いかにも淑やかで優しい声だったが、招き入れてよかったのだろうか。
そもそもボクは自分がどうしてここにいるのかも分からないのに、あたかも部屋の主みたい振舞ってしまったけれど、変な誤解をされてしまうんじゃないか。
泥棒と言われても弁明の余地がない。
そうこうしているうちに、声の主が姿を現す。
驚くほどキレイで、美しい少女だった。
汚れごと浄化しそうな純白で、花びらのような装飾の施されたドレスをまとい、緋色の長い髪が波を打ち、まるで野に咲く花が歩いているかのよう。
そんな月並みな感想しか出ない。お召し物も上から下まで上質なもの揃いで、服の生地の切れ端だけで三日分の食事の価値はありそうだ。
まるで絵本か何かで出てくるお姫様がそのまま出てきたかのようだ。しかし、初対面のはずだったが、どうしてか会ったことがあるようなそんな気がした。
いや違う。気のせいじゃない。初対面じゃない。昨晩会っている。
下品な豚。
真っ先に思い出した言葉がソレだった。本人を前にして、失礼にもほどがあるが、記憶の中の人物と一致する。
そうだ、昨晩、あの玉座の間で行われていた狂った宴の中で、豚のように息を荒げて床を這いつくばっていたお姫様だ。
こうしてキレイなドレスを着ているとまるで違った印象になるが、間違いない。こうして普通にしている姿を見ると、本当にお姫様だったのだと改めて理解できる。
「おはようございます。フェル様」
「お、おはようございます」
両手でドレスの裾をスゥっと上げ、姿勢が低くなるほどに頭をたれて、見たこともないくらい品格のあるお辞儀する。
下品な豚だなんて一瞬でも思ってしまったことを逆に謝りたい気持ちでいっぱいだ。きっとこれがこのお姫様の本当の姿なのだろう。
どうしてボクは今こんなところにいるんだろうかなんて疑問よりも、どうしてお姫様がボクなんかを訪ねてきたんだろうという疑問が上書きされる。
だって、ボクはお姫様に比べたら高貴でもなんでもない農村生まれの平民。お恐れ多い。ましてや、名前まで覚えてもらうなんて以ての外。
「昨夜はいかがでしたでしょうか?」
微笑み、聞かれる。どう答えるべきなんだろうか。
この城に来てからの記憶を遡ってもろくなものが思い浮かばない。
ノワール様による洗脳された人々による妖しい宴しか目にしていないし、そんなことに対してどんな感想を言えばいいのか。
途切れた言葉をどう取り繕うか、沈黙に急かされていると、いつの間にか姫様がボクのベッドのすぐそばまで来ていた。いや、すぐそばというか、ボクの目の前まで。むしろベッドの上に上ってきている?
花の香りのようなやさしいそれがふわりとその場に広がっていた。
「うふふ……」
無邪気さを思わされる幼げな瞳の奥は……何故か妖しく光っているように見えた。
こんな朝、目覚めたそばからお姫様とベッドの上で二人きり。
一体ボクは何をしているのだろうか。むしろ、これから何をされるのだろうか。
詰まった言葉が喉から先に出てこない。
問うべきなのか、制止すべきなのか、迷っている間にお姫様はベッドの上の、そのボクの上に覆いかぶさるように乗っかってきた。
ボクはベッドじゃない。ようやく頭の中に出てきた言葉を口から出そうと思ったが、出なかった。
何故って、ボクの口はふさがれていたから。何にって、お姫様の口にだ。
「んちゅぅ……、んふぅ」
慣れたように、舌を絡ませてくる。
それは執拗で、まるでものほしそうに、驚くほど積極的だ。
おかしい。さっきまで確かにそこにお姫様がいたような気がしたのに、今、ボクの唇をむさぼっているのは一体何者なんだろう。
それくらいの豹変を感じる。かといって抵抗できるわけもなく、もはや抵抗できないくらい脱力してしまうほど、お姫様の口撃は圧倒的だった。
「……っはぁ、……ふふ、可愛らしいですわ。フェル様」
ようやく開放されるも、ボクの体はぐったりと動けなかった。
お姫様はそんなベッドの上にうなだれるボクを見下ろし、まるで小動物を愛でるような仕草でボクの前髪を指先でいじる。
まるでお姫様に飼われているペットか何かみたいだ。
「あら、私ったらはしたない……申し遅れましたわね。私はスカーレットと申します。以後、お見知りおきを」
はしたないどころの話ではないと思うのだけれど、まるでそれが自然であるかのように、お姫様が、スカーレットがフフと笑みをこぼし、ボクの顔を覗き込む。
その、今にも襲い掛かってきそうな獣のような笑顔が何処かで見たことがある気がして、ますます頭の中の混乱がねじれてきた。
すくりと、スカーレットがボクの上から、ベッドから降りる。
ダンスを踊るような優雅なその仕草はお姫様のようでもあり、おてんばな女の子のようでもあり、たった今の今までの一連の流れとはちぐはぐで噛み合わない。
ボクは貴族にはとても縁のない田舎の平民だから理解できないのだろうか。
お城のお姫様というのは寝起きにベッドに押しかけてきてキスを迫るという作法やしきたりでもあるのだろうか。
もしかしたらボクがただ無知なだけなのかもしれない。そう思わされるほどに、スカーレットは自然体を振舞っている。
「あぁら、スカーレット。抜け駆けなんてよろしくなくてよ」
いつ部屋に入ってきたのだろう、スカーレットと同じくらいの女の子が入り口の扉の前に立っていた。
スカーレットとはまた違う装飾のドレス。スカーレットが花ならば、こちらは蝶のよう。茜色の髪であることを除けば、鏡写しのように対比的だ。
女の子、とはいいつつも、二人ともボクより年上だろう。
もう一人の女の子も見覚えがあった。確か同じく昨晩……、いや、これはもうあまり思い出さない方がいいのかもしれない。ただ、もし彼女がスカーレットと仲の良い関係だとしたら面識のないボクでも名前は分かる。
「アリザリン! ノックくらいしたらどうなの?」
驚いたような声をあげつつ、スカーレットはあどけない笑顔で指を差しながら言った。
「えへへぇ、ちゃんとしましたわ」
アリザリンが調子よく丁寧に服の端をつまんでペコリと浅いお辞儀する。
見た目よりも子供っぽい気がする。かといってスカーレットも大人かと言われたら頷けないが。