しかし、違う。それは血じゃない。髪だ。赤い髪の毛だった。
どうしてそんなものが?
吐き出しそうな気分に襲われる。
無理やり喉の奥に異物を突っ込まれたあの感覚だ。
赤い髪を持つ、その大きなものが、ボクの胸の中からノワール様の手によって引きずり出される。
一体ボクのどこにそんなものが入っていたのか。分かるはずがない。明らかにボクの身体なんかよりも大きいものだ。
ノワール様のもうひとつの腕、つまり、ボクの首を絞め、ボクの身体を支える方の腕がボクを開放する。
しかし、言葉のように生易しくはない。正確には放り投げられたというべきか。玉座から下、段差のさらに下、赤じゅうたんにボクの身体は叩きつけられる。
打ち付けられた痛みよりも、胸を強く打ったせいなのだろう、ようやく首が開放されたというのに、息が上手くできなくてまだ息苦しかった。
ぜぃはぁぜぃはぁ。激しい息遣いだった。こんな鳴き声の野鳥がいたような気がする。まだ、上手く息が吸えていない。
息苦しさと、打ちつけたれた痛み。そのどちらも相まって、ボクはじゅうたんの上で枝で突かれる芋虫のようにぐにぐにとのたまわっていた。
落ち着かなきゃ。酷い怪我は負っていないはず。まずは呼吸を整えて。
すぅぅ、はぁぁ。まだ痛いし、苦しいけど、少しでも落ち着きを取り戻す。
這い蹲るようにして、四つん這いでボクは見上げる。
ノワール様が玉座に座っていた。しかし、そこに赤い何かがあった。
いや、あれは人だ。誰かがいる。赤くて長い髪。痺れたようにぼんやりと働かない頭がやっと正常に動き始める。
ルビーだ。
ノワール様の玉座の前に、ルビーがいた。
巣穴から引きずり出された小動物のようにへたり込んでいたが、すぐさま体勢を整えて、立ち上がる。
間違いない、あれはルビーだ。どうしてボクの中から現れたのかは分かりようもないが、ルビーがボクの目の前に立っていた。
「ガーネット。ようやく会えて俺様は嬉しいぞ」
先ほどよりもずっと抑揚のついた声でノワール様が言う。
「……」
ルビーは黙ったまま、すくりと立ち上がり、ノワール様と向かい合う。
一方のボクは混乱から抜け出せない。どうして、一体どこから、なんでルビーが。
頭の中を熱した鉄の匙でグルグルぐちゃぐちゃと引っ掻き回すような、おぞましい頭痛が急激に襲い掛かってきた。
いや、正確には、今までそんな頭痛を感じていなかった、と言うべきなのだろうか。たった今始まったような頭痛じゃない。もはや何が何やら。
ずっと頭の中をぐちゃぐちゃにされていたのに、全く気付かなかったなんてあるだろうか。
考えても仕方のないことなのだろうし、そもそも考えることも今は辛い。
「百年。そうだな、百年ぶりくらいか……」
「……」
ルビーが何かを喋っているような気がするけれど、あまりに小さな声のせいか、それとも頭痛とともにやってくる強烈な耳鳴りのせいか、うまく聞き取れない。
聞いておきたいことが沢山あるはずなのに、どうにもできない。玉座の下で立ち上がることもままならないまま、ボクは朦朧とした意識を失わないようにするのが精一杯だった。
「そんなつれないことを言うな。俺様はこの日が来ることを―――――」
しかし、ボクの意識は、努力を尽くすこともなく、保つことができなかった。
※ ※ ※
※ ※
※
それはまるで、夢の中のようだった。体がふわふわとした居心地で、あちこちがもやもやと曖昧になっている。景色を眺めていても落ち着かない。
壁かと思ったら森で、かと思えば家だったり、ものがものとして固まらない。
最初からここは家だったような気もするし、本当は森だったような気もする。
そんな感じで、記憶さえもあやふやだ。
何もかもが目まぐるしく変わり続けている。
風にあおられる水面に映る情景を眺めるかのよう。
でもそのどれもが自分の中ではよく知っているような気がするものばかりで、むしろ自分の知らないものがそこにはない気がする。
夢を見ているんだ、と思ってみてもなんだかぐちゃぐちゃで、はっきりしない。
森でもない、家でもない、畑でもない、頭の中の何処かの情景の中、ふと、誰かがそこに立っていた。
流れるように長くて、鮮やかなまでに赤い髪をなびかせた、しわくちゃでよく分からない染みで汚れた複雑な色合いをしたローブをはおった、女の人。
こんなにもぐちゃぐちゃで何もかもがあやふや空間で、その女の人の姿だけがはっきりと見ることができた。
それは白い紙の上にインクをこぼしたみたいに、それは真っ白な服の上にコーヒーをこぼしたように、それは焼きたてのふわふわのパンにジャムやバターを塗りたくったみたいに、消えないくらい、とれないくらい、染み込んでいた。
周りの景色がどんなに変わっていったって、女の人はけして揺るぎもしないし、消えもしない。
何もない向こうの地平線をぼんやりと眺めていて顔が見えないけれど、あの人は多分……。
※
※ ※
※ ※ ※
差し込む朝日が顔に当たり、目を覚ました。何故かとても心地よい目覚めだった。
それもそのはずだった。
ボクはいつもとは違う、いかにも高級そうなベッドの上にいた。ふかふかだ。ルビーのベッドよりもずっとふかふかだ。
そして、花の蜜のような香りも何処からともなく漂ってくる。まるで貴族にでも生まれ変わったかのような優雅な寝起きだ。
まさかそんなはずはない。あまりにもすっきりとした爽快な目覚めで、返って違和感があった。何がどうなってボクはここにいるのだろうか。
そもそもここは何処なんだろう。思い出さなければ。
ぬくもりの残るベッドから足を下ろす。
それにしても広い部屋だ。ベッドの大きさも相当なものだけれど、それを差し置いても余裕のある広さ。調度品も充実している。
こんな広くて贅沢な部屋はとてもじゃないけれど、落ち着かない。
部屋の片隅、ベッドの上でそわそわとしていると、ドアの方からコンコンとノックの音が聞こえてきた。そして、あまり聞き覚えのない声が続く。
「よろしいかしら?」
「は、はい、ど、どうぞ?」
それはあまりにとっさのことで、どう返事していいのから分からず、部屋の外の何者かの入室を許可してしまった。
ドアノブがガチャリと音を立て、キィィと開く。