のところに帰りたい?」
「……いや、……そんなことは」
とはいいつつも、ボクは首を縦にも横にも振れないでいた。
一応、ボクはマリンにさらわれているんだよね?
一応、ボクは誘拐されているんだよね?
言葉を頭の中で反芻しても実感が沸いてこない。なんだかちょっとこっそりと門限を破って友達の家にでも遊びに行く子供みたいな気分だ。
だけど、あの城まで連れて行かれたらどんなことをされるのかはまだ分かっていない。もしかしたら人質として見せしめに何かとんでもないことをされるかもしれない。それこそルビーが怒るような何かを。
もっとボクは危機感を持った方がいいのかもしれない。ルビーのもとであまりにも滅茶苦茶に、無茶苦茶にされてきたせいなのかもしれないけれど、少なくともこれから自分の身に起こるだろうことに不安を覚えるべきだろう。
「あの、ノワール、様? って一体どんな人なのかな」
おずおずと、ボクは聞いてみた。今、とても気になるところだ。確かボクの記憶では、魔導師は魔法使いの中でも上位に位置する。
ルビーは野良魔法使いみたいなものだからそういう位は分からないが、あのルビーの師匠なのだから相当の実力というのは分かる。
「……やっぱり聞きたい? ……そうよね。これから会うんだもんね」
何とも、含んだ言い回しだ。
「ノワール様は、人にできないことがほとんどできる方よ」
あまりにも漠然とした答えだ。答えにもなっていない気がするくらい。
「紅の魔女は肉体を、あたしは物体を自在にすることができるけど、ノワール様は心を自在にすることができるの」
「心を?」
やはりこれも今ひとつピンとこない。
「勿論ありとあらゆる魔法も使えるけれど、操心術に関してはノワール様の右に出るものはいないわね。ノワール様はその力で一国を丸ごと洗脳して自分のものにしたくらいだし」
マリンはさらっと今、とんでもないことを口走ったような気がする。
それは漠然とした答えだったが、それだけで恐ろしさが伝わってくる。
心を自在にするということは、つまり人を操ることが自在にできるということになるのか。しかし、重要なのはそこじゃない。
「えっ!? ちょっと待って? 一国を、って。それってつまり……」
「怖くなった? ごめんね、フェル君。今向かってる城は国ごとノワール様の所有物なのよ。ああ、でも、普段は普通の国だし、国王も違う人が就いてるけどね」
ボクの足は、気付いたら止まっていた。むしろ頭の中も止まってしまっていたかもしれない。ルビーの師匠だから、大魔導師だから凄い人なのだろうと楽観していたかもしれない。それはあまりにも想像を超えていた。
「正直ね、ノワール様に会ったら、あたし、フェル君のことを、守れないと思うの。心を操られたらもうどうしようもないし。ノワール様の機嫌次第っていうのかな」
ごめんね、ごめんね、ごめんね。
振り向き様、マリンの言葉がその瞳越しに反響して訴えかけていた。そういえば、今回のこと断れない人から頼まれたとマリンは言っていたような気がする。
師匠だから、恩師だからじゃない。その言葉通りに、断るという選択肢も奪われてしまうのだろう。
逃げるなら今のうちしかない。きっとマリンはそう言いたいのかもしれない。
「……森、抜けちゃったね」
ふと、気が付けば、もう目の前には森はなく、星明かりの照らす平原と、そんな淡い光よりもずっと力強い明かりの灯る城下町が見えていた。
引き返すにはさすがに遅すぎるだろう。
今更またあの森の中をさまようわけにもいかないし、ルビーが飛んでやってくるまで平原をうろつくのもおかしな話だ。大体、マリンも今は万全な状態じゃない。そんなことを許してくれる猶予がまずない。
仮に、仮にだ。今ここでルビーに捕まったらむしろマリンが無事じゃない。
ただでさえこんないつ気が触れるかも分からない状態だというのに、追い討ちを掛けられたら、今よりも酷い身体に作り変えられたら、今度こそマリンはマリンじゃなくなってしまうだろう。芋虫にでもされて蹴り殺されてしまうかもしれない。
でも、じゃあこのままだとどうなるのか。
相手はルビーの師匠で、ルビーよりも偉大な魔導師らしい。
機嫌がよければなんとか無事に済むらしいが、そもそもボクが連れて行かれる時点で、マリンは頼まれたこと、つまりルビーを連れてくることができなかったわけで、それで機嫌を保てるかと言ったら無理なんじゃないか。
聖人君子のような人物であることを祈りたいが、一国を乗っ取るような人物だ。それは望めない。
あれ? ということはどういうことだろう。戻ろうが進もうが、いずれにせよ、結果は大して変わらないということになるのだろうか。
「さ、急ごっか」
「うん……」
※ ※ ※