エロシーンはありません。
「これで……だいじょう……ぶ」
その場に崩れ落ちた奈月を桜は慌てて横から支えた。だから危険だと言ったのだ。そう小声で言った桜を困ったような顔で奈月が見る。街ごとの浄化、と一口に言ってもそんなに簡単なものではない。しかもその根源であるあの二人の歪みはただ事ではなかったのだ。
ゆらりと立ち上がった紫が腕に克人を抱える。意識をなくして脱力した克人を愛しそうに見つめて紫は歩き出した。
「七分くらいを……目標にしてみました。これで……ぴったりだと思ったんですけど?」
どうですか? 乱れた息を吐きながら奈月が言う。桜は呆れた顔で力なく首を振った。
「そういうことではないでしょう。姫様、わたくしの身にもなってください。心配することしか出来ないのですよ?」
ため息を吐いてやれやれと首を振った桜はさりげなく視線を動かした。紫は俯いてゆっくりと歩いてくる。やがて紫は奈月の前で足を止めた。
「……相変わらず傲慢ですね」
静かな声でそう告げて紫が感情のない目で奈月を見下す。
「紫さん! 違います、わたしは……」
泣きそうな顔で奈月が言う。だがそんな奈月に紫はにっこりと笑みかけた。氷のような冷えた笑みに桜の背に冷たいものが伝う。反射的に身構えた桜を一瞥してから紫は奈月に目を向けた。
「誰が戻してくれと言いましたか。わたしの子供達を嬲って楽しいですか?」
淡々と告げて紫が背後を振り返る。だがそこにはもう、蟲は影も形もない。
「あの虫たちは、あなたの子ではありません。元の場所に戻っただけです」
懸命な表情で奈月が訴える。だが紫はそんな奈月を鼻で笑った。
「わたしの胎から出たものがどうしてわたしの子供じゃないんですか?」
そう告げて紫が愛しさのこもった目で克人を見つめる。それから紫はゆっくりと顔を上げてああ、と笑った。
「あなたには産めないのだから母の気持ちが判る筈がありませんね」
くすりと笑ってからお気の毒に、と紫が言う。桜は反射的に紫に殴りかかりそうになった。だがそんな桜を奈月が懸命に押し留める。
「紫さん。大丈夫です。あなたの胎としての役は戻っています。龍神の子を為すことができます」
「……本格的に判っていないみたいですね」
真剣な面持ちで告げた奈月に呟くように言って紫は疲れたようにため息を吐いた。
「そして相変わらず人の話も聞いていない。まあ、あなたにとってわたしなど取るに足らない虫けらようなものでしょうから構いませんが」
すらすらと告げてから紫は肩を竦めてみせた。余りにも平然としているために紫の言っているのが本心なのか、それとも厭味なのか判別しにくい。桜は不快感に眉を寄せて紫を睨みつけた。
「そんなこと、ありません。とるに足らない存在なのは、わたしのほうです」
「わたしにとってはそうですね。あなたなどいなくなってしまえばいいのにと何度か思いました」
きっぱりと応えて紫は静かに奈月を見下ろした。やはりその目には感情の類は浮かんでいない。
「紫さんの言うとおり、わたしは子を為すことができません。そして、わたしは他人の心の痛みを理解できない欠けた存在です」
桜が憤るのを押し留めて奈月が告げる。それは告解のようだった。奈月はまるで祈りを捧げるかのように胸の前で手を組み合わせている。紫はそんな奈月を冷ややかな目で見下している。本来の座位から考えると立場は逆のはずだ。言いようのない不快感に顔を歪めて桜は紫を睨み据えた。
「そうですね。どれだけ水輝に愛されていようと、あなたは水輝の子を産むことは出来ません。人の心の痛みが判らないのは人形だからでしょう? それがなにか?」
くすりと笑って紫が首を傾げる。
「だから、本当に取るに足らない存在だから、わたしなんか気にする必要無いんです!」
「誤解しないで下さい」
奈月が懸命に訴えた直後、紫はぴしゃりとそう吐き捨てた。
「わたしが気にしていたのは水輝に愛されているあなたではなく、あなたを愛していた水輝です。何故、わたしがあなたのような人形を気にする必要があるのですか」
淡々と応えて紫が疲れたようにため息を吐く。
「水輝さんの元に戻ってきてくださるんですね?」
急に嬉しそうに奈月が言う。だがそんな奈月を呆れたように紫は見下ろした。嫌な予感を覚えて止めようとした桜より早く、紫が言う。
「そしてまたわたしに針のむしろに座れとあなたは本気で言うのですか」
それが傲慢なんですよ、と続けて紫はまるで汚いものでも見るかのような目で奈月を見下げた。ついでのように桜も同じ目で見てから紫が力なく首を振る。
「紫さんは、水輝さんを愛してらっしゃるのでしょう?」
何かを求めるような目で紫を見つめて奈月が訊ねる。そんな奈月を見てから紫は周囲を見回した。すっかり瘴気の消えた廃墟を哀しそうに見つめてから奈月に目を戻す。
「いいえ。わたしはもう水輝のことは愛していません」
静かに告げて紫は微かに笑った。優しく抱きしめた克人に愛しそうな視線を注ぎながら、紫はまるで歌うように告げた。
「とても幸せだったんです。あなたに言わせればわたしはおかしくなっていたのかも知れませんが、愛されていることを実感していましたから」
まるで子供を入れたゆりかごのように腕を揺すりながら紫が優しい笑みを浮かべる。
「茜さんを愛してらっしゃるんですか?」
戸惑いの表情で奈月が告げる。そんな奈月を見もせずに紫は吐き捨てた。
「……あなたはわたしの幸せを踏み潰したんです。たかが歪みという理由だけで」
歪みを祓われて初めて紫の目に暗い感情が灯る。憎しみの目をして紫は奈月を一瞥した。
「この世界の者でない虫たちを引き寄せる行為を、看過ごすわけにはいきませんでしたから」
ごめんなさい。消え入りそうな声で詫びた奈月を睨むように見つめて紫がため息を吐く。
「それはあなたの道理でしょう」
やれやれとでも言いたげな顔をして紫は踵を返した。奈月と桜に背を向けた紫が静かに告げる。
「もう、あなたに会うこともないでしょう。さようなら」
崩れた瓦礫の折り重なる方に向かって紫が歩き出す。
「でも、克人さんを救うためには、あなたから歪みを祓ってその力を使うしかなかったんです。だから! ……いえ、確かに傲慢ですね」
尻すぼみに告げて奈月が自嘲する。桜はうなだれた奈月を宥めるようにそっと肩に手を乗せた。紫は振り返りもせずに闇の深い方へと歩いて行く。やがて紫の背中が小さくなり、見えなくなる。桜は最後まで紫を見送ってから奈月を支えて立ち上がった。
「わたし……わたしは……」
「帰りましょう、姫様」
桜は控え目な声で奈月を促した。力なく佇んだ奈月がぼんやりと紫の消えた方を見つめる。どこかに転移したのだろう。既に紫の気配はこの辺りにはない。
「桜さん……」
涙を浮かべた奈月が桜に抱きつく。桜は慌てて周囲を見回した。桜の胸に顔を埋めて奈月は泣きじゃくっている。
「あ、あの、姫様? ええと、そのですね。出来ればお屋敷に戻った方が……」
ここは冷えますから、と言おうとして桜は今が夏であることに気付き慌てて口をつぐんだ。
「ごめんなさい。桜さん」
つい甘えてしまって。健気に涙を拭きながら奈月が小声で言う。桜はいいえ、と慌てて首を横に振ってからハンカチを差し出した。しきりに顔を手で拭う奈月の頬にそっとハンカチをあてがう。
「あっ、甘えられるのは一向に構わないというか、大歓迎なのですが、いえわたくしは何を言ってるんでしょう」
動揺の余りに桜は自分でも理解不能なことを口走った。ハンカチで涙を拭っていた奈月が不思議そうに桜を見つめる。
「桜さん、それでは戻りましょう」
「は、はい」
ぎこちなく返事して桜は差し出された奈月の手を握った。
奈月には実は嫉妬するという機能がありません。
ですので紫の気持ちは永遠に判らないと思います。
すれ違ってしまうのはそういう理由なのです。
……最後に桜がテンパってますw