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扇情的な弦の音色に耳を澄ませていた順は苦笑して目を上げた。部屋の中ほどに椅子を引っ張り出し、そこに腰掛けてバイオリンを弾いているのは水輝だ。いつだったか渚が喫茶店で弾いていたシエラザードの旋律に順は笑みを浮かべた。何事かを考えるから、と言ってから水輝はこうしてずっとバイオリンを弾いている。
ついでだから、と呟いて順は腰を上げた。窓際にあった椅子を一脚抱えて水輝の横に静かに据える。閉じていた目を開いた水輝が唇の端を片方だけ吊り上げる。順は手を宙に掲げ、軽く手首を捻った。何もなかった空中に一台のビオラと弓が現れる。よいしょ、と水輝の隣に腰掛けた順はおもむろにビオラを鳴らし始めた。弾きながら時折、調弦をする。
「なーに考えてんのさ。こっちはヒマでヒマで仕方ないんだから、ちょっとはオレにも頭脳労働させてよ」
のんびりとビオラを鳴らしながら順は水輝に話し掛けた。すると水輝がふとバイオリンを弾く手を止める。順は曲の途中で一音を長く弾いて苦笑した。別に邪魔する気はなかったんだけど、と呟いて目で促す。すると水輝はやれやれと肩を竦めて再びバイオリンを弾き始めた。
「別に。ただ、ちょっと」
気乗りしない顔で言ってから水輝が小さく息を吐く。ふうん、と呟いて今度は順がビオラを弾く手を止めた。すると水輝がつられたように弓の動きを止める。
「それよりお前の方は大丈夫か? あの呉羽って女は佑が何とかしてくれてるらしいが」
渋い顔で言って水輝がバイオリンを膝に乗せる。もしかしたら水輝は話し掛けるきっかけを探していたのかも知れない。そんなことを考えつつ、順は弓の先で頭をかいた。
「まあ、今さらねえ。別に当人って訳でもないしさ。それにこんなのはオレの下らない感傷だよ」
あの執事を初めて見た時から順は言いようのない感情を覚えていた。懐かしいものが蘇ると同時に、思い出したくない情景が記憶から引き出される。だが、当の執事はまるで順のことなど知りもしない。木村財閥の当主ということで名前は知っていたかも知れないが、その程度だ。
「桜ちゃんはココにいる限り、手は出してこないっしょ。さすがに姫君の前で殺しはしたくないだろうしねぇ」
まあな、と呟いて水輝が改めてバイオリンを肩と顎の間に挟む。慣れた調子で調弦しつつ水輝がそういえば、と呟く。
「お前、それはどこから持ってきた」
うろんな眼差しで水輝が順の持つビオラを指す。順はあはは、と笑って左手に握ったビオラを少し持ち上げてみせた。
「ちょっと失敬してみました」
おどけて言ってから順はえへ、と笑ってみせた。すると水輝がもの凄く嫌そうに顔を歪める。どうやらとある博物館から引き寄せたのがばれたらしい。
「どうせあっちは夜で誰もいないんだし、こっそり返しとけばいいじゃん」
それに楽器は鳴らしてあげてなんぼよ、と笑って順はビオラを肩に乗せた。ほらほら、と急かすと水輝がため息を吐いて再び曲を弾き始める。次に水輝が弾き始めた曲を聴いて順は眉を寄せた。
「悪趣味だなあ」
思わず呟いた順を横目に見て水輝が人の悪い笑みを浮かべる。もう、とぼやいて順は仕方なく握っていたビオラと弓を元の場所に送った。それからだらしなく身体を伸ばして背もたれに深く寄りかかる。
ほら、と促されて順は肩を竦めて深く息を吸った。バイオリンの伴奏に合わせて歌い始める。懐かしい唱歌を歌いながら順は渋い顔で横目に水輝を見やった。
ずっと昔にこの歌の練習に付き合ったことがある。その時のことを思い出して順は思わず苦笑した。今ではもう、学校の授業でこの歌を習うことは少ないのではないだろうか。そんなことを思いながら順は歌い続けた。優しい旋律を奏でながら水輝が口許に微かな笑みを浮かべ、それを横目に見て取った順はやれやれと内心で呟いた。
水輝が夢魔として紡いでいた優一郎の夢に割り込んだ時、順は見たくないものを夢の形で見せられた。それはかつての友達が順を庇って死ぬ場面だった。命を失いかけた友達は最後まで順の身を案じ、そして願いをある龍神に託して逝った。人の願いを聞き入れた龍神は姿を変え、やがて順の目の前に現れた。だがその時にはもう、順は友達のことをすっかり忘れてしまっていた。
ぼんやりとした目で中空を見つめていた順はふと気配を感じて視線をずらした。いつの間にか誰かが部屋に近づいている。水輝もどうやらそのことに気付いたらしい。順に目配せをする。
ドアが控え目に鳴り、水輝の返答を受けて執事の若い男が姿を現す。深々と礼をした執事はだが、部屋の入り口のところで戸惑ったような表情を浮かべて足を止めたままだ。順は歌うのを止めて立ち上がった。水輝が弦を弾く手を止めてバイオリンを下ろす。
「あの……先ほどの歌は」
「ああ、早春賦って言うんだよ。知らない?」
ざわめく心のうちを押し隠して順はそう言って笑ってみせた。水輝が立ち上がってバイオリンを椅子に置く。順は自分が腰掛けていた椅子を抱えて元の場所に戻した。そんな二人を交互に見つめた執事が困惑した面持ちで目を落とす。
「それで? 用は何だ?」
バイオリンをケースにしまいこみながら水輝が穏やかな口調で訊ねる。すると執事はすみません、と頭を下げた。おやおや、と笑う順と怪訝そうな水輝とを見比べて、また執事が詫びながら頭を下げる。どうやら執事は用があって部屋を訪ねてきた訳ではないらしい。
「歌が聴こえて……その、とても綺麗だったのでつい」
「ちょっと水輝ちゃん」
執事が言いにくそうに告げるのを聞いて、順は眉を寄せて水輝を横目に見た。だが水輝は知らん顔で楽器をケースに戻している。
「まーさか、防音してなかったとか言わないよね?」
幾ら屋敷の敷地が広いとは言っても、生の楽器の音がずっと響いていれば気になる者もあるだろう。しかめ面で言った順ににやにやと笑いながら水輝が肩を竦める。
「まさか。お前、おれを何だと思ってるんだ」
どうやら水輝は一応は音が外に漏れないようにしてはいたらしい。確かにね、と順は呟いた。音が外に流れていればすぐに気付いた筈だ。
「重森。あの歌が気になるなら順に教えてもらったらどうだ?」
人の悪い嗤いを浮かべて水輝が順に顎をしゃくる。冗談じゃない、と反射的に言い返しそうになって順は慌てて口を噤んだ。何故か水輝の言葉を受けた執事が妙に嬉しそうな顔になったのだ。
「教えて頂けるのですか?」
「い、いや、あのね?」
さすがに感情を殺しきれずに順は引きつりながら水輝を見た。だが水輝は相変わらず知らん顔で楽器の手入れを始めている。順は泣きたいような気分になりつつも断ろうとした。
「いいじゃないか。お前、暇だって言ってたろう」
「水輝ちゃあん」
頼むよ、もう。情けない声でそう言ってから順は恐る恐るで執事を見やった。若い割にしっかりとしている、というイメージから一転し、今の執事は年齢相応の表情をしている。嬉しそうな顔をしている執事を邪険にすることがどうしても出来ず、順は泣きそうな顔でもう一度、水輝を呼んだ。
「重森」
水輝は順の声に答えず、変わりに意味ありげな笑みを浮かべて執事を呼んだ。すると執事が恭しく頭を下げる。
「木村様、至らぬ点もあると思いますが宜しくお願い致します」
これがただの執事なら順は特に気にもしなかっただろう。だがこの執事はあの友達にとてもよく似ているのだ。しかも和也という名前まで同一で、まるで仕組まれていたとしか思えない。その上、今の順にはその属性ゆえに魂に刻まれた記憶が微かに見えてしまうのだ。うあ、と情けない声で呟いて順は力なく肩を落とした。
「あー、もう判ったよ。教えりゃいいんでしょ、教えれば」
不服を唱えつつ順は渋々と歩き出した。水輝が何かを企んでいるとは思っていたが、まさかこうなるとは思わなかった。少し後悔をしつつ順は執事のいる部屋の入り口に向かった。振り返って水輝に舌を出してから部屋を出る。すると執事は何も言わないのに大人しく順についてきた。順は深々とため息を吐きながら自分に割り当てられた部屋に向かった。