ルビーが寝起きのしばしばした目がパチンと開き、ガバッとベッドから飛び起きると、何故かボクの体が宙に浮いていた。
「逃げるわよ!」
ルビーにボクの体ごと荷物のように脇に抱え込まれていると気づくも、どうしようもなく、振り落とされてはたまらないので、とりあえず大人しくすることにした。
ルビーのこの慌てっぷりはあまり見たことがない。扉を蹴破る勢いで廊下に飛び出し、薄暗い通路を駆け出す。
いつも大して動き回ることもなかったはずなのに、妙に軽快に走り出す。ひょっとすると、何か魔法を使っているのかもしれない。そうでもなければ、ボクを抱え込んだまま走れるほどの体力があるなんてとても信じられない。
タッタッタッタ。
通路を右へ走り、左へ走り、階段上ってはまた走り、どうしてだろう。
まるでこの城のことを熟知しているかのようだ。ボクがここまで来るときはあれだけ入り組んでいて迷いそうだったのに、ルビーは迷いなく正しい道を引き当てる。
ハッと気づいたときには地下を抜けて、明るいお城の広い広い廊下。向こう側に出口の扉も見える。
それにあそこにいるのは、あの見間違いようもない青い髪の女の子は、マリンだ。廊下でキョロキョロしているのがここからでも窺えた。
きっとさっき突然飛び出していったボクを探そうとしているか、あるいは戻ってくるのを待っているのかもしれない。ボクは思わず、廊下の向こうに見えるマリンに声を掛けようとした。
ところが、ルビーは振り向き、逆側に走り、すぐそこの部屋に入る。マリンの姿に気付いていたというわけでもなさそうだ。
そもそもマリンの方を見ていたわけでもなかったし、最初からこの部屋に用があったみたい。
ルビーが飛び込んだ部屋。そこは見るからに物置のようだった。何に使うのかも分からない色々なものがキレイに整頓されていて、結構な広さだ。
しかしやはりルビーは迷うことなく、まるで最初からそれがそこにあることを知っていたかのように向かい、手を伸ばす。
ルビーが手を伸ばしたのは沢山置いてある箒のうちの一つだった。
「じゃ、ちゃんと掴まるのよ」
といいながら箒にルビーはまたがる。そんなこと言われても脇に抱えられているボクにどうしろというのだろうか。
今度はルビーの体ごと宙に浮かび、そのまま部屋の高い位置にあった大きな窓から飛び出していった。
それは嵐のようにあっという間だった。つい今さっきまで城の地下にいたと思ったのに、もう今は城の真上、城下町の上を飛んでいた。
来るときはマリンのよれよれ飛行でなかなか酷いものだったが、打って変わってルビーの箒は結構な速さで、しかもさほど揺れることなくビュンと飛んでいく。
それがどのくらいすごいって、風が冷たいくらいビュンビュン当たり、もう都会がもう遠くに見えて、真下がもう森しか見えないくらいだ。
山を越えて、森を走り、鳥にでもなった気分だ。
よっぽどルビーも慌てているらしい。振り向く余裕もないくらい、ただただ無言で、箒を空に走らせるばかり。
目的の場所に辿り着いたのか、ルビーのまたがる箒は急激に減速し、森の中へと落降りていく。不思議なことに枝も葉も、向こうから避けていくかのように一切触れることなく、何の障害物に邪魔されないまま降りることができた。
森の中に呑み込まれるかのように、ルビーとボクを乗せた箒は進んでいく。
そこからルビーの家に着いたのもすぐのことで、昨晩までのことが、今朝までのことが全部なかったことのよう。
当たり前のようにボクはルビーの家の前に立っていた。
こんなにあっさりと帰ってこれるなんて思ってもみなかったから、今もまだ夢を見ているかのようだった。
「フェル、お腹すいたわ。朝ごはんよろしくね」
などといって、ルビーはまるでさっきの今まで慌てていたことがウソのように、はふぅという溜め息をたった一つついただけで家の中へと入っていく。それはまるでいつものような光景だ。
あれだけのことがあって言うことはそれだけなのだろうか。
しかし、ボクに断るという選択肢はない。というか、もうすでに今朝の朝食の献立を考えている時点でその気しかなかった。
※ ※ ※
「本当に、これでよかったんですか?」
早速朝食のスープを片手で飲み干したルビーに向かって言う。
「ん? 何が」
あっけらかんと答える。
「だって、ご主人様の師匠様だったんでしょう?」
一騒動あったというのに、まるで今にも忘れたくて仕方なかったみたいな態度だ。
「いいのよ、あの人は」
いいわけあるのだろうか。
ボクとしてはマリンにもまともに別れの挨拶もしないまま、立ち去ってしまったものだからちょっぴり心残りもある。まだあの城でボクを探していたらどうしよう。
「お師匠様とは百年も会ってなかったんですよね?」
言っておいて奇妙な響きだ。百年なんて年月、ボクには想像も付かない。
ルビーとノワール様が会ったのは、昨晩のあの時だけだ。あの後、どんなやりとりがあったのだろう。和やかではなかったと思うのだけど。
「アンタとの百年のが、ずっと長かったわ」
ポケーッとした顔でルビーがそう答える。寝ぼけた言葉だったのか、そうじゃなかったのか、それはハッキリとは分からなかった。ただ、ボクにはとても理解のできない言葉だったということだけは確かだ。
「え? それってどういう……?」
思わず聞き返すも、ルビーはそこで言葉を切り、何も答えてはくれなかった。
無言のまま、パンを齧り、空になった皿だけをテーブルに残すと、ルビーは奥の自分の部屋までのそのそと冬眠前の熊みたく戻っていった。
何を言うまでもなく、ボクは食器を片付けて、黙々と雑務をこなすことにした。
たった今朝食に使った皿を洗って、いつも汚れている部屋を掃除して、やたらとたまりほうける洗濯をして、マリンのいなくなった畑いじりをして、この家でまだまだやることは沢山残っている。
というか、昨日の分の仕事がそのまま残っていたことを思い出し、多少なり憂鬱になりかけた。
あのルビーの言う言葉の意味も意図もまるで理解できないけれど、やはりボクには理解する必要はないのだろう。
だって、ボクはただの奴隷。
ルビーというご主人様に仕えるだけの奴隷なのだから。