エロシーンはありません。
あれから翠は度々、姿を消す。授乳の時間や眠りの時間を外したほんの束の間に翠は一体どこに行っているのだろう。そして翠は姿を消すたびに成長しているのだ。佑の言った通り、今ではもうはいはいも軽々とこなしている。つかまり立ちをするようになったのはつい昨日の話だ。
「多輝さんって、おもしろい泳ぎ方するんですね」
海の方を見て奈月がにっこりと笑う。たーすーけーてー、と水面に派手な水飛沫を上げて多輝がもがいている。その傍で浮き輪を抱いて笑っているのは使い魔だ。どうやらわざと多輝から浮き輪を取り上げて遊んでいるらしい。
「蒼がついてるなら、大丈夫でしょう」
きっと。そう呟いてから佑が神妙な面持ちで多分、と付け足す。桜は不思議に思いながら暴れている多輝を指差した。
「あそこは足が届くのではありませんか?」
多輝の傍の使い魔は平然として立っている。水面はその使い魔の腰より少し上辺りなのだ。
「龍神らしくないところが多輝の良いところだし」
うんうんと佑が頷く。桜は静かな目で多輝をじっと見つめてからぽつりと言った。
「それ以前の問題なのでは」
ちなみにあの一件の後、数日経ってから多輝は由梨佳と共に屋敷に戻ってきた。どうやら多輝の機体が故障し、その修理に手間取ったらしい。そのことを後で知った佑は神妙な顔をしていた。なんでも影でこっそりと由梨佳に小言を言われたという噂だ。
ヒューマノイドと言えば、ヒューマノイド御殿と密かに呼ばれる吉良瀬トータルソリューションを仕切る渚もそろそろ元気になってきたらしい。水輝にダメージを食らって落ち込んでいたのだという話を桜も後で聞いた。そんな渚があれだけ美しかった髪をばっさりと切ってしまった時、水輝がやけにがっかりしていたのが印象的だった。落ち込むくらいなら最初から嵌めなければいいものを、と言った桜に水輝はその時だけは珍しく反論しなかった。ちなみに祐も元気になってきているようだ。
「重森さんも来れば良かったのにね」
翠の服を脱がせながら佑がぽつりと言う。桜は目を細めて海を見やった。
扇を貸し与えた執事の和也は見事に魔を撃退してみせた。だが扇を渡した桜にその算段があった訳ではない。少なくともあの扇は通常の人間が簡単に扱えるものではなかった。桜はあれをお守り代わりのつもりで和也に貸したのだ。
事が片付いた後、和也は唐突に修行の旅に出ると言い出した。その時に和也は扇を桜に返そうとした。だがそんな和也を止めたのは意外にも水輝だった。どうせお前には必要なくなるんだから、いっそのことくれてやれ。しばし桜は水輝ともめることになったが、結局は仕方なく扇を和也に譲ることにした。
あれは何者なのだろう。ぼんやりと考えながら桜は黙って海を見つめた。漸く足が届くことに気付いたのか、多輝が使い魔を殴って浮き輪を奪い返している。遠目に見える多輝たちから桜は目を移した。バケツをぶら下げた順がのんびりとこちらに向かって歩いている。水輝は海際で何かしているらしい。順と一緒ではない。
「そういえば、姉さんから桜さんの身体を診たいって話を聞いてるんだけど」
ふと、佑がそんなことを言う。桜はぎくりと身を竦めて恐る恐る奈月を見た。だが奈月はにこにこと笑って海際にいる水輝を見つめている。
「い、いえ、あの、それは」
「ういー。おまたへー」
呑気に言いながら順がパラソルの下に戻ってくる。順はビニールプールの傍にしゃがみ込んでバケツに汲んだ海水を静かに注ぎ始めた。裸でプールに座っていた翠が嬉しそうに水を手のひらで叩く。
「奈月さんなら、大丈夫。僕がきちんと護るから。その身体はヒューマノイドは違う意味で最新科学の結晶だから。一度ちゃんと姉さんに診てもらったほうがいい」
翠の頭を撫でる佑の目はとても優しい。以前から佑は優しい笑みを浮かべてはいたが、翠が生まれてからその傾向は強くなっているような気がする。
「い、いえ、そういう意味では……」
あれから桜は奈月に一週間の暇を貰い、約束通りに透の許を訪れた。その時のことを思い出して桜は俯いた。その時のことを知る者はこの中にはいない。……いや、もしかしたら順辺りには情報が漏れている可能性もあるが、きっと順はそのことを自分からは口にしないだろう。
「ほへ。足りないなあ。もっかい汲んでくるか」
プールに水を注ぎ終えた順がよいしょ、と腰を上げてまた海に向かっていく。桜はほっと息を吐いて何気なく目を上げた。するとそこで何故か人の悪い笑みを浮かべている佑と目が合ってしまう。
「桜さんって潔癖性ってイメージあったけど、最近変わったよね?」
そう言って佑がにっこりと笑う。桜はうっ、と詰まって唇を引き結んだ。佑に頭を撫でられながら翠は上機嫌で水を叩いている。その飛沫を顔に被りながら桜は頬を引きつらせた。
「こっ、こうしてはいられません! 姫様! わたくしたちも泳ぎに参りましょう!」
ざっ、と立ち上がって桜はこぶしを握りしめた。のんびりと水輝を眺めていた奈月が不思議そうに桜を見る。
「桜、あの時の言葉はしっかり聞いたから」
覚えていてね。そう言って佑がにっこりと笑って桜を見上げる。桜はだらだらと冷や汗をかきながら恐る恐る佑を見下ろした。
「奈月ー! 蟹がいたぞ! 蟹が!」
大声で言いながら水輝がばけつを抱えて砂浜を走ってくる。奈月はぱっと表情を輝かせて水輝に駆け寄った。
「きみは奈月さんの騎士でしょう? 僕に構っている暇なんかないでしょう?」
砂浜に据えたばけつを奈月は水輝と嬉しそうに覗き込んでいる。桜は引きつりながらその光景を見つめていた。桜の足元にしゃがみ込んだ佑は淡々と言いながら微笑んでいる。桜はぎこちなく首を動かして佑を見つめた。
「どうしたの、桜? 僕の顔に何か付いてる?」
「わたくし、泳いで参ります!」
そう言い放って桜は慌ただしくその場を駆け出した。ばけつをぶら下げてのんびりと歩いていた順の脇をもの凄い勢いで走り抜け、素足のままで連なるテトラポットの上を全力疾走する。テトラポットの海岸からとう! と海に飛び込んだ桜は全身を激しく水面で打ちつけた。ぷかぷかと大の字で海に浮かぶ桜を唖然としたように多輝と使い魔が見ていた。
*********
夕暮れに赤く染まる海岸に二人の長い影が伸びている。
「あー」
幼子のような声を漏らして克人が砂をつつく。砂山を登っていた小さな蟹が慌てたようにルートを変えて克人の指を避けて行く。そんな蟹を見つめて克人ははしゃいだ声を上げた。
「これはね。やどかり」
穏やかな笑みを浮かべ、克人と向き合ってしゃがみ込んでいた紫がそっとやどかりを砂山に乗せる。最初は殻に閉じこもっていたやどかりが、やがてのろのろと動き始める。
「やー……か?」
舌足らずに紫の言うことを真似て克人が首を傾げる。そう、と微笑んで紫は優しく克人の頭を撫でた。克人は嬉しそうに笑って何度もやどかりの名前を口にしようとする。だが克人が発した言葉ははっきりとした単語にはなっていない。
浅利。蛤。ゆっくりと言葉を紡ぎながら紫は小さなばけつから取り上げた貝を克人の前に置いた。克人が物珍しそうに貝を指先でつつく。
「まぁま」
しばし砂山で遊んでから克人が両腕を紫に伸ばす。紫は静かに腰を上げて克人を抱き上げた。遊び疲れたのか紫に抱えられた克人はとろんとした眠そうな目を擦っている。だがそれも片方だけだ。焼け爛れてしまった克人の肌は元には戻っていたが、右目はなくなったままだ。
「おうちに帰ろうね」
「うー」
目を閉じて克人が頷く。それからほどなく克人は紫の腕の中で安らかな寝息を立て始めた。眠ってしまった克人を抱えて紫は静かに歩き出した。長く伸びた二人の影が砂浜に揺れる。やがて誰もいなくなった海岸には穏やかな波が打ち寄せていた。
了
ここまで読んで下さった方々、ありがとうございました!
この後で蛇足的なキャラ紹介などをつけるかな、と思います。たぶん。