のんびりと新聞に目を通していた順はおや、と目を見張った。見知った気配が屋敷に近づいている。順は間延びした声でメイドを呼んだ。順の部屋を掃除していたメイドがはい、と返事して近づいてくる。順はサングラス越しにメイドに笑みかけて客が来る旨を伝えた。掃除を中断したメイドが畏まりました、と行儀のいい返事をして部屋を出て行く。
二人分の紅茶が入り、焼きたてのパイが皿に盛られたところでタイミングよく玄関の呼び鈴が鳴った。順はのんびりと玄関に面した階段の手すりにもたれて肘杖をついた。呼び鈴に応じたのは執事だ。執事が扉を恭しく開けるとそこには斎姫が立っていた。
「やっほー。どしたの? わざわざこんなとこまで来てさ」
清陵と木村の本邸のあるこの場所はかなり離れている。電車を乗り継いでも一時間以上かかる距離だ。順はひらひらと斎姫に手を振っていつものだらしない笑みを浮かべた。執事に案内されて階段を上がってきた斎姫が丁寧に頭を下げる。
顔を上げた斎姫を見て順は驚きに目を見張った。斎姫の頬には涙が伝っている。
「ど、どったの?」
順は恐々と斎姫に訊ね、とにかくこっちに、と応接室に斎姫を案内した。待ち構えていたメイドが二人の前に茶と菓子を置いて応接室を出る。順はそれを見送ってから斎姫に向き直った。
「なんでもありません。失礼しました」
淡々と言って斎姫がハンカチで涙を拭く。順はそう、と呟くように答えてティカップを取り上げた。まあどうぞ、と斎姫に茶と菓子を勧める。
「いただきます……。あれっ?」
茶に手を伸ばそうとしたところで斎姫の目にまた涙が浮かぶ。どうやら斎姫にも涙が流れる理由が判らないらしい。あー、と苦笑して順は手を伸ばした。ちょっとごめんね、と笑って順は斎姫の頭に手を乗せた。驚いたように目を見張った斎姫はまだ泣いている。順は斎姫の内部にある様々な力の流れを読んでから微かに目を細めた。どうやら斎姫の中で泣いているのは都子の思惟の欠片らしい。
「心配しなくてもだいじょぶよん。オレはけっこーお気楽にやってるから」
それだけ言って順は手を離した。するとぴたりと斎姫の涙が止まる。
「もうしわけありませんでした。今日は、蘇芳克人さんのことでお話に参りました」
涙を拭いた斎姫が丁寧に頭を下げる。ほいほい、と気軽に答えて順は紅茶を啜った。続いて焼きたてのパイにフォークを入れる。順は幾層にも分かれたパイ生地を器用に切り分けた。
「蘇芳さんからは、このような書類が提出されています。しかし、必要事項が記載されていませんし、そもそも保護者であるあなたがご承知のうえなのかどうかさえ不明な状況です」
鞄から取り出した封筒を斎姫が差し出す。ふうん、と呟いて順は封筒の中身をあらためた。入っていたのは一枚の書類だ。退学届けねえ、と笑って順は書類を目の高さにかざした。
「オレは知らなかったというか……こないだまでぶっ倒れてたしねえ」
だらしない笑みを浮かべて順は書類を封筒に戻した。二人の間にあるテーブルに封筒を乗せたところで順は斎姫ににっこりと笑いかけた。
「何なら克人呼ぼうか? 今の時間なら多少、手が空いてるだろうし」
紫は今は眠っている最中だ。壁の時計を見上げて順は斎姫にそう申し出た。
「いえ。保護者のあなたが知らなかったのでしたら、この書類は無効です。きちんと学校に登校するようにお伝えください」
「なに。克人に会いたくないの?」
小さく笑って順は斎姫に訊ねた。紅茶を飲んでいた斎姫が目を細めてカップをテーブルに戻す。
「今日のところはご遠慮しておきます」
にっこりと笑った斎姫に順は気軽にそう、と答えた。パイを切り分けて口に運び、甘さを紅茶で流してから順は斎姫に向き直った。
「もしかしてここに来た理由ってそれだけ?」
眉を寄せて訊ねつつ順はテーブルの封筒を何気なく見つめた。
「一度、お顔は拝見したいと思っていましたけど……。そうですね」
「あ、そー」
間延びした返事をしてから順はソファに寄りかかった。サングラスを押し上げつつさりげなく右の瞼に触れる。どうやら克人はいま、紫の隣で眠りについているらしい。実際に今の克人は学校に通えるかどうかも怪しい状況だ。何しろ紫がいつ目覚めていつ起きるか、それは誰にも判らないのだ。ある程度は薬物で調整が可能だが、頻繁に使う訳にもいかないだろう。何しろ紫の胎には克人の植え付けた卵があるのだ。
「時期的にもちょうど夏休み前ですし、とりあえず、通常の欠席ということで処理しますがよろしいでしょうか?」
事務的な口調で言う斎姫に順はだらしない笑みを浮かべて軽く頷いた。どちらにしろ、学校に行くか行かないかは克人の決めることだ。問題を保留にしておいた方がいいだろう。そう判断して順は気軽に笑った。
「おっけーおっけー。んでも、行けるかどうか判んないよぉ? 忙しいしね、カレ」
そう言って順は残っていた紅茶を飲み干した。ポットから二杯目を注いでまたカップを取り上げる。
今回の件は意外にもあっさりとけりがついた。被害と言えば清陵高校の校舎等が多少壊れた程度で済んでいる。これも水輝が優一郎に的を絞っていたお陰だろう。それに紫は望み通り手に入っている。水輝や順の負った怪我は事の動きを考えれば少ない方だ。
「最終的な判断は夏休み後ということでかまいませんから」
「そいえばさあ」
まだ事務的な口調のままの斎姫に順はのんびりと話を振った。
「斎姫ちゃんってさあ。その……ちょっと前の一件の時さあ」
熱い紅茶を啜って目を細める。順は片方だけ残った左の眼でじっと斎姫を見つめた。斎姫の周りを取り巻いている空気はとても清浄で、傍にいるだけで痛いくらいだ。
「なんでしょう?」
にこやかに斎姫が笑む。しばしその笑みを見つめてから順は苦笑した。やっぱいいや、と肩を竦めて紅茶を啜る。今さら話を蒸し返したところで失ったものが戻ってくる訳ではない。それに例え戻ってきたところで、やはり自分は同じ事を繰り返す。そんなことを考えながら順はごく自然に世間話を斎姫に振った。
用が済んだからと斎姫が立ち上がったのは、来訪から三十分ほどが経った時だった。送らせるから、と順は斎姫と共に屋敷の玄関に向かった。ここから清陵まではかなり離れている。
「はい、お土産ね。それと、何か途中であったら遠慮なく運転手に言ってね」
大きな自家用車の後部席に乗り込んだ斎姫に順は菓子の詰まった箱を手渡した。調理人たちの作った焼き菓子が中に入っているのだ。
「いただきます。わざわざ、ありがとうございました」
もう日暮れが近い。太陽は随分と西に傾き、暑さも若干は和らいでいる。順は丁寧に会釈をした斎姫にいいよ、と笑って手を振った。運転手が恭しく礼をして後部席のドアを閉める。走り出した車の中でまた会釈をした斎姫に手を振り、順はしばしぼんやりと庭先に立っていた。車が道に出て見えなくなる。
「なーにしてんだかなあ、オレも」
ごくささやかな声で呟いてから順はシャツから煙草を抜いた。送るなら一気に清陵に転移しても良かったのに。順は煙草を咥えながら頭をかき、ゆらりとその場を離れた。
この話だけだとイミフかも……と思います(汗)