エロシーンはありません。
「いえ、音楽と魔法を組み合わせる事で、いろいろ素敵なことができるかも」
奈月が嬉しそうに話すのを聞いて桜は思わず声を張った。
「駄目です! そのようなこと、決してあっては」
そこまで叫んで桜は胸の痛みに顔を歪めた。急に叫んだ桜に驚いたのだろう。奈月が目を見張っている。桜は申し訳ありません、と詫びてから息を潜めた。まだ歌は聴こえている。
「桜さん、何か、問題があるのかしら? 歌は言葉と音を織り合わたものだから、悪用すれば危険なのはわかります」
困惑した顔で奈月が言う。桜は痛む胸を押さえて流しの縁を片手でつかんだ。聴こえて来る順の歌に含まれた力に否応なく心を揺すられる。だが奈月は平然としている。恐らく奈月には順の歌にこもった力は効かないのだろう。
「姫様にはこれ以上の力には触れて欲しくないのです」
桜は苦しみを堪えつつ何とかそれだけを告げた。
「わたし自身は何も力を持っていないわ。水輝さんを始めとする、いろいろな方から借りているだけだから」
謙遜する風でもなく奈月が穏やかにそう告げる。確かに奈月の言うことはあながち間違いではない。だが、だから問題なのだ。
桜は苦しさに深々と息を吐いて何とか調理台から離れた。壁際に立てかけてあったパイプ椅子を開いて腰を下ろす。そこでちょうど、順の歌が途切れる。そのことに桜は深い安堵の息を吐いた。
「歌なら青龍王に歌ってもらえばいいだけのこと。もし、姫様がお嫌でないなら、あの赤龍王に頼んでもいいでしょう。ですから」
懸命な面持ちで桜はそう訴えた。奈月がこれ以上の力を得てしまえばどうなるか判らない。
「あの、わたしは歌ってはいけないのですか?」
戸惑ったような顔をする奈月に桜は微かに笑みかけた。少しずつ苦しさが消えていく。
「ただ楽しむために歌うのなら問題はないでしょう。ですが、龍神の奏でる音楽には力が宿ります。そのことをお忘れなきよう」
楽器演奏ならまだいい。だが、歌となると話は違う。そのことは判っていたが桜は奈月に強く言うことが出来なかった。もちろん、奈月の歌にはあの順のような強引な力は宿らないだろう。が、だからと言って無防備に歌を奏でるのも考え物だ。
「力の行使には責任が伴うんですよね」
神妙な面持ちで奈月が頷く。だがそう言いつつも奈月が何事かを呟きながら音階を奏でたり、魔法の力を絡めたりし始める。桜は真っ青になって慌てて首を横に振った。
「だから、駄目です!」
桜は勢いよく立ち上がって奈月の肩を強くつかんだ。だが既に遅い。奈月の発したものはあっという間に壁を越えてどこかに跳んでしまった。蒼白になった桜は急いでその場に使い魔を呼んだ。現れた使い魔に力の行方を追え、と命じる。それから桜は深々と息を吐いて奈月を見つめた。
「姫様……。どうしてそんなに無謀なことをなさるのですか」
「少し試してみただけなのに……ごめんなさい」
半泣きになって詫びる奈月を見つめて桜は小さく息を吐いた。奈月を責めることは出来ない。いけないのは説明出来ない自分なのだ。だが奈月にありのままを話す気にはどうしてもなれないし、桜自身にも判っていないことが多すぎるのだ。
不意に何かが凄まじい勢いで迫ってくる。だがそれは二人のいる喫茶店ではなく、真っ直ぐに吉良瀬の屋敷に向かって行った。反射的に結界を張り巡らせた桜は驚愕に息を飲んだ。少し遅れて先ほどの使い魔が調理場に姿を現す。
「申し訳ありません。余りに足が速すぎて」
跪いてうなだれた使い魔に仕方ないと頷いてから桜は手を軽く振った。深々と一礼した使い魔がその場から消え失せる。
「どうやら問題は回避出来たようですね。意外とあの方も容赦のない……」
素直な感想を呟きながら桜は中断していた洗い物を再開した。だが奈月は呆然とした面持ちで突っ立っている。
「どうして!? 紫さん? いや違うあれは」
蘇芳さんだわ。驚きに目を見張って奈月がそう呟く。桜はため息を吐いて肩を竦めた。
「あれは既に魔に堕ちた者。姫様がお気になさることはありません」
きっぱりと言い切って桜は洗い終えた道具を拭き始めた。最初に見た時から克人は気に入らなかったのだ。
「本当にそうなら水輝さんが既に動いているはずです。きっと、まだ、間に合います」
「何がですか?」
心底不思議に思って桜は問い掛けた。すると奈月が調理台に身を乗り出して懸命な面持ちをする。
不意に奈月が柔らかな声で歌い始める。それを聴いた桜は目を見張って慌てて奈月を止めた。奈月が口ずさんだのはゆりかごの歌だ。桜は真っ青になって奈月に歌うのを止めるように言った。だが頑として奈月は歌うのを止めようとしない。
「何だ。もう子守りの練習か?」
唐突によく知る声が背後から聞こえる。桜は慌てて振り返った。一体、いつの間に入ってきたのか水輝がのんびりと歩いてくる。奈月は歌を終えて泣きそうな顔で水輝を振り返った。水輝は呑気に微笑みを浮かべて奈月に手を差し伸べる。それを待っていたように奈月は水輝の胸に飛び込んだ。
「どうした? 桜に苛められたか?」
まさか、と桜は水輝に言い返した。だが水輝の耳には桜の声は入らなかったのか優しく奈月の頭を撫でている。
「あの、もしかして、翠さんが、もうすぐ?」
「そう。佑はベッドにスタンバイ中だ。奈月も良かったら手伝ってくれ」
まるで何事もなかったかのような笑みを浮かべて水輝が言う。すると奈月はぱっと顔を輝かせた。
「はいっ!」
こうしちゃ居られない、とばかりに奈月がもの凄い勢いで調理場を駆け出す。すっかり忘れ去られた菓子の飾り付けを見つめて桜はため息を吐いた。呑気に微笑んで奈月を見送った水輝が険しい表情になって桜を見る。
「……迂闊なことを半端に口走るな。阿呆が」
忌々しさのこもった言い方に桜は不快感を露わにして水輝を睨んだ。元はと言えば水輝が奈月に対して中途半端な態度を取っているのがいけないのだ。桜は放り出された道具や菓子の飾りつけの材料を片付けながらそう告げた。
「守護者なら守護者らしくきっちり守れ。こっちはこっちでいっぱいいっぱいなんだよ」
馬鹿が、と憎々しそうに呟いて水輝が踵を返す。確かにその態度にはいつもの余裕は感じられない。だがそれはこちらも同じ事、と桜は呟いた。
「いいからお前は奈月の言う通りにしてろ。きっと色々と買い物を言いつけられるぞ」
そう言ってから水輝は漸く顔に浮かべた険しい表情を緩めた。怪訝に思って首を傾げた桜に皮肉な笑いを浮かべて水輝がその場から唐突に姿を消す。今ひとつ納得出来ないものを感じつつも桜は屋敷に戻った。
奈月が慌ただしく屋敷の中を駆けている。産湯だタオルだと準備に走る奈月に桜は控え目に声をかけた。すると奈月がエプロンから大きながま口の財布を取り出す。
「桜さん、こちらにメモしたものを買ってきていただけませんか!?」
「はあ……」
財布と共に渡された紙を見下ろして桜は絶句した。いつの間にこんなに書いたのか、渡された紙にはずらずらと品物の名が連なっている。ベビーベッドにベビーバス、おむつにミルクにその他諸々、乳幼児に必要な品物がずらりと並んでいる。桜はそれを見つめて頬を引きつらせた。生まれてくるのは龍神であって、人の子ではない。だがそう言おうとして桜が顔を上げた時、その場に既に奈月はいなくなっていた。桜は仕方なく財布とメモを持って屋敷を出た。
奈月は割とフリーダムなのです。
水輝と良い勝負ですかね!w