エロシーンはありません。
自分の部屋に戻ろうとしたところで桜はふと気配に振り返った。いつの間にか背後に佑が立っている。
「こんばんは。ちょっとお邪魔していいかしら?」
にこやかな笑みを浮かべた佑を桜は少しの間、無言で見つめた。それからため息を吐いて部屋のドアを開ける。どうぞ、と言って桜は自分の部屋に入って明かりを灯した。空調のスイッチを入れてソファに佑を促す。佑はこれから眠るつもりだったのか、パジャマに身を包んでいる。桜はクロゼットから薄手のカーディガンを取り出して佑に差し出した。
「ありがとう」
笑顔で礼を言った佑が素直にカーディガンを羽織る。桜は黙って佑の腰掛けるソファの正面に回った。テーブルを挟んで腰を下ろしてから目を上げる。
「本末転倒ですね。佑様はバランスというものをお考えになっておられないのですか」
目を細めて桜は佑の頭からつま先までを眺めた。佑の胎の珠は順調に成長しつつある。だがそのスピードがかなり速いのだ。
「この子にはこれくらいの力は順当よ。それだけの存在だもの」
「青龍王との交渉で足りないのであれば、他から吸収すれば良いだけの事。何故、わざわざ青龍王一人に絞るのです?」
眉を寄せて桜は腕を組み合わせた。佑は下腹を撫でながら愛しそうにその部分を見つめている。
「この子がそれを望んでいるからよ」
にっこりと笑って佑が顔を上げる。桜は深々とため息を吐いて片手をゆらりと上げた。手の上に力を現して指でそれを佑に弾く。戸惑った面持ちをした佑の胸に桜の力は音もなく吸い込まれた。
「だからそれが本末転倒だと申し上げているのです。母体が倒れてしまっては意味がありません」
桜の編んだのは佑を癒す力だ。柔らかな桜色の力が佑の身体に浸透していくのが桜の目にもはっきりと見て取れた。
「ありがとう」
そっと囁くように礼を言って佑が微笑を浮かべる。桜は深々とため息を吐いて肩を竦めた。
「青龍王は佑様との交わりの際に我を忘れるのでしょう。ですから青龍王に責任があるとは言いません。が、危険だということはお判りになっていらっしゃいますか?」
すらすらと言って桜は部屋のベルを鳴らしてメイドを呼んだ。先ほど、水輝の部屋で見かけた少女がすぐに部屋に来る。二人分のホットミルクを頼んでから桜は佑に向き直った。
「わかっているわ。でも、この子のためには必要なことだから……。リスクはあってもやりとげなければいけないの」
「分不相応な自己犠牲はただの自己欺瞞に過ぎません」
眉を強く寄せて桜はすらりと言い返した。するとほんの少し佑が顔をしかめる。ほどなく頼んだ二人分のホットミルクが運ばれてくる。桜はメイドに礼を言ってからマグカップを取り上げた。慌ただしく頭を下げたメイドが部屋を出て行く。
「分不相応……。そうね。そうなのかもしれないわ」
しみじみと呟いて佑が自分の前に置かれたマグカップを取る。熱いミルクを冷ましながら啜って桜は顔を上げた。
「紫様が事態を遅らせた件は佑様には関わりのない事。本来、その珠を生み出すのにリスクはない筈。何ゆえ、それほど急がれるのですか」
ほんのりと甘いミルクは寝る前に飲むのには丁度いいだろう。そう思って頼んだのが良かったのかも知れない。ホットミルクを啜る佑の表情は先ほどまでよりは少し落ち着いている。
「急いでいるわけではないのよ。わたしはこの子を早く産むために力を注いでいるわけではないわ」
少しだけ笑って佑が桜を見つめる。桜はしばし無言で佑を眺めた。佑の纏っている空気はとても清浄だ。透き通っていてまるで曇りがない。が、それはおかしいのだ。例え誓約者と言えど、生きている限りは周りの者に影響される。なのに佑にはそれが一切ない。通常ではあり得ない清浄さなのだ。
月を現す奈月は、その光を鏡面に映すという性質がら、まとう空気も澄んでいる。が、その奈月より佑の周りの気配が澄んでいるということは通常ではあり得ない。桜はまじまじと佑を見つめてからため息を吐いた。
「……正直なところ、わたくしは誓約の力が好きではありません」
呻くように言ってから桜は言葉を継いだ。
「何故、疑問に思わないのですか。どうして、無条件に己が身を差し出すのです。佑様に得るものなどないではありませんか」
いつだったか同じ質問をしたような気がする。だがそれでも桜は言わずにおれなかった。
「結局のところ、ただの自己満足よ」
カップを両手に包んで佑が小さく笑う。その笑みはとても儚く見える。桜は目を細めてミルクを啜った。
「あなたも同じ事を仰るのですね」
だから許せ、と言われた。すまないと苦笑していた。かつての主のことを思い出して桜は顔を曇らせた。
「きっと、あなたも同じような返答をせざるを得ない質問が、あると思うわよ」
「姫様についてのご質問は受けられません。どのみち、あなた方とは意見のすり合わせが出来るとは思っておりませんから」
流れるような口調で答えて桜はカップを見下ろした。半分ほど残ったミルクの表面は白く、ほんのりと温かな空気が昇っている。
「もう、強制するつもりはないわ。ただ、もしもの時に、呼べばいつでも宝珠は応える状態にあるということだけは知っておいてちょうだい」
苦笑して告げた佑を上目遣いに見てから桜は手元に目を戻した。もしもの時、と呟いてみる。だが恐らく奈月に危険が迫ったとして、もしも桜が何らかの事情で倒れたとしても恐らくは水輝が護るだろう。桜は小さく笑って顔を上げた。
「ご心配には及びません。わたくしはたかが個。気に留めていただく必要のないただの使い魔です」
にっこりと笑って桜は言った。
「それでは、さっきは本当にありがとう。実はわたし、あなたを押し倒して無理矢理蜜をもらうつもりだったのよ」
手間が省けてよかったわ。そう続けて佑が苦笑する。桜は不思議に思って首を傾げた。
「何のためにです?」
治療のためなら口頭で伝えればいいだけの話だ。頼まれれば見返りなど求めず力を使うだろう。桜は佑にそう説明した。
「変なところで使い魔的なのね」
苦笑して佑が首を傾ける。桜はしばし黙してからああ、と呟いた。
「次に生まれるのは地上の王たる紫翠龍ではありませんよ?」
桜は真っ直ぐに佑を見つめてそう告げた。
「わかっているわ。だからこそ、あなたが今ここにいるのだから」
「わたくしはただの使い魔ですと申し上げているのに」
眉を寄せてため息を吐いてから桜は首を力なく振ってみせた。佑が困ったような顔で桜を見つめる。桜は少しの間を置いてから佑に告げた。
今年は9月も暑いのでバテバテです(泣)
あ、急にリアルの話ですみません。