エピタイの「ゆう」という文字が平仮名なのはわざとです。
後々、色々とアレなことになるのです……。
エロシーンはありません。
ゆう、がんばって産む 1
たらいを抱えて部屋に入ってきた奈月を見た佑は絶句して目を見張った。よいしょ、という可愛い声をかけて奈月がたらいをテーブルに床に置く。紅の結界に平然と入ってきた奈月はにこりと佑に笑みかけた。倒れてしまった呉羽は今は三人の犬が床に別に敷いた布団の上で介抱している最中だ。
「あ、あの!? 奈月、さん?」
佑は戸惑いつつも奈月に声をかけた。奈月は丁寧に二つ折りにしたガーゼをたらいにかけている。
「お身体の調子はどうですか?」
腰を上げた奈月がにこやかな笑みを浮かべてベッドに歩み寄る。姿形はいつもと同じ奈月なのに、雰囲気がこれまでとまるで違う。そのことに佑は唖然としてベッドの中から奈月を見上げた。
「奈月さんのほうこそ、どうされたのですか? 水輝さんや桜さんは?」
順の作り上げた紅の結界は、外敵を強力に弾き返す力を持っているが、同時に中にいる者には外の様子が見えないのだ。それ故に佑は奈月がこの輪の中に入ってくるまで異変に気付けなかった。
奈月の纏う雰囲気が酷く透明度を増している。
「わたし? わたしは別に何もありません。桜さんにはお買い物に行っていただきました。水輝さんはいろいろと苦しんでいらっしゃるようでしたけど……」
そう言って奈月が唇を噛む。佑は驚きに目を見張って奈月を凝視した。
「わたしこれまで、水輝さんに護られて何も知らずに来たって事に気づいたんです。ずっと我慢してきたって、おっしゃってました。自分が至らないのはわかってましたけど、水輝さんの枷になっていたなんて……」
そう続けて奈月が悲しそうに顔を歪める。佑は奈月の言葉を聞いて酷く混乱した。これまで水輝は奈月が枷になっているなどとひと言も口にした事はない。一体、何がどうしてそういうことになっているのだろう。
「わたしは渚お姉さまのように、強くは生きられません。いえ、もともと生きてさえいない存在だったわたしに命を吹き込んだのは水輝さんだったんですから」
ベッドの傍に佇んで奈月が訥々と語る。そんな奈月に犬の一人が静かに椅子を運んできた。どうぞ、と勧められるままに奈月が腰掛ける。
「ありがとうございます」
「いいえ」
にっこりと礼を言った奈月に笑顔で答えて犬が静かに頭を下げる。再び呉羽の傍に戻った犬を目で追ってから佑は額を押さえた。どうやら奈月は水輝と会話をしたらしい、ということは判る。
「世界の礎、という存在をご存知ですか?」
懸命に考えを巡らせていた佑はほぼ反射的に首を横に振った。
「わたしはそうならなければならない存在だったはずなんです。あの、博士の論文とか、そのあたりに詳しい方、他にいませんか?」
言葉の意味通りなら礎とは物事の基礎、またはその人のことを指す。家屋や橋などの柱の下に据える土台の石のこともそう呼ぶが、この場合は違うだろう。佑は眉を寄せて考えを巡らせた。
「僕が知る限りの文書には、無かったと思います。宇田川さん……はダメだ。姉さんなら、あるいは」
そこまで言って佑はまじまじと奈月を見た。本当に水輝はそんなことを奈月に言ったのだろうか。だとすると水輝はもう奈月を必要ないと思っているのだろうか。そこまで考えて佑はあり得ない、と自分の考えを胸中で否定した。確かに水輝は奈月はこれから今までとは違う存在になる、とは言っていた。だがそれはあくまでも水輝の腕の中での話なのではないのか。
「あの、奈月さん。あなたはいったい何を考えてらっしゃるんですか?」
困惑しつつ佑はそう訊ねた。椅子に腰掛けて俯いて何事かを呟いていた奈月が顔を上げて微かに笑む。
「わたしがこれから進むべき道についてです」
そう言った奈月の顔には透き通った笑みが浮かんでいる。佑はしばし奈月を見つめてから額を押さえた。混乱したからなのだろうか。酷く頭が重い。
「それを水輝さんに相談したのですね? 水輝さんはなんとおっしゃったのですか?」
出来るだけ痛みがないように佑は奈月の方に顔を傾けた。どうやら奈月のこの独特の光は犬達には少々強すぎるらしい。何も命じなくても犬たちは独自に周辺に結界を張っている。呉羽もその中にいるから大丈夫だろう。
「お前が選んだ道だ。おれが言うことは何もない。と」
奈月がにっこりと笑う。佑はしばし唖然と奈月を見つめてから目を細めた。奈月がまさか嘘を吐いているとは思えない。だが水輝は本当にそんなことを奈月に言ったのだろうか。これまでならお前はおれのものだ、と主張していたのではないか。いや、現に水輝は佑や渚にはそれが当り前だという態度でいたのだ。
「あの、本当に水輝さんはそうおっしゃったんですか?」
奈月を疑う訳ではないが、佑はそう訊かずにはおれなかった。
「はい。龍神に成ってから、わたしはわたしなりにずっと努力してきたつもりでした。一人で立って、水輝さんと対等にお互いを支えあえる存在になろうと。でも……」
哀しそうに目を伏せて奈月が言葉を途切れさせる。佑は無意識に額から離した手を自分の腹部に乗せた。さっき感じた頭の重さは段々と鈍くなってきている。
「無理でした。わたしには水輝さんがすべてで、水輝さんを中心にしか考えられないということが判っただけでした」
確かに奈月には水輝が全てなのだろう。少なくとも立城が奈月を作った時点ではそうなっていた筈だ。だが佑は強い違和感も覚えていた。奈月の言葉に嘘は感じられない。となると、水輝は本当に奈月が言う通りに言ったということになる。一体どうなっているのだろう、と心の中で呟いて佑は首を傾げた。
「奈月さん、もう一度、水輝さんと話し合ってきたらどうですか? 何か、誤解があるような気がします」
確信はないが、そんな気がする。佑は無意識に腹を押さえる手に力をこめた。何故かは知らないが徐々に腹が苦しくなっているような気がするのだ。
「だめです。佑さんの傍にいるようにと、そう水輝さんは仰いましたから」
真面目な顔で言って奈月が首を横に振る。佑は困惑しつつも僅かに顔を歪めた。間違いない。徐々に腹は苦しくなってきている。
「えっと、水輝さんが、おれが言う事は何も無いと仰ったのは確かだとして、その後、なんと答えられたのですか?」
佑は苦しさを堪えつつ、少し早口で奈月に問うた。すると奈月が何故か頬を染める。
「えっと、あの、その……」
口ごもる奈月の頬は見る間に真っ赤になった。
「……それでも水輝さんを愛してますって」
そう言いました。消え入りそうな声で言って奈月が赤い顔を俯ける。佑は苦しさも忘れて唖然と奈月を見た。もじもじとエプロンの裾を指でいじりながら奈月は恥ずかしそうに俯いている。そんな奈月を見る佑もつられて頬を染めた。
「……それで、水輝さんは何と?」
慌てて気を取り直して佑はそう訊ねた。すると奈月がのろのろと顔を上げる。
「とにかく、佑さんの傍についているようにと、そう、おっしゃいました」
にっこりと笑った奈月はいつの間にか元の顔色に戻っていた。そこで佑の中で何かがはちきれた。目を伏せてシーツを力任せに握りしめた佑に奈月が気遣うように大丈夫かと声をかける。
「奈月さん。水輝さんを、呼んで来てください」
申し訳有りませんけど、僕はこの結界から出られないので。目を開けた佑はまるで表情のない顔で静かに告げた。すると奈月が困惑した顔で佑と結界とを見比べる。
「駄目です! 水輝さんは、佑さんの傍についているようにって、確かにおっしゃいましたから!」
きっぱりと言って奈月が首を横に振る。佑は俯いて歯を食いしばり、苦しさの増している腹を震える手で押さえた。どうやら胎の中で珠が変化をしつつあるらしい。だがそれを余所に佑はじりじりと顔を上げた。
年越しはこの話になるか、次の話になる……かも知れません。
十八章+ちょっとで終わりなのですが、今年中に終わるかどうか、という感じです。
よろしくお願いします<(_ _)>