そういえば、この城に入ったら常識でものは考えない方がいいとマリンも言っていた気がする。実際にこの城に来てからというもの、常識では考えられないことをどれだけ見て、そして経験してきただろう。
いや、常識なんてルビーと共に生活していた頃からなかったようなものか。
だって、ルビーにも常識なんてものはなかった。
自分で洗濯もしやしないし、そのくせして洗い物はたんまりと溜め込んで、気が向いたら燃やして捨てる。
ご飯も自分で作れないからお腹が空いたらボクの畑から作物を調理もしないままバリバリムシャムシャ食べる。
遠慮とかもなくて、平気でボクを魔法の実験台にしたり、否応なしにいくつもの呪印も掛けられたりした。
ああ、いまさらだ。常識なんて今のボクにあるわけがない。あのルビーと一緒に生活してきて、どっぷりと頭の先まで非常識に浸かっていたのだから。
進もう。きっと常識はずれな何かが待っているんだろうけれど、考えるまでもない。ルビーもそこにいるんだから。
※ ※ ※
延々と似たような光景の続く、湿っぽい石畳の地下通路を進んでいくと、冷たく光る金属の鉄格子が目に入った。おそらくはこの城の牢屋なのだろう。
ただ、囚人らしき姿は見当たらない。
この国にはさほど悪人がいないということなのだろうか。
しかし、完全に無人というわけではないらしい。人の気配はする。ここからそう遠くない距離で人の声が聞こえる。
荒い息遣い。男の声と女の人の声が入り混じっている。すぐ近くだ。
牢屋の並ぶ廊下、檻を一つ一つと横目に見ていくと、とうとうそれを見つけた。裸の男と、裸の女の人が暗い牢屋の隅で何かをしている。
何をしているのかなんて想像するまでもない。見なかったことにして、違う檻に目を移す。すると似たような光景がそこにはあった。
なんだ、ここは。一体なんなんだ。人がいたかと思ったら、どれも裸の男と裸の女の人の二人ずつが檻の中で息を荒げている。
囚人にしては妙だ。あの檻も、この檻も、二人ずつ。一人しかいない檻がない。
はぁ、はぁ。はぁ、はぁ。気付けば辺りは息遣いがうるさいくらい響いていた。いやにツンとした匂いもただよってくる。これはボクもよく知っている匂いだ。
何をしているのか分かるから、分かりたくなかった。理解したくなかった。どうしてこんなことをしているのか、考えることを頭が拒否していた。
ダメだ、こんなところにいたら頭がおかしくなってしまいそうだ。
足を急かし、突き当たりの角を曲がる。ようやく荒い息遣いが聞こえなくなる。
ふぅと一息、つこうと思ったが、息は吐く前に飲み込んでしまった。
曲がった先、薄暗い通路の先に、人影が見えたから。
暗がりにぼやけた輪郭はとても大きく、ボクの身長なんてゆうに超えている。大きな人影はゆっくりとボクの方へと近づいてくる。
今更怖いものなんてないと思っていたはずなのに両足はすくんだまま、前進も後退もしてくれない。
松明の明かりが照らし、薄暗い人影の正体が見え出す。
「ふん、情けない面だ」
ボクを見下ろすほどの長身で、黒髪の男、ノワール様だった。
「ぁ……、あ……」
第一声が思いつかなかった。足も動くし、声も出せるはずなのに、次に何をしたらいいのか、なんて声を掛けるのが相応しいのか、検討もつかなかった。
何せ相手は一国を丸ごと掌握した大魔導師。誤った言葉でも発したらその場で家畜や虫けらにでも変えられてしまってもおかしくはない。それに何より、ノワール様の表情は眉をひそめて、機嫌が芳しいとは到底思えない。
「どうした、小僧。この俺様に何か用があるのか?」
「……探しているんです」
ひねり出した言葉はそんな一言だった。
そうだ、ノワール様に聞かなくちゃならない。ルビーは何処へいったのか。ルビーはどうなったのか。
この地下にいることは確かで、ノワール様もここにいるということはここの何処かにルビーが必ずいるはずなんだ。それを知りたい。ボクは知りたかった。
「探している、か。貴様の探しているのは紅髪をした魔女か?」
「そうです」
今度は直ぐに言葉が出た。ノワール様の顔を見上げて、はっきりと。
すると、ノワール様は面白くなさそうにクククと低く笑うと、マントを翻す。
「そいつは、この先だ」
緊張の糸をちぎるように、すんなりと求めていた答えが得られた。強ばっていた肩から力が抜けていくようだった。詰まる言葉が喉から出る前に足が先に動いていた。この先にルビーが待っている。それだけ分かれば十分だから。
「ありがとう、ございます」
体が先に動き、言葉が遅れる。早く行かなきゃ。心が糸で引っ張られように急かされる。
「貴様は、あの女をどれだけ知っている?」
背中越しにノワール様の声が突き刺さる。三歩と歩く間もなく振り向き、再びノワール様を見上げる。
その表情は闇に紛れて見えない。何を思っているのかも汲み取れない。
そうだ、ノワール様はルビーの師匠だった。きっとボクなんかよりもずっとルビーのことを知っているのだろう。
それがどういうことを意味するのか。そしてノワール様の言葉はどういう意図を持っているのか。ボクは、なんて答えたらいいのだろう。
「ボクは……あの人のことをよく知りません」
何処で生まれ育ったのか、何時でノワール様と出会ったのか。
そしてノワール様に何を教わり、ノワール様と何があったのか。
どうしてあの森に住むようになったのか。
それどころか、ルビーの本当の名前さえ、知らない。
ボクはルビーのことをよく知らないんだ。でも知っていることがある。
「でも、あの人がびっくりするくらいの大食らいで、そのくせ料理もろくに作れないくらいのものぐさで、いつもいつも自分勝手で、ボクのことだって玩具みたいにしちゃうってことくらいなら、よく、知っていますよ」
ボクが知っているルビーなんて、これが全部だ。
「……よく調教された奴隷だ」
それは褒められているのか貶されているのか、ノワール様の言葉が濁り、何かを含むような言い回しだった。
それは自分の方がもっとルビーのことに詳しいぞ、という意味なのかどうかはさだかではないが、松明が陰る薄闇の向こうにあるノワール様の表情はわずかにくすんだように見えた。