キッチンで機嫌よく料理をしていた佑は何気なく窓から空を仰いだ。今日も空はよく晴れている。雲一つない紺碧の空を見上げて佑はにっこりと笑った。
広々としたキッチンには静かな弦の音が流れている。佑のリクエストに応えて水輝がバイオリンを弾いているのだ。今日のリクエストはシエラザード。幻想的な物語を描く、抑揚の激しい曲だ。佑はレタスをむく手を止めてこっそりと水輝を振り返った。
ダイニングの椅子に腰掛けた水輝がバイオリンを弾いている様子をしばし見つめてからまた流しに向き直る。今日は暑いから冷たいパスタにしよう。そんな水輝の注文通りに佑は手際よく野菜を切っていった。茹でたてのパスタをボウルに移してオイルを絡める。香りづけに香草を刻んでパスタにまぶし、一回り大きいボウルに氷水を張ってボウルごと冷やす。
ふと、水輝がバイオリンを弾く手を止める。急に曲が止まったことに驚いて佑は目を丸くして振り返った。
「水輝さん?」
「客だ」
ぼそりと告げた水輝にああ、と笑って佑は急いでエプロンで手を拭いた。スリッパを鳴らして玄関に向かう。水輝の言った通り、佑が廊下を急いでいたところでチャイムが鳴った。はあい、と返事してドアを開けたところで佑は仰天して目を見張った。男が傷だらけで立っている。
「こんちはー。今日も暑いっすねえ」
へらへらと笑う男を佑は頭からつま先まで眺め回した。男はアロハシャツに白いズボンを身につけていたのだろうが、そのどちらもがずたずたに裂けている。滲んだ血が服に染み込んでいる様を見つめて佑は顔をしかめた。
「茜さん、その傷……。また無茶なことをされたの?」
恐々と見つめる佑に順がにっこりと笑いかける。
「ええっとねえ。ちょっと水輝ちゃんに用があるんだけど」
そう言って順が首を伸ばして佑の背後を見る。つられて佑は振り返った。いつの間にか水輝が玄関に向かって歩いてきている。いつになく感情の読めない水輝の表情に佑は首を傾げた。
「あなた、それでも木村の当主なんでしょう? お気軽にほいほいうろつきまわるのは、やめたほうがいいと思うわ」
敵だって多いでしょうに。そう続けて佑はほう、とため息を吐いた。いつ見ても順はのらりくらりと遊んでばかりいるような気がする。順はあはは、と笑って頭をかいた。
「ヤだなあ! オレ、そんなに遊んで見える?」
いつものようにへらへらと笑いながら順が言う。もう、とため息を吐いた佑の横に静かに水輝が並ぶ。
「……お前か」
「そうっ。木村順チャンでーす! ちょおっと付き合ってくんない?」
にこにこと笑いながら順が首を傾げる。佑は瞬きをして順と水輝とを見比べた。水輝は何故か酷く硬い表情をしている。
「水輝さん、どうする? 問答無用で追い返すわけにもいかないと思うけど……」
そう告げた佑に順が大仰に驚いた顔をしてみせる。
「えぇっ!? オレ、一人で追い返されたら泣くよ!? 泣きながら地団駄踏んで暴れるよ!?」
まるで子供のようなことを言って順が唇を尖らせる。やれやれとため息を吐いて佑は水輝を伺った。だが水輝の表情はぴくりとも動かない。
「水輝さん?」
佑がそっと呼びかけるとそこで漸く水輝が少しだけ笑った。
「ちょっと……出かけてくる」
そう言って水輝が玄関に降りる。順はそれを待っていたかのように玄関の扉を大きく開けた。ドアの向こうには夏の空が広がっている。
「ごはんまでには帰ってきてね」
にっこりと笑って佑は水輝に手を振った。ああ、と笑って水輝が佑に応えて片手を上げる。じゃあねえ、と明るい声で言った順がぶんぶんと手を振る。子供のような様に苦笑し、佑は二人が玄関の向こうに消えるのを見送った。
二人がいなくなって佑はふと、自分の手を見下ろした。何故かは判らないが不安になる。水輝がこのままどこかに行ってしまうような、そんな気分になる。佑はしばらくじっと手を見つめてから気のせいよね、と首を横に振った。
キッチンの窓の外に見える空が少しずつ曇り始める。佑は料理の手を止めてぼんやりと窓の外の空を見上げた。空の端に生まれた雲がどんどん広がっていく。佑はふと振り返ってダイニングの椅子に置かれたバイオリンを見た。
帰ってくるわよね。そう内心で呟いて佑は料理を再開した。
茜と佑が呼んでいるのは順です。
何とか乗り込みました。