エロシーンはありません。
龍神と音楽と歌 1
奈月に教えてもらった通りにクッキー生地を練り合わせていた桜はぴたりと手を止めた。テーブルを挟んで向かい合わせに立つ奈月は楽しそうに鼻歌を歌いながら生クリームを泡立てている。
吉良瀬の屋敷の隣に建つ喫茶店は休業中だ。そのキッチンで桜は奈月に菓子作りを教わっているのだ。ちなみに奈月が作っているのはケーキのようで、パウンドを焼く間に飾り付けの準備をしている。銀色の砂のような砂糖菓子や、カラフルな生地で作られた愛らしい人形、スプレー状のチョコレート、砕いたアーモンドなどが小さな密閉容器に入ってずらりと並んでいる。ステンレスの台に並んだそれらの飾り付けを眺めて桜は感嘆のため息を吐いた。今日は奈月も特に気合を入れているのか、普段よりたくさんの材料を引っ張り出している。
「桜さんのほうはどうかしら?」
生クリームの泡立ち具合を確かめながら奈月が言う。桜は慌てて止めていた手をまた動かし始めた。だが言われた通りに生地を練っていてもあの歌はしつこく聴こえて来る。桜は隣の屋敷から微かに聴こえてくる歌に眉を寄せた。
「お上手ですよね?」
不快感に眉を寄せた桜に微笑みを浮かべて奈月が言う。桜はどう答えていいものか判らず無言を保った。いつの間にか手が止まり、歌の聴こえてくる方を向く。
「……龍神は音楽の才に秀でていますから」
だから上手く歌えるのは当然だ。桜は険しい表情で正直に答えた。不快感をいっぱいに表す桜を気遣ったのか、奈月が戸惑ったような顔で言う。
「桜さんは、何が得意ですか?」
「わたくしですか?」
桜は不思議に思いつつも考えを巡らせた。ずっと以前、まだ立城がいた頃のことを思い出して桜はふと表情を緩めた。あの頃は今よりも時の流れが緩やかだった気がする。
「琴でしょうか。……ですが、得手という訳でも」
懐かしいものを思い起こして桜は小声で答えた。あの頃、立城に時折言われて弾いていた覚えがある。だがいざ立城が琴を奏でると桜よりも上手かった。なのに立城は自分ではあまり弾こうとはせず、桜が琴を弾くのを好んでいたようだ。
ずっとあのままで居られたら良かったのに。桜はふと、そんなことを考えてから首を横に振った。いけない。どうやら無意識に歌に引きずられているようだ。桜はため息を吐いてまだ聴こえている歌から出来るだけ意識を逸らした。屋敷から響いているのは順の歌声だ。
「お琴ですか? 凄いですっ!」
泡だて器を強く握りしめて奈月が感心したように頷く。奈月の反応が余りにもストレートで桜はどう返事していいか迷った。上目遣いに見る奈月の目には何かの期待がこもっているように思える。桜は困惑しつつ手元に目を落とした。
「……いえ。わたくしの演奏はそれほど上手いという訳ではありません。それに姫様の方がお似合いかと思いますよ」
にこりと笑って桜はボウルの中のクッキー生地をまとめた。バターがたっぷり入っている生地は、空調が効いているとは言っても柔らかい。
「歌のほうはどうですか? 桜さんの声、よく通りそうだし」
そう言いながら奈月がクリームの入ったボウルを調理台に置く。タイミングよくオーブンが鳴り、パウンド生地が焼けたことを報せてくれる。桜は奈月が言う通りに調理台に網を出した。奈月がオーブンから取り出したケーキの型を網の上に引っくり返す。型から外れたケーキの具合を見て奈月は嬉しそうに微笑んだ。どうやら上手く焼けたらしい。
歌は嫌いだ。桜は奈月の作業を手伝いながら胸の中で呟いた。順の歌はいつの間にか聴こえなくなっている。
「姫様のお声の方が素敵です」
微笑みを浮かべて桜はクッキーの生地を冷蔵庫にしまいこんだ。奈月がクリームの入ったボウルを冷蔵庫にしまってから、冷やしてあったムースを取り出す。固まり具合を確かめてから奈月は小さな型を冷蔵庫に戻した。
「今度、わたしが伴奏しますから、桜さんも歌いましょう」
にっこりと微笑む奈月を見つめ、桜は答えに窮した。だがそんな桜を余所に奈月はとても機嫌良さそうに菓子作りを進めていく。桜は困惑しつつも調理台に戻った。
「姫様はあの男をどう思われますか」
相変わらず微笑を浮かべて作業を続ける奈月に桜はふとそう問い掛けた。すると奈月が不思議そうに手を止める。
「茜さん、ですか?」
「はい」
桜は神妙な面持ちで頷いた。今度は小麦粉を計り始めていた奈月が考えるような顔で天井を見上げる。それから奈月は静かに顔を戻して桜を見つめた。
「水輝さんが認めてらっしゃる方ですから」
にこりと笑う奈月をしばし見つめてから桜はそうですか、と小声で告げた。順は奈月とはほぼ対極にある者だ。それ故、順の所業を目にすれば奈月の心には深い痛みが生まれるのではないだろうか。そう考えてから桜はそっとため息を吐いた。
本当は諸悪の根源である順を消せばいいのではないかと思った。現に強力な魔は生まれてしまっている。だが順を消そうとすれば水輝が絶対に邪魔をするだろう。水と火は対で存在しなければ意味のないものだ。考え込む桜の顔は自然と険しくなった。使った道具を洗いながら思わずため息を吐いてしまう。
「桜さん……?」
そっと声をかけられて桜は我に返った。いつの間にか奈月が心配そうに顔を覗き込んでいる。桜は失礼しました、と詫びて洗い物を再開した。
ふと、またあの歌が聴こえて来る。桜は眉を強く寄せて屋敷の方を見た。歌の聴こえる方角を向いた桜につられたのか、奈月も振り返って同じ方を見る。
「音楽と魔法って似てますよね」
「え?」
意外な言葉を聞いて桜は目を見張った。すると奈月が桜を見て微笑みを浮かべる。桜は咄嗟のことで平静を装うことを忘れていたことに気付き、内心でしまったと呟いた。
音と言葉を数珠のように繋ぐと不思議な力が宿るんだよ。脳裏に蘇った言葉を桜は懸命に心の奥底に封じ込めた。歌に引きずられているのが自覚出来るのに、次々に懐かしいものが蘇ってくる。
エピタイ通りではあるんだけどー!
この辺りから奈月がかなりの無茶をして色々になるのです……(汗)