※この作品はR-18です。

もしグリフィスが女だったら   作:葛轍偲刳

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【原作単行本6巻『合戦』~『キャスカ』より分岐】


(★)生理中のキャスカの代わりに前線に出てガッツと二人きりになったら

 冷たい激流が体を押し流す。

 このところの長雨で川が増水しているせいだ。長引く戦のせいで山から大量の木材が切り出され、禿げ山になったところも少なくない。山野からは保水力が失われ、戦禍と略奪、軍から逃げ出した兵隊崩れの盗賊どもの跋扈によって農村は荒れ果て、さらに度重なる重税と兵役のせいで民は疲弊しきっている。

 オレの予想では、あと数年もこの状況が続けば大規模な地崩れや疾病の流行が連鎖し、国が傾くことは避けられなくなる。その前に国を立て直さなければならないが、今のままでは無理だろう。

 

 この国の貴族はもとより、統治機構の頂点たるはずの王族すら国の末端の現実が見えていないのだから。

 

 冷え切った水の流れは、幾ら手足を動かし藻掻き足掻こうとも事態を動かすには全くの無力で、ただただ押し流される他にない人の脆弱さと残酷な現実の無情さを暗示しているかのようだった。

 

「……っ!」

 

 違う。

 オレは違う。

 無力で愚かで何もしない、何も出来ない他の連中と、オレは違う。

 

 オレは、オレの国を手に入れる。

 

 そこにどんな障害が待ち受けようと、それを取り除くためにどんな手を使おうと、その先に何があろうとも、そこに至るまで何を失おうとも。絶対に。

 胸に滾る怒りと、それ以上の昏い激情を糧にしてオレは水の中で体を動かす。

 

「っ!?」

 

 腰に回る太い腕の感触。

 暗く濁った視界の中に、黒い影が見える。

 オレの腰を抱いて、背中に手を回して、離れまいとするように強く引き寄せる力を感じる。

 

 知っている。この腕の持ち主の名前を。オレは。

 

「…ッツ」

 

 唇から漏れた微かな声は気泡と共に激流の中に押し流され、そして消えていった。

 

■□■□■□■□■

【Phase-001】

 

「グリフィスと、ガッツが…!?」

 

 本陣で知らせを受けたキャスカは頭痛と眩暈を堪えるように首を強く振った。

 

「ああ、崖下に落ちたそうだ。この雨で川も増水しているし、あの二人のことだ。絶対に生きてる。けれど、無傷でいるかどうかはわからない。早く捜索隊を出さないと…」

 

 兜の面頬を跳ね上げたジュドーの進言に、しかし周囲の軍監役の貴族達が余計な口を差し挟む。

 

「キャスカ千人長。グリフィス団長が不在の今、貴女が鷹の団の指揮官です。そして鷹の団はグリフィス団長の私兵ではなく、あくまで国王陛下からお預かりしている大事な国の戦力。まして、今は国の一大事ともいうべき遠征の最中。それを無駄に割くことは許されませんぞ」

「左様。たった今ジュドー千人長が言われたばかりではありませんか。名にし負う鷹の団の団長と切り込み隊長の二人が揃っていて、何を恐れる必要がありましょう。きっと無事でおりますとも」

「それより、今は崩れた敵の追撃こそが肝要。これは好機です。ここで逃げ散る敵を見逃しては後の災いを招きましょうぞ」

 

 褐色の頬を僅かに青ざめさせたキャスカは苛立ちのあまり怒鳴りつけようとして、あえて自分を抑えるように深呼吸をした。

 

『キャスカ、顔色が悪いぞ。今日は前線に出ない方がいい』

 

 今朝方にグリフィスと交わした会話が頭をよぎる。

 

『大丈夫だ、グリフィス。別に何ともない』

『嘘をつくな。オレも女だ。お前の体のことぐらい見ればわかる。…月のものが来ているんだろう?』

 

 周囲に聞こえないよう、小声で囁いたグリフィスの声は図星を突いていた。とっさに何も言い返せずに黙り込むキャスカの耳に、グリフィスは優しいほどの声で続けた。

 

『血が足りていないんだろう。そんなフラフラな体で前線に出ても、すぐに体力を使い果たして倒れるぞ。自分だけじゃない。部下や仲間まで危険に晒すのか?』

『……』

『幸い、今日の敵はさほど多くない。強敵というほど名の知れた部隊も来ていない。広範囲に展開したこちらの部隊に対応するために無闇に戦線を伸ばし過ぎてるせいで、チューダーも人手不足らしいな。おそらく、ここの拠点を潰せば戦線を整理するために一度ドルドレイ要塞に撤退するしかなくなるだろう』

『だけど、だったらグリフィスがわざわざ前線にまで出る必要は…!』

『たまにはオレも前線で剣を振らないと、戦い方を忘れてしまいそうだ。ここ最近はつまらない舞踏会への招待だの、発情期の犬みたいに鼻息の荒い貴族様との社交だのと、下らない雑事のあれこれが続いていたからな』

 

 傾国の美女と見紛うほどの美貌で、気安い男言葉で語るグリフィスの声は優しかった。

 自分は気を遣われている。それがわかる。わかってしまうからこそ、キャスカは何も言えなくなる。

 

『…わかった』

『キャスカは事前の作戦通りに部隊を動かしてくれればいい。どうせガッツは勝手に動くだろうが、隣でオレが手綱を握っておくよ。そうすれば、あまり無茶はしないはずだ』

 

 グリフィスは、確かにそう言っていた。

 なのに、よりにもよってガッツと二人で行方不明になるだなんて。

 胸中の不安と焦燥を無理矢理に憤懣と鬱憤へと変換し、帰ってきたら自分の気が済むまで長々と説教してやると心に決める。

 

「ジュドー、今すぐコルカスとリッケルトを本陣に呼び戻せ。ピピンには周辺の警戒と見張りの歩哨を立てるよう伝えろ。ここに臨時の陣幕を張る。もうすぐ日も暮れる。野営の準備と捜索隊の編制を同時にやるぞ」

「キャスカ千人長!」

 

 口々に叱責の声を上げる貴族どもにも構わず、キャスカは鋭い目で睨み返した。

 

「何と言われようと、あの二人は鷹の団になくてはならない存在です。捜索は何を差し置いても優先されるべきと判断しました。お叱りは後で幾らでも受けましょう。今は急ぎますので、失礼」

 

 手綱を握って馬首を返したキャスカを追いかけるジュドーは、口元に微かな苦笑を浮かべていた。

 

「なあ、グリフィスだけじゃなくて、ガッツも『鷹の団になくてはならない』のか?」

「うるさい。今の状況でグリフィスだけを探して、あの馬鹿は見つけなくてもいい、なんて口にできるわけないだろう。仕方なく、だ」

 

 早口で言い返すキャスカの答えに、ジュドーは肩を竦めて再び苦笑した。

 

■□■□■□■□■

【Phase-002】

 

 増水した川縁の泥混じりの柔らかい土を、分厚い手袋をはめた大きな手が掴む。泥水に汚れるのも構わず指先を土に食い込ませ、盛大に水飛沫を辺りに跳ね上げながら二人分の体が川から這い上がった。

 

「…ブハァッ…!」

「ゲホッ、ゴホッ…!」

 

 川の水を大量に飲んでしまったせいで、肺にまで入った冷たい水をむせるように咳き込んで吐き出す。

 

「ああ、クソ…ッ! 鎧を身に着けたまま増水した川で泳ぐなんて二度と御免だ」

「…全く同感だ。オレも二度とやりたくないな。重いし寒いし、何より疲れる」

 

 川縁にへたりこむように座り込みながら、肩を大きく上下させる二人は荒い息の下で囁くように言い合う。

 冷水に体温を奪われて血の気の失った互いの顔には、重い疲労の翳りがまとわりついている。

 

「どこまで流された? ここはどの辺りだ?」

「わからん。あまり遠くまで流されていないといいが…」

 

 早くも日が暮れ始めて辺りに薄闇が落ち始めている中、頭上を見上げても崖上の様子はモヤがかかっていてよく見えない。

 

「あの高さから落ちたのだとすると、生きていただけでも運が良かったな」

「馬鹿を言え。こんなところで死んでたまるか。…怪我は?」

 

 重い兜を脱いで、グリフィスが頬や首に絡みついた波打つ銀髪を振り乱して重い水気を払う。

 

「…ああ、まあ、何とかな」

 

 が、どこか含むようなガッツの答えに、顔を跳ね上げる。

 

「おい、誤魔化すな」

「誤魔化してなんかいねぇよ。怪我はねぇ。…お前のおかげでな」

 

 羞恥とも悔悟ともつかぬ感情に唇を噛んだガッツに、グリフィスは微笑んだ。

 

「先にオレを庇ったのはお前だろう?」

「いや、あれは…とっさに体が勝手に動いただけだ」

「そうか?」

 

 周囲を見回し、岩壁に穿たれた窪みのように小さな洞穴を見つけた二人は降り続ける雨から避難する。

 

「あー、青鯨…、何とか騎士団だったか?」

「その団長とか言うアド…何だったか、コボル…何とかと名乗っていた馬鹿がいたな。名門だかなんだか知らないが、どっちにしても名前を覚える価値すらない道化者だろう」

 

 純白の甲冑を身につけたグリフィスは悪天候の戦場にあっても非常に目立つ。チューダー帝国の兵にとっては手柄を立てる絶好の機会に見えるのだろう。そうやって火に誘われる羽虫の如く寄ってきた連中を粗方ガッツが一蹴し、残敵をグリフィスの指揮で刈り取っていくだけの簡単な作戦だった。

 問題は、馬にまで甲冑を着せた重装甲の騎兵が数十、数百の単位で無秩序に逃げ惑えば、ただでさえ長雨で緩んでいた崖上の地盤にとっては崩落の恐れがあったということだ。

 背筋を凍らせるような低い地鳴りを耳にしたグリフィスが咄嗟に避難を周囲に呼びかけたのは指揮官として当然のことだったが、そのせいで余計に混乱した敵兵が走り回ったせいで戦場が無秩序に荒れてしまったのは事実だ。

 

 さすがに鷹の団でもグリフィス直属の兵達は精鋭で、即座に混乱から立ち直ったが、部下達の手綱を握るためにガッツもグリフィスも残りの敵から注意を逸らしてしまったのは結果として失敗だった。

 ガッツに一蹴された敵の指揮官が隠し持っていた弩でグリフィスを狙い撃ったのに気付き、すぐにトドメを刺さなかった己の失態に気付いたガッツがグリフィスを庇ったのも当然の成り行きだったが、そこで二人の馬が崩落の前兆となる地割れに足をとられたのは不運としか言い様がない。

 とっさにグリフィスが剣で矢を弾いたのも、自分を庇ったガッツに傷を負わせるわけにはいかなかったのだから、これも当然だった。ただ、そのせいで体勢を立て直す最後の機会を失ってしまったのも事実。

 

 結果として、二人は落馬の勢いのままもつれ合うように崖の上から川に転落してしまった。

 

「他の連中も無事だといいんだが」

「問題はないだろう。近くにはジュドーもいたはずだし、お前のところのガストンもいる。あの二人なら兵を纏めるのも難しくはない」

 

 濡れて体に張り付いた鎧を苦労しつつ脱ぎ、冷え切った服を脱いで水気を絞る。

 血の気を失った二人の唇からは白い吐息が漏れ、夜闇に包まれつつある辺りが急速に気温を低下させていることを示していた。

 

「出来れば火を焚きたいが…、そういうわけにもいかねぇよな」

「ああ、味方も捜索の手を出してくれているかもしれないが、今の状態では敵に見つかると、さすがに厳しいな」

 

 疲労し、冷え切った体では思うように手足を動かせない。悴んだ指では剣も握れない。この状況で敵と戦うのは単なる愚行だと二人ともわかっている。今はとにかく体を休め、少しでも体力を回復させるのが何よりも重要だった。

 

「…となると、他に手はねぇか」

 

 口の中で噛み潰した苦虫を吐き捨てるように低く呟くガッツは、ガシガシと頭を掻き毟った。

 その様子を横目で見ているグリフィスは失笑未満の表情で笑いを噛み殺している。

 

「他に選択の余地はないだろう?」

 

 小さく何度も舌打ちするガッツの体に、服を脱いだ全裸のグリフィスが寄り添った。

 

「そう嫌がるな。お前が誰かに触れられるのを嫌っているのは知っている」

「…わかってるなら、わざわざ口にするなよ」

 

 具体的に何があったかは知らないし、訊く必要も無いことを尋ねてガッツの心の古傷を抉るつもりもない。

 ただ、とっくに女を知っていてもおかしくはない年齢で、その気になれば娼婦の一人や二人を買うことも簡単なはずのガッツが、今も周囲に他人を寄せ付けずにいるのは何か事情があるのだろうと察するのは簡単だった。

 

 雨に濡れて冷え切った二人の体が、ぴったりと密着する。

 

 雪のように白く、染み一つない美しい女の体。豊満な胸の膨らみと括れた腰。白桃を思わせる円やかな臀部からスラリと伸びた脚。

 少なくともガッツが知る限りにおいて、これより美しい女は見たことがない。娼婦にでもなれば王都ウィンダムどころか大陸中にその名を知られる売れっ子にでもなれるだろう。富裕な平民どころか、貴族や王族の中でも特に金と力を持ち合わせた一握りの連中しか相手にされないような。

 わざわざ危険な戦場になど出ずとも、その気になれば一生を安楽に過ごすことも容易いだろう。だが、グリフィスがそれをしない理由もわかっている。

 

『オレは、オレの国を手に入れる』

 

 平民では、娼婦では、決して叶わぬ途方もない夢物語。それを叶えるために、グリフィスは――。

 

「…ガッツ。起きているか?」

「…眠れるわけがねぇだろうが」

 

 抱き合う二人は抜き身の剣を今も手元に置いたままだった。いつ敵に見つかるかもわからぬ状況で安眠できるほど警戒心を失ってはいない。

 

「そうか。最近はずっと忙しかったから、お前と二人きりで話すのも久しぶりのような気がしてな」

「……」

 

 その前にグリフィスと二人きりで話したのはいつだったか。

 わざわざ記憶を辿るまでもない。あの王族の血を引くとかいう偉ぶった高慢な貴族様を暗殺しろと言われた時だろう。

 別に後悔はしていない。やれ暗殺だの汚れ仕事だのと言われたところで、元々が殺し殺されの商売が傭兵稼業というものだ。相手の事情や素性は問題ではない。何より、最初にグリフィスを殺そうとしてきたのは向こうが先だ。

 殺した相手の子供に見つかったのも自分の失態で、見つかってしまったからには目撃者の口を封じるのも当然のことで。殺したくなかったのなら最初から暗殺の仕事など引き受けるべきではなかったし、見られてしまった自分の手落ちを棚に上げて殺したことを悔いるなど筋違いも甚だしい。

 

「…ガッツ。お前、オレに何か言いたいことがあるんじゃないか?」

「ねぇよ、そんなもん」

 

 だから、グリフィスの気遣いはお門違いだ。ただ――。

 

「それなら、オレにも誰にも言わずに、できれば口にせずには済ませたいと思いつつも、勝手に自分の心の中ではこうすると決めていることがあるんじゃないか?」

 

 無言のまま、心臓が一拍跳ねた。

 

「…図星か」

 

 ガッツの胸板の上で平たく潰れるほどに強く乳房を押しつけているグリフィスは、吐息のように微かな声で囁いた。

 

「昔からそうだ。お前はオレにも誰にも相談せず、自分勝手に一人で決めて何かをしでかす。それがお前にとって大切なことであればあるほど、そうだ。いつかの一騎駆けの時もそうだった。お前が一人で突出していなければ、攻めてきていた敵の勢いをいなしきれずに鷹の団には被害が出ていたかもしれない。…今度は何だ? お前は何をしようとしている?」

 

 無言で目を逸らしたガッツの横顔を上目遣いに見上げたグリフィスは、その頬に唇を押しつけた。

 

「…おい」

「吐け、ガッツ。言わないと、次は唇を奪うぞ」

「やめろ。そんなことをしてもオレは言わない」

「だったら、次の宴の席で皆の前で口付けしてやる」

 

 グリフィスほどの美女に口付けしてもらえるとなれば泣いて喜ぶ男が大半だろうが、ガッツは心の底から嫌そうな顔になった。

 鷹の団の面々の前でそんなことをされたら、この先ずっと囃し立てられ、弄られ、事あるごとに蒸し返されて酒の肴にされるのは目に見えている。

 

「だから、言え。唇だけでは足りないか? だったら、次の野営の時にでもお前の寝床に夜這いでもしてやろうか?」

 

 思わず口元が引き攣った。行軍中の野営ともなれば、陣営の周囲には常に見張りの歩哨が複数いるのが当たり前だ。すぐに誰かに気付かれる。夜が明ける頃には何があったか鷹の団の全員が知ることになるだろう。

 

「お前、脅迫するにしても最悪だぞ」

「それが嫌なら今すぐ白状しろ」

 

 蒼く冷たい目に射竦められて、ガッツは思わず悪態を漏らした。それから深々と息を吐いて、天を仰ぐ。生憎と、視界に入るのは重苦しい雨雲どころか狭苦しく低い洞穴の岩肌だけだったが。

 

「…ったら」

「なんだ?」

「…この遠征が終わったら、の話だ」

 

 顎を前に突き出すようにして頑なに上を向いたまま、ガッツが呟く。

 

 この遠征はミッドランド王国にとって、百年の長きにわたる戦争を終わらせるための乾坤一擲の大博打にも等しい。最終目標である難攻不落のドルドレイ要塞を陥とすために国軍の大半を投入し、その兵站を維持するためだけに乏しい余力をさらに磨り減らしている。

 今も主力である白虎騎士団が要塞正面に展開してはいるが、おそらく攻略は失敗するだろう。要塞そのものの堅牢さに加え、チューダー帝国全軍においても屈指の精鋭と名高い紫犀聖騎士団を筆頭に二万もの大軍が駐留し、その指揮官は帝国最強とまで謳われる猛将ボスコーン。これを正攻法で攻略するのは、今のミッドランドではほとんど不可能だ。

 グリフィスの胸中に腹案がないわけではないが、今それを口にしたところで足の引っ張り合いが大好きな貴族どもの横槍が入るのは目に見えている。

 

「もし、この遠征が終わって、その後始末も無事に片付いたら…」

「片付いたら?」

 

 ガッツの胴に腕を回したグリフィスの手に力が篭もる。

 

「――…オレは、鷹の団を抜けようと思う」

 

 今にも雨音に掻き消されそうなほど小さく、ひっそりと、ガッツの囁きが吐息と共に白く、細く流れて、消えた。

 

「……」

「……」

 

 互いに何も言わず、ただ重い沈黙だけが落ちていた。

 あまりに長い沈黙に、もしや聞こえなかったのかと万が一を考えて目を落としたガッツは、すぐさまそれを後悔した。

 視線だけで相手を睨み殺せそうなほど鋭く冷ややかな眼差しで、グリフィスの目が瞬きもせずガッツを凝視し続けていたからだ。

 

「…すまねぇ」

 

 その詫び言は、よりにもよってこんな大事な時期に切り出す話題ではないこともあったし、何よりグリフィスの信頼を裏切る不義理であるとガッツ自身が誰よりも自覚していたためでもあった。

 だが、その心からの一言は、そうであるがゆえに酒の酔いに任せた冗談や軽口でもなければ本音を隠す誤魔化しでも何でも無い、ガッツの本心であると裏付けるものでもあった。

 

「鷹の団を…オレを、捨てていくつもりか」

 

 無論、ガッツにそんなつもりはない。そんな簡単に捨てられるようなものなら、話はもっと簡単だった。

 

「お前にそう思われても仕方ねぇのは、わかる。わかるが、…そんな気はねぇよ」

 

 もう何度目かになる深い溜め息を漏らして、再び頭を掻き毟る。

 

「どこの馬の骨とも知れねえ根無し草の風来坊だったオレを、鷹の団の連中は迎え入れてくれた。お前はオレの居場所を作ってくれた。ずっと一人だったオレが、生まれて初めて居心地の良さってヤツを味わえた。…感謝してる」

「なら、何故だ?」

 

 ずっとオレの傍にいればいい。オレがお前の居場所になってやる。オレの隣がお前のいるべき場所だ。

 無言で訴えかけるようなグリフィスの目を、それでも真っ直ぐに見返す。

 

「…このままずっと、今のまま、この先もずっと、剣を振る理由をお前に預けちまったままでいいのか。そう思ったんだ」

「それの何がいけない?」

 

 即座に問いを返してくるグリフィスの目は冷ややかなままで、口先の誤魔化しもはぐらかしも許さない。

 

「お前はオレのものだ。お前の剣も、お前の命も、お前の全てをオレは腕ずくで勝ち取った。あの時の言葉を忘れたか?」

「忘れてねぇよ。もし、もう一度、あの時みてぇに勝負で決着をつけろって言うんなら、その時はそうしてやるさ」

 

 少なくとも今はそうしていられるような状況ではないと、お互いにわかっているからこその言葉だった。

 

「本気か」

「ああ。…だから、言いたくなかったんだよ」

 

 一度でも口にしてしまえば引っ込みがつかなくなる。グリフィスにだって、今の時点で無駄な不安要素を抱え込ませて無闇に負担を増やすことはガッツの本意ではない。全てが終わってから、誰にも言わずに黙ってひっそりと姿を消すつもりだった。いなくなった後で誰に何を言われようが、それは自業自得で仕方のないことだ。

 

「…ダメだ」

 

 ポツリとグリフィスが呟く。

 

「ダメだ。行かせない。許さない。行くな、ガッツ」

 

 抱き締める腕にも力が入る。激情が、憤激が、グリフィスの頬に血の気を通わせる。赤みを帯びた白い肌には熱い血が巡り、強靭な意志をそのまま映し出したような瞳が、どこか困ったように眉を寄せるガッツの顔を映している。

 

「…お前がそこまで言ってくれるのは嬉しいさ。正直、どうしてオレにそこまで言ってくれるのかもわからねぇし、本当にありがたいとも思う。けど…これはもう、決めたことなんだ」

 

 ハッキリと言い切るガッツの言葉には、どうあっても動かしがたい決意が感じられた。赤く色づいた唇を噛みしめたグリフィスは顔をガッツの胸板に伏せると、白い肩を震わせてしばらく言葉を失っていた。どれくらいの時間が過ぎただろう。やがて、グリフィスは小さく呟いた。

 

「お前が、そこまで言うなら…どうあっても考えを変えるつもりがないと言うなら、オレにも考えがあるぞ」

 

 不吉な予感にガッツの背筋を悪寒が駆け抜けた。おもむろに顔を上げたグリフィスの美貌に艶を添える妖しい笑みは、どこか戦場で敵兵の首を剣で刎ね飛ばす時のそれにも似た凄みがあった。ガッツの頬を冷や汗が伝い落ちる。

 

「待て、グリフィス。ちょっと待てよ、おい」

「今ここで、お前の子を孕んでやる。身重のオレと、腹の中の子供を置き捨てても鷹の団を抜けられると思っているのか?」

「……あ?」

 

 思考が止まる。文字通りに言葉を失くして口をパクつかせるガッツが正気を取り戻す前に、グリフィスはさらに畳み掛ける。

 

「それでも足りないというなら…そうだな、キャスカもけしかけてやる。二人も女を孕ませておいて一人で逃げるとなれば、鷹の団の全員がお前を地の果てまでも追いかけるぞ」

「だから待てって、冗談にしても笑えねえぞ、おい」

「これが冗談を言っている顔に見えるか?」

 

 全くそうは見えないからこそ、逆にガッツは言葉に詰まる。グリフィスに剣を向けられることまでは覚悟していた。最悪、裏切り者として殺される可能性も考えなかったわけではない。だが、これは完全に予想外だ。いや、グリフィスなら本当にやりかねない。やりかねないからこそ怖いのだが。

 

 そして、往々にして間の悪い時には都合の悪いことが重なるもので。

 

「…なんだ、ガッツ。お前も実はそのつもりだったんじゃないか」

「いや、これは違っ…」

 

 甘く、どこか切なげですらあるグリフィスの囁きにガッツの額には脂汗までもが浮き出る。

 

 いま現在、二人がまさに命の危機にあるのは事実で。

 そして目の前には、自分の子を孕みたいと口にしている極上の牝が無防備な裸を晒していて。

 ガッツが健康で生命力の旺盛な若い牡である以上、生存本能に根ざした生理的な反応の帰結として、その生殖器が反応を見せるのは何ら不思議なことではない。

 

 ないが、だからと言って素直に肉体の欲求に身を任せられるかと言えば別の話だ。

 

「誤解するな、グリフィス。オレはそんなつもりは…」

「肝心のお前の体は、そうは言ってないぞ?」

 

 グリフィスの股間が、充血し始めたガッツの生殖器を優しく撫でるように擦りつけられる。

 それだけでもゾクリと背筋に痺れるような甘い電流が走り抜け、歯を食いしばって堪えようとしても体は勝手に反応してしまう。

 

「いいんだぞ、ガッツ。お前の全てがオレのものであるように、オレの全てをお前のものにしても」

 

 妖艶な、ひどく甘ったるい囁きが蠱惑的にガッツの脳を揺さぶる。

 ヌルリとした粘り気と潤みを帯びた牝の肉孔のとば口が、己の意思とは無関係に膨れ上がった先端に触れている。その気になれば、あと少しだけ自分で腰を浮かせればいいだけだ。

 

「なあ、ガッツ。どこにも行くな。お前はずっとオレの傍にいて、ずっとオレだけを見ていればいい。オレはお前を見捨てない。オレがお前を連れて行ってやる。オレやお前のような傭兵を見下し、蔑み、使い捨てにしてきた貴族どもを跪かせ、平伏させてやる。その時、オレの隣にはお前が立てばいい」

 

 誘惑とも、懇願ともつかぬ声と共に、グリフィスがガッツを抱き締める。

 

 これが客の気を惹くただの娼婦の手管であるなら、ガッツも片手で軽くあしらえた。

 あるいは、普段であればグリフィスの周りには必ず誰かが次の用件のために待ち構えていて、無駄に使える時間などほとんどありはしなかった。

 こんな風に、いつ敵に見つかるかもわからないのに騒ぐどころか迂闊に声を上げるわけにもいかない状況で、寒さに震え疲れ切った体でもなければ少しは抵抗する余地も残されていた。

 

「ガッツ、考え直せ。今ならオレも聞かなかったことにしてやる。それで全ては元通りだ。オレだって、お前の嫌がるようなことをしてまで無理を強いるような真似はしたくない」

 

 グリフィスはガッツの両肩に手の指先を食い込ませる。事実上の降伏勧告にも等しい。降参するなら、今が最後の機会だと言わんばかりに。

 

「……」

 

 ガッツは舌打ちし、眉を寄せ、視線を上げて溜め息を吐き、そして唇を噛んだ。

 

「…ガッツ?」

 

 そして、答えを催促するようなグリフィスの声に対し、一言だけを返した。

 

「くそったれ」

 

 その時、グリフィスの顔に浮かんだのは怒りでも悲しみでもなく、昔を懐かしむような懐旧の色だった。

 

「…そうか。変わらないな、お前は」

 

 鷹の団に入るかどうかを迫られた時も、グリフィスに肩を極められたどうにもならない状況で、それでもガッツは降参するのを拒んだ。どれだけ体を痛めつけられようと、そして我が身を駒として好きに使われることになろうと、心までは折れず、絶対に譲らず、どこまでも自分のものだと言わんばかりに。

 そして今、同じようにガッツはグリフィスの与えた最後の猶予を拒否したのだ。

 

「それなら、仕方ない」

 

 美しい微笑みを、恐ろしいほどに妖艶な笑みを浮かべたまま、グリフィスはゆっくりと腰を下ろしていった。ガッツが自分の意にそわぬ形で誰かに犯されるのは、これが生まれてから二度目のことだった。

 

■□■□■□■□■

【Phase-003】

 

 醜悪なほどに太く硬く、そして熱く滾ったガッツの生殖器をグリフィスの膣襞が貪欲に咥え込む。自分の牡槍が熱くとろけた淫唇の隙間へと飲み込まれていく快感に、それに溺れてはならないと強く心を律していなければ、自分から腰を上下させる本能的な衝動を堪えられはしなかっただろう。

 

「ン、んッ……っ」

 

 ガッツの肩を左右の手で掴み、白い喉を反らせてグリフィスが甘く喘ぐ。その声と、童貞を喰われたばかりの自分を根元まで咥え込んだ牝襞がざわめいて絡みつく快感に、ガッツは歯を食いしばって耐えていた。

 

「あ、は、ぁ……」

 

 生殺しのようにゆっくりと、小刻みに、じっくりと腰を揺らしていく。グリフィス自身の体重が、その重みで子宮口を圧する刺激に甘い吐息を漏らす。

 

「ガッツ」

 

 蕩けた眼差しがガッツの目を正面から捉えると、そのまま唇を近づけて口付けをせがむ。いや、奪われる。

 

「ん……ふ、っ」

 

 唇同士が触れ合い、熱い舌が絡みつく感触。互いの口を唇で塞ぐことで、思わず漏れてしまいそうな声を噛み殺す。肩を掴んでいたはずのグリフィスの両腕はガッツの首の後ろへと回り込み、いっそう強く抱き締めてくる。互いの体の熱が汗となって絡み合う。

 

「んぅっ、ン……」

 

 お互いの唇が一つに溶け合ったような錯覚に囚われるほどに長く続いたキスはやがて終わりを告げる。透明な橋を架けて二人の唇を繋ぐ唾液の糸が途切れると、グリフィスは微笑を浮かべたまま再び腰を揺すり始めた。

 

「あ……んッ、ふ」

 

 自分の上で腰を振る女の動きに合わせて、下から突き上げたくなる。生まれて初めて味わう女との交わりの快楽、それもおそらくは極上の部類に入るだろう相手との行為にガッツは激しく翻弄されていた。

 グリフィスの肉付き良くも引き締まった腰を掴む、という誘惑を堪えたのは判断としては正しかったと言えるだろう。だがそれは同時に、自分の上で踊り狂う牝への反撃の機会を放棄したことも意味していた――。

 

「いいぞ、ガッツ。お前の熱が胎の中で燃えているようだ。オレ達は戦友としてだけでなく、男と女としても最高に相性が良かったらしいな」

 

 耳元で囁くグリフィスの声は、いっそ疎ましく思えるほどに甘く掠れていた。グリフィスの白い裸身が上下するたびに、その形の良い乳房がガッツの視界の下半分で跳ね踊る。

 

「ガッツ、オレを見ろ。オレの体はどうだ? 場末の安酒場で客引きをするような娼婦どもに小銭を恵んでやって初体験を済ませるより、よほどいいだろう?」

「っざけんな」

 

 半ば無意識にグリフィスの乳房に手を伸ばしかけていた自分に気付き、辛うじて理性で本能を押さえつけて握り締めた拳を床に突き立てる。ガッツの鋭い眼差しの奥にある葛藤を見透かしたように、グリフィスは薄く笑ったまま囁いた。

 

「それだけじゃない。ああいう娼婦どもは子供を孕んでも産んで育てる金も無ければ、それ以前に産むまで客が取れなくなるし体も重くなって生活に不便だからと、そこらの藪医者が調合した怪しげな薬を飲んで子供を堕ろすんだ。薬といっても胎の中の子供を殺すような代物はほとんど毒と変わらない劇薬だ。それで子供だけじゃなく母体まで死ぬことも少なくない」

 

 グリフィスは腰をくねらせながら、己の身の上を語る。おそらくは誰にも明かしたことのない、彼女の過去を。

 

「物心ついた時からオレはそういう世界に生きていた。いいかガッツ、日の当たらない裏路地の貧民窟では銅貨一枚を争って浮浪者どもが殺し合い、痩せ細った溝鼠すら食料にしようと孤児どもが互いに互いを殴り、噛みつき、引っかき、石を投げつけあう。そんな場所で、親に捨てられたか売られたかした子供が生き延びるにはどうすればいいと思う?」

 

 グリフィスはガッツの首に回した腕に力を込めると、その耳元に口を寄せた。熱い吐息が耳朶を撫でながら囁きかける言葉の一つ一つが毒のようにガッツを蝕む。だが、それは決して肉体的な傷を与えるものではない。むしろ真綿で首を絞められるような苦痛と恐怖だった。

 それは、それらはガッツにとっても決して他人事ではない。まだ幼い頃に養父である傭兵ガンビーノに売られて稚児趣味の傭兵に慰みものにされたトラウマを今なお克服し切れていないガッツにとって、さらにはその養父に殺されかけ、そして自分の身を守るためとはいえ結果的に養父を殺してしまったガッツにとって。

 

「簡単だよ。体を売るんだ。物好きな金持ちどもが道楽や暇潰しのために買う玩具として、あるいは手持ち無沙汰な貴族どもの慰み者として買われる時もある。時には人買いから奴隷商へと売り飛ばされて異国へ連れ去られる子供も珍しくなかった。オレは幸いにもそういう目には遭わずに済んだがな」

 

 煩悶するガッツの耳朶をグリフィスの唇が甘く食む。

 

「グリフィス……やめろ。もうやめてくれ、頼む」

「いいや、やめない。お前が自分の言葉を翻すまではな」

 

 どこまでも残酷に、グリフィスはガッツを心身ともに追い詰めていく。

 敵と見定めた者に容赦はしない。慈悲もかけない。冷酷なまでに合理的に、その弱点を抉り、急所を刺し貫く。

 それがグリフィスだった。それが戦場の白い鷹だった。

 

「お前は自分の子供を見捨てられるか? 見殺しにできるか? お前が出て行った後でオレの身に何かあったら、お前とオレの子供にもしものことがあったら、その時お前は自分の剣に疑問を持たずにいられるのか?」

 

 あまりに強く食いしばり過ぎたガッツの歯が軋む。

 

「お前が剣を握る理由はなんだ? お前が剣を振る理由はなんだ? それがわからないからお前がオレから離れようとするのなら、オレがお前に理由を与えてやる。オレのために剣を振れ。オレとお前の子供のために剣を執れ。それ以外に理由が必要なのか?」

 

 それではダメだ。ダメなのだ。それでは、いつまでもガッツはグリフィスの手の中から抜け出せない。グリフィスと『対等の者』には、なれないのだ。

 

「グリフィス。オレは、お前を……」

「……ぁ」

 

 ガッツの腰の突き上げに、グリフィスは不意を打たれたように喉を反らせて喘いだ。

 そして、たったの一度でも自分から動いてしまった時点で、もう引き返すことは叶わない。ガッツはグリフィスの、その白い乳房に喰らいつくようにむしゃぶりついた。

 

「っあ、あぁッ」

 

 か細くも甲高い嬌声を上げてグリフィスが仰け反る。その反応が、声が、ガッツを駆り立てる。グリフィスの白い肌にくっきりと歯型が残るほど強く乳房に噛みつき、何度も何度も繰り返し貫いた。そうしなければ、そうでもしなければ、号泣してしまいそうだった。母親に泣きつく子供のように情けなく、心のどこかではグリフィスに甘えようとしている自分を認められなくて。

 

「ガッツ、もっと強く、もっと深くオレを刻め。お前の剣で貫いてくれ」

 

 自分の弱さに抗うように己の胸板にグリフィスを引き寄せて抱きしめる。その形を確かめるかのように乳房へ食い込ませた五指の先が震えて止まない。

 だが、そのグリフィスは左右の腕と脚と、全身でガッツの体を締め付けてきた。決して演技でも虚偽でもなく、心の底から本当に喜んでいるのだとわかった。

 

「…グリ、フィ…ス…ッ!」

 

 食いしばった歯を剥いて、ガッツの頬を流れ落ちる雫が顎からグリフィスの頬に滴った。今すぐにでもここから逃げ出したい、これ以上は自分の情けないところを見せたくないと思いつつも、それでもガッツにはどうしてもグリフィスの体を振りほどけなかった。振りほどきたくなかったのだ。

 たとえそれがどんな理由であろうとも、この温もりを自分から手放すことなどできはしないと、知ってしまったのだから。

 

■□■□■□■□■

【Phase-003】

 

 いつ意識を失ったかは覚えていない。

 まるで戦場のただ中で無我夢中で剣を振り回し続け、ただひたすらに脈打つ心臓の鼓動と共に無心で敵を殺し続けるだけの獣となった時のように、白く柔らかな肉に溺れ、沈み込み、狂ったように腰を動かし続けていたことだけは覚えている。

 優しく、包み込むように柔らかな手つきで頭を撫でる手の感触。こんな風に誰かに頭を撫でられることなど、ついぞありはしなかった。それこそ、まだ物心がついたかつかないかの幼い頃に流行り病のペストで養母のシスが死んで以来、自分を抱き締めてくれる者も、自分の頭を撫でてくれる者も、一人もいなかったのだから。

 

「起きたか、ガッツ」

「…あ?」

 

 微睡む自分を抱いていたのが誰なのかに気付いた時、そして自分が誰の胸に顔を埋めて惰眠を貪っていたかを意識して、急速に意識が覚醒する。

 

「っ…!?」

「騒ぐな。動くな。静かに」

 

 飛び起きようとしたガッツを押さえ込むように、白い手が素早く口を覆う。

 

「…グ、グリフィス…?」

「なんだ、覚えていないのか? 昨夜はあんなにオレを情熱的に愛してくれたというのに」

「き、気色悪い冗談はよせ」

 

 目を白黒させるガッツは、しかしグリフィスの乳房の谷間に顔を埋めて眠っていた自分が言っても何の説得力もないことを自覚しつつも、それでも無駄な悪あがきをしないわけにもいかなかった。

 

「冗談? まさか。ほら、これを見れば証拠は十分だろう?」

 

 わざわざグリフィスが指差す必要さえもない。その白い肌のあちこちに刻まれた熱烈なキスマークに歯形に手形が濃厚な男女の情交の痕跡を色鮮やかに示している。

 トドメとばかりに、下腹部から内股にかけて乾ききっていない男女の体液がグリフィスの胎に収まりきらずに逆流して溢れ、生々しい匂いを立ち上らせている。

 これを見て、ガッツがグリフィスに犯されたなどと主張しても信じる者は皆無だろう。むしろガッツがそう強硬に主張すればするほど、当のガッツがグリフィスを襲ったに違いないと逆に墓穴を掘るだけになるのは目に見えていた。

 

「う、ぐ…い、いいから、とにかく何でもいいから服を着ろ」

 

 反論の糸口を完全に潰されて、対応に窮したガッツは手近にあった自分の肌着を投げつけるようにしてグリフィスに渡した。

 

「わかった、わかった」

 

 大人しく、その肌着に腕を通したグリフィスだったが、しかし肌を隠すという目的から言えば、それは完全に逆効果だった。

 別にガッツの体つきが貧弱というわけではない。これが例えばキャスカであれば、おそらく体を隠す役目は十分に果たせただろう。

 しかし、ただでさえ女性としては長身のグリフィスの胸がガッツの厚い胸板よりも更に豊満に過ぎたというだけだ。胸元を押し上げる巨大な柔肉によって肌着の裾はずり上がり、そのせいで股間は丸見えのまま。むしろ黒い肌着がグリフィスの肌の白さをかえって強調し、より扇情的な眺めになっているとさえ言えた。

 

 女を知ったばかりの若い男よろしくガッツが思わず横目でチラチラと盗み見てしまうのも、自制心の無さが原因だと断じるのはあまりにも一方的だろう。むしろ、今のグリフィスの色香がそれほどまでに魅惑的に過ぎるのだから。

 

「なんだ? あれだけやってもまだ足りないのか? オレは別に構わないが…」

 

 からかうような優しい微笑を浮かべていたグリフィスは、そこで唐突に口を閉ざして鋭く尖らせた目を横に転じた。ガッツもまた、即座に気分を切り替える。

 洞窟から這い出るように体を低くして、音を立てぬよう静かに身を潜めると、背の低い低木の茂み越しに川縁にたむろする数人の雑兵達の姿が目に入る。

 

「本当かよ?」

「ああ、間違いない。アドン様は死体でも構わないと仰せだ。あれだけの高さから落ちれば、もし生きていたとしても相当な手傷を負っているはずだ」

「もし生け捕りにでもすれば、さらに追加の報償金も貰えるってよ。何しろ相手は鷹の団の団長と切り込み隊長だ。その首には一生遊んで暮らせるくらいの賞金がかかってる」

「誰が先に死体を見つけるかの競争だからな。他の連中も目の色を変えて探し回ってるぞ。この辺りにもいないとなると、もっと下流まで流されたのかもしれねぇ。おい、向こうの方にも行ってみようぜ」

 

 盗み聞きされる可能性を考えもせず、声高に話す雑兵達は賞金を手に入れた時の使い道を口々に言い合いながら川沿いに歩き去っていった。

 

「…あまりのんびりとはしていられなくなったな」

「ああ、ここで長居はまずい。さっさと移動しよう」

 

 二人は素早く身支度を整えると、一夜の仮宿とした洞窟から出て移動を開始した――が。残念ながら何事もなく味方と合流できるほど都合の良い話はなかったようだ。

 

「やはり生きておったかぁっ! また会えて嬉しいぞ、小僧!!」

 

 鬱蒼とした森の中で、耳障りな濁声が合図となったように下生えの草を踏む重い軍靴の足音が幾つも幾つも響く。

 

「…ざっと百人ほどか。まあ、見たところ小銭目当ての雑兵ばかりだが」

 

 手にした武器や甲冑などの意匠にもまるで統一性がなく、組織だった包囲をするでもなく、てんでばらばらに数を頼みに二人を取り囲んでいるだけの傭兵達を眺めたグリフィスは小さく呟く。

 これが正規の騎士であれば、もっと整然とした動きを見せるだろう。そうするように訓練され組織されているのだから当然と言えば当然だが、きちんと統率されているわけでもない傭兵にそれと同じ事を期待するのは間違いではある。鷹の団のような規律正しい精兵揃いの存在は傭兵団の中では例外中の例外だった。

 

「そっちもしぶとく生きてやがったか、おっさん」

「おっさんではないっ! この不死身男爵、名門コボルイッツ家のアドン様がこの程度の傷で死ぬはずがなかろう!」

 

 ガッツの段平に兜ごと顔面を叩き切られて、なお戦意を喪わず再戦を挑んでくるあたりは、確かに不死身を自称するだけのことはあるのかもしれない。尤も、必要以上に家名を強調する名乗りのせいで妙に小者臭いのも確かだが。

 

「チューダー帝国に盾突く大罪人ども、ここで正義の裁きを受けるがいいっ!」

「それで? 具体的にはオレ達をどうしてくれるんだ?」

「鷹の団の女団長は、この場で兵どもの慰みものにしてくれる。泣き喚きながら女に生まれてきたことを心の底から後悔するがいいっ! そして、その哀れで惨めな姿のまま奴隷としてドルドレイ要塞に持ち帰ってくれるわ!」

 

 特に興味を引かれた風でもない半ば投げやりなグリフィスの問いに対して、下卑た想像に口の端から涎を垂らしながら、男爵を名乗るには些かという以上に品性に欠ける発言を宣うアドンである。

 

「そして小僧っ! 貴様はコボルイッツ家に200年伝わる拷問術、悶絶100年殺しで狂い死にさせてくれる! 目の前で大事な女が兵どもに犯されるのを眺めながら、己の無力さを嘆きながら死ねぇっ!」

 

 ここが見せ場だと言わんばかりに大見得を切るアドンを自分の視界に入れることすら厭うように視線を転じたグリフィスは、周囲の雑兵らを睥睨して嘆かわしげに首を振ってみせた。

 

「やれやれ、オレがこの程度の連中の相手で泣き喚くほど初心な小娘だと思われているとは…なあ、ガッツ? どうやらオレは、こんな短小の早漏どもの相手をさせられるらしいぞ?」

「あ?」

 

 いきなり何を言い出すんだと言わんばかりのジト目を向けるガッツに構わず、グリフィスはそれはそれは婀娜っぽい流し目を返して見せた。

 

「生憎とオレは面食いでね。ガッツぐらいの段平でもなければ、とても満足できないのさ」

「おい、グリフィス。ちょっと待てよ、おい…」

「そうだろう? 昨夜もその剣でオレを何度も貫いて、それはもう溢れかえるほどにたっぷりとオレの中に…」

「バッ…! お前、こんな所でいきなり何を言い出す気だ!? ちったぁ時と場所ってもんを考えやがれ、このバカヤロウが!!」

 

 衆人環視の真っただ中で、堂々と猥褻な痴話喧嘩を始める二人を取り囲む兵達は呆然として視線を互いに見交わした。

 

「お、おのれぇ、バカにしおってぇ…」

 

 こうも真面目に戦うのが馬鹿らしくなる緩んだ空気を広げられては、自らの顔に傷をつけられた恥辱の復讐を企図する側のアドンとしてはたまったものではない。空気を入れ替えると共に不甲斐ない部下どもに喝を入れるため、アドンは切り札として自身に同行させてきた肉親を呼ばわる。

 

「サムソン! サムソン!!」

「お゛う゛! あ゛に゛ぎぃっ!!」

 

 木陰から進み出てきたのは、兄であるアドンをも上回る厚みと上背を持つ巨漢だった。さすがに二人が口を閉ざすと、アドンは自慢げに舌を勢い良く回転させる。

 

「我が栄光の青鯨超重装猛進撃滅騎士団副団長サムソン! 鎧の厚みは通常の三倍! ハンマーで殴られても凹み一つできん! さらには水牛の頭蓋骨をも粉砕する鉄球を自在に操る武勇! フハハハハハ! どうだ、恐ろしかろう! 泣いて許しを乞うなら今のうちだぞ!」

 

 二人が黙っているのを自らに都合よく解釈して、アドンは既に勝ったつもりでいるようにふんぞり返って胸を反らした。弟の武勇によほどの自信があるらしい。

 グリフィスは小さく肩を竦め、ガッツに素早く目配せをする。げんなりと脱力したように肩を落としたガッツは、仕方なさそうに頷きを返した。

 阿吽の呼吸で一瞬のうちに戦術を見定めた二人の連携に気付いた様子もなく、地響きを立てんばかりに分厚い鎧を揺らしながら青鯨(中略)副団長サムソンがのしのしと進み、鎖付きの鉄球を振り回し始める。

 

「死ぬ覚悟は出来たか? ならば死ねぇぃっ!!」

 

 唸りを上げて回転する鉄球がアドンの号令と共に放たれ、それをガッツが抜き放った段平が正面から打ち返す。

 次の瞬間、自分も同じ戦場に立っていながら、まるで他人事のように物見遊山気分で見物していた雑兵の一人の頭部が柘榴のように弾け飛び、鮮血と脳漿が四散して周囲の者に降りかかった。悲鳴と怒声が交錯し、たちまち一帯は修羅場と化す。

 

「ぬ゛う゛っ…!?」

 

 サムソンが鎖を手繰って鉄球を手元に引き戻すよりも早く、その兜に落ちる影があった。ガッツの段平の刀身に飛び乗ったグリフィスが、その鍛え上げた腕力に任せて思い切り剣を振り上げる動きに合わせて高々と跳躍していた。

 

「お゛、お゛でを゛ぶみ゛だい゛に゛…!?」

 

 行き掛けの駄賃とばかりにサムソンの兜を踏みつけて更に飛び上がると、純白の甲冑を纏うグリフィスの姿は既にアドンの目の前にいた。

 

「な…あ? え? は?」

「さて、何だったか。ああ、名門コボルイッツ家とか言うカビの生えた古い家の名前がよほど自慢のようだが」

 

 いつの間にか、緩く湾曲したグリフィスの剣の切っ先が急変する状況についていけずに混乱するアドンの口元に突きつけられている。

 

「まあ、別になんでもいい。いい加減その口上も聞き飽きた。笑えない無価値な道化はさっさと舞台から退場しておけ」

「まっ…」

 

 待て、とでも言おうとしたのだろうか。

 コボルイッツ家に700年伝わる活殺自在の術を活用する暇もなく、さらには1000年伝わる豪弓狙撃術秘奥義の烈射迅雷破を披露する機会すら与えられず、アドンの舌を無情に切り裂きながら口の中に突き入れられたグリフィスの剣の切っ先は喉の奥の延髄にまで達し、口から血泡を噴きながら無様に手足を痙攣させるアドンは下手な踊りを披露する滑稽な死に様を周囲に晒す羽目となった。

 

「あ゛、あ゛に゛ぎぃ…っ!?」

「おい、どこを見てやがる。お前の相手はオレだろうがよ」

 

 背後の兄の死に狼狽するサムソンの兜に、大上段から振り下ろされたガッツの段平が容赦なく食い込む。ひしゃげた兜の隙間から鮮血を噴き出す巨漢が、それでも辛うじて何かをしようと手足を動かしかけるが、

 

「しぶといのは兄貴譲りか? せっかく兄弟で同じ場所に傷をつけてやったんだ。同じ場所で仲良く死んでおけよ」

 

 ダメ押しとばかりに追撃としてトドメの斬撃が完全に頭部を陥没させ、サムソンは脳漿を盛大に大地へと撒き散らしながら仰向けに倒れ、それきり二度と動かなくなった。

 兄弟にしてこの場における指揮官と次席指揮官を同時に失い、雇い主にして報酬の支払窓口が死んでしまったとあっては、傭兵である雑兵たちにしてみれば戦う理由も命を捨てる義理もない。

 

「アドン様がやられた! サムソン様も!」

「くそっ、どうせ死ぬのなら給金の残りを払ってから死んでくれよ!」

「やってられるか! やめだ、やめ!」

 

 蜘蛛の子を散らすように、泡を食った傭兵たちは我先にと逃げ出していく。

 

「おーおー、やっぱ傭兵は負け戦になると逃げ足も早ぇな」

「誰だって勝ち馬には乗りたいし、逆に他人の失敗に巻き込まれて自分も破滅したいとは思わないからな。そういうところは貴族も傭兵も大して変わらないものさ」

 

 それを見送る二人は悠然としたものだ。

 幾ら無数の死線をくぐり抜けてきた手練れの二人でも、百人という数は一つの力だ。

 百人が全員、死に物狂いで命を捨てて向かってきていれば、あるいは二人とも命を落としていたかもしれない。

 あるいは、さらなる報酬の上乗せを約束するなどの餌を目の前にぶら下げられ、どちらか一方だけを集中的に狙うといった効率的な戦術を使われていれば、運良く死なずに済んだとしても少なくない手傷を負わされていたであろうことは疑いない。

 

 しかし、そうさせなかったのは。

 

 この場で瞬時に集団の頭を討つと見定め、多勢に無勢という状況に気が緩んでいた雑兵達の気合いをさらに削いで何もさせず、させる暇も与えずに、真っ先にアドンとサムソンの兄弟を討ったグリフィスの戦術眼と、その戦術を無言の目配せ一つで汲み取って即座に実行することが可能なガッツの存在が、それを許さなかったのだ。

 

「さて、行くか。早く戻らねぇと今頃キャスカが目をつり上げて怒ってるだろうからな。あの長ったらしい説教を食らうのは御免だ」

 

 軽く血糊を払った段平を仕舞うと、ガッツは兜の面頬の位置を手で軽く直してからグリフィスに声をかけた。が、そこで振り向いたグリフィスの視線に、思わず口を閉ざす。

 

「…ガッツ。やはりオレにはお前が必要だ。今もそうだし、これからも。お前とでなければ今の状況を無傷で切り抜けるのは難しかった。これからもオレの傍で戦ってくれ、ガッツ」

「昨夜の話をここで蒸し返すのかよ」

「そうだ。むしろ今だからこそ、だ。皆と合流したら、こんな話は出来ないだろう? それとも、皆の前で言ってもいいのか?」

「絶対にするな。いいか、絶対に誰にも言うなよ」

「お前がそう言うなら、誰にも言わないさ。だから、こうして二人きりの時にだけ話している。勝手に黙っていなくならないでくれ。どうしても出て行くなら、オレとの決着をつけてからにしろ」

 

 真っ直ぐに見つめてくる青い目に、今のガッツはどうあっても逆らいがたいものを感じてしまっていた。一度は肌を重ね、情を交わしてしまった後ろめたさからだろうか。

 

「お前が望むなら、またオレを抱いてもいい」

「おい」

「いや、違うな。正直に言う。…ガッツ、オレがお前に抱かれたいんだ」

「っ…!」

 

 切なげな目で見つめられ、思わず頭に血が上ったガッツは顔の熱さをグリフィスに見られまいと慌てて視線を逸らした。

 その身につけた純白の甲冑よりも白く、雪よりも白く、美しい肉体の味を今のガッツは知っている。鷹の団の中でただ一人。自分だけが知っている。そして、他ならぬ自分だけが、求められている。グリフィスに。

 

 この、オレだけが。

 

「……」

「ガッツ」

「うるせぇな、わかったよ」

 

 痺れたように動かない舌を無理矢理に回して、ガッツは顔を背けたまま低く吐き捨てた。

 

「わかったよ、黙って勝手に出て行ったりはしねぇよ。出て行く前に、お前に声をかける。きちんとケジメをつける。…それでいいんだろ?」

「ああ、それでいい。…ありがとう、ガッツ」

 

 柔らかな、甘えるような声で囁くように紡がれた声に、ガッツの背筋が総毛立った。強烈な、獣欲に近い猛烈な肉の欲望が衝動的に膨れ上がるのを感じる。

 

「…話が済んだんなら、行こうぜ、早く」

 

 甲冑を着ていて良かった、と思う。痛いほどに勃起した堪え性のない股間を悟られずに済む。

 いつものように、グリフィスには見透かされてしまっているかもしれなかったが。

 

■□■□■□■□■

【Phase-004】

 

「ヒィイァァアアァァァッ!!」

 

 恐怖と絶望に上擦った断末魔の叫びをあげる傭兵の兜に、鎧に、腕に、肩に、弩から放たれた太矢が幾本も突き刺さる。

 

「ジュドー隊長、やっぱりこいつもさっきの連中と同じ、グリフィス団長とガッツ隊長から逃げてきたみたいです」

「そうか。方角はこっちで間違いないな?」

「はい」

「よし、それならこのまま進むぞ。他にもまだ逃げてくる敵がいるかもしれない。連携できる距離を保ちつつ、なるべく横に広がって網を展開しながら進め」

 

 鞘ごと背負っている双刀のうち、手にした一振りの峰を肩に乗せるようにして周囲を警戒しながら、鷹の団の捜索隊を率いるジュドーは部下達に指示を出した。

 

「隊長、見つけた敵は生け捕りにしますか?」

「そうだな、捕虜にして身代金が稼げる相手だったら、無理のない範囲で捕まえてもいいぞ。そうでないなら…」

 

 ジュドーは軽い口調で言いながら、剣を持たない方の手刀で軽く自分の首筋を叩いてみせた。

 鷹の団でも独断専行で命知らずの勝手な無茶をするガッツや、常に規律正しくあれとガミガミ口うるさいキャスカ、いざという時以外は基本的に無口で慣れていないと会話が成り立ちにくいピピン、酒を飲めば人に絡み、女にもだらしない部分のあるコルカスなどに比べれば、リッケルトと並んで普段から理性的で温和、人当たりも良く付き合いやすいタイプと周囲から思われているジュドーではあるが、それでもグリフィスの下で長く戦場を生き抜いてきた古強者だ。

 時として、その判断は残酷なほどに合理的かつ冷静そのものとなる。

 

「了解です」

「急げよ。早くグリフィスとガッツを見つけて帰らないと、本陣で苛立ってるキャスカが余計な無駄口を叩いたコルカスを相手に剣を振り回しかねないぞ。リッケルトだけじゃ抑えきれなくなるかもしれん」

「あ-…。本当にありそうですね、それ」

「そうだぞ。だからなるべく急げ」

 

 もしも、グリフィスとガッツの二人のどちらかが敵を食い止めて、どちらか片方だけが逃げていたなら。

 その場合、ジュドー達が広げた網にかかる手がかりは今よりも遙かに少なく、二人の居場所を掴むことも出来ず、そうなれば発見と合流はそれだけ遅れていたことだろう。

 グリフィスとガッツがアドン達を即殺することで雑兵達が四方八方に逃げ散り、その結果としてジュドー達の捜索に引っかかった敵兵が二人がいる方角をほぼ正確に教えてくれたのだった。

 

「ジュドー隊長! あそこに白い甲冑が!」

「グリフィス団長!? グリフィス団長だ!!」

「ガッツ切り込み隊長もいるぞ!!」

「おーい、こっちだ! 見つけたぞ、他の連中にも急いで知らせろ!!」

 

 やがて二人を見つけた捜索隊は口々に歓声を上げて声高に叫んだ。

 

「よっ、二人とも」

「ジュドー、よく来てくれた」

「やれやれ、助かったぜ。ありがとよ」

 

 片手を挙げて軽く再会の挨拶をするジュドーに、グリフィスとガッツはそれぞれに感謝の言葉を返す。

 

「ガッツ、オレよりも感動の再会を待ち望んでた連中があっちで待ち構えてるぜ」

「隊長!」

「ガッツ隊長!!」

 

 ジュドーが半歩ほど脇によけると、後ろで待ち構えていた切り込み隊の面々がガッツを取り囲んだ。

 

「オレは本陣で待ってろって言ったんだけどさ、副長のガストンがどうしても一緒に行くって言って聞かなくてさ。…ま、本陣に残ってるとコルカスの代わりにキャスカの八つ当たりの的にされるかもしれないからかもしれないけど」

 

 頭の後ろで手を組んで、グリフィスに軽く笑いかけるジュドーは、さりげなく横目でその白い甲冑姿を上から下まで眺めた。

 

「…どうした、ジュドー?」

「いや、別に。とりあえず、先に報告と引き継ぎを済ませてもいいか?」

 

 ガッツを囲んで離そうとしない切り込み隊の連中を背にして、ジュドーはグリフィスと肩を並べて歩き始める。

 手短に、かつ的確に現状をグリフィスに報告し、必要な情報の交換を済ませる。こういった遣り取りは慣れたもので、捜索隊の兵達もそれを邪魔しようとはせず、適度に距離を置いて周辺の警戒を続けていた。

 

「…というわけ。軍監の貴族達にはグリフィスの方から後で適当に言い繕っておいてくれ。でないとキャスカが責任を追及されるかもしれないし」

「わかった。そっちはオレに任せておいてくれ。敵の頭である何とか男爵家の長男と副団長の次男はこっちで片付けておいた。その戦果を土産にすれば、そううるさくは言われないだろう」

 

 さらりと言ってのけるグリフィスに、ジュドーは半ば苦笑いの微笑を浮かべる。

 

「敵地で孤立無援の二人を真面目に心配してたこっちが馬鹿みたいだな、それ。命からがら敵の追撃から逃げてくるかもと思って切り込み隊の戦力を回してもらって来たんだが、たった二人で敵の部隊長を返り討ちにして無傷で悠々と帰ってくるとか…」

 

 呆れ半分、賛嘆半分の声を空中に放り投げつつ肩越しに背後を顧みる。

 

「さすがですぜガッツ隊長! たった一人でグリフィス団長を無傷でお守りして帰ってくるなんて…!」

「お、おう」

「まさに無敵、鉄壁、最強って感じっすね!!」

「そ、そう…か?」

 

 口々に賞賛の言葉を切り込み隊の連中は良く言えば純朴、悪く言えば単純な脳筋が多いせいで、ガッツの微妙な反応には気付いていないようだった。

 そこで視線を転じてジュドーがグリフィスに目を戻すと――。

 

「…そうだな。おそらくお前が考えている通りだよ、ジュドー」

 

 鷹を模した白い兜の面頬の下で、蒼い目が空恐ろしいほどに爛々と輝いていた。

 さりげなく人差し指で頬を掻く振りをして、自分の顔に冷や汗や脂汗が流れていないことを確認する。

 

 ジュドーは鷹の団でも屈指の古参団員だ。

 ガッツよりも、キャスカよりも、コルカスよりも前からグリフィスに従ってきた。もうずいぶんと長い付き合いになる。それでいて、人との距離感の掴み方、保ち方にも長けているジュドーはつかず離れず、適度な距離を保ってグリフィスと折り合いをつけてきた。

 そんなジュドーであっても、まれにグリフィスが敵を見定める時の爛々とした目の色には恐怖を覚えることがある。

 

 鷹が獲物を見つける時のような、と言えば陳腐な表現になってしまうだろう。

 別の言い方をすれば、あの〝不死者〟ゾッドを前にした時のような。人ではない、人を越えた別のナニカを目の前にした時の恐怖。

 見上げるほどの巨大な怪物に変身したゾッドを前にした時、部下である他の兵達に比べてジュドーが多少なりとも冷静に振る舞えたのは、もしかしたらグリフィスという存在を、その爛々と光る双眸を見つめた時の恐怖を知っていたからかもしれない。

 

 それはつまり――と、そこまで考えたところでジュドーは意識的に自分の思考をそこで止めた。それ以上を考えるのは、理性と感情と、その両方の意味で危険に過ぎたからだ。

 自分はグリフィスの下につくと決めた。他人より多少は器用に振る舞えるとはいえ、どこまでも凡人の枠を越えられない自分ではどうあっても手の届かない場所へと導いてくれる、自分ではどうあっても越えられない壁を軽々と飛び越えていくグリフィスという存在に。

 それ以上は望まない。望めない。自分はグリフィスのような『特別』な存在にはなれない。

 

 そして、そのグリフィスにとっての『特別』な存在にもなれない。例えば、ガッツのような。

 

 そんな一抹の自嘲をも交えたジュドーの極めて客観的な自己評価は、今回もグリフィスにとっての合格点を満たしていたらしい。

 にんまりと目を細めたグリフィスは、普段と変わらぬ様子に戻っていた。

 

「なあ、オレは何も聞かなかったことにして忘れた方がいいか?」

「そうだな、そうしてくれ。オレもガッツから口止めされていてな。詳しいことは話せないんだ」

「そっか」

 

 オレは何も聞かなかった。オレは何も気付かなかった。オレは何も知らなかった。

 

 胸の中で繰り返し三回唱えて、ついさっき感じたばかりの違和感を忘却の彼方に追いやる。

 もしグリフィスとガッツの間に何かがあったとしても、自分には関係のないこと。元々、必要以上に他人の事情に深入りするのは傭兵稼業では御法度だ。誰であろうと多かれ少なかれ脛に傷持つ身の上なのが当たり前なのだから。

 

「――ただ」

 

 ポツリとグリフィスが舌の上に乗せた呟きが、ジュドーの耳を掠める。たった今、何も聞かないと言ったばかりの言葉を翻すことはせず、賢く沈黙を貫くジュドーはグリフィスが続きを口にするか、それとも全く別の話題に流れを変えるか、どちらであっても構わないと待ち続ける。

 

「おそらく、ガッツは自分でも気付いていないんだろう。今のガッツが剣を振る理由に、オレのことはあってもなくても変わらないくらい、とっくに大切なものを手にしていることに」

 

 おもむろにグリフィスが立ち止まり、静かに背後を振り向く。その視線を追いかけるように、ジュドーも再び後ろを見た。

 

「ガッツ隊長! グリフィス団長と一晩一緒にいたんでしょう? 何もなかったんですかい?」

「ねぇよ。…いや、本当に何にもありゃしねぇって」

「隊長! 戻ったらキャスカの姉御が説教してやるって息巻いてましたぜ! 今のうちに何とか言い訳を考えておいた方がいいんじゃねぇですか?」

「げっ、本当かよ。…おいガストン、お前もちょっと言い訳を考えるの手伝えよ」

 

 ガッツが切り込み隊の連中と陽気に肩を組みながら歩いている。

 鷹の団に入るまで、ずっと一匹狼で誰とも触れ合おうとも関わろうともせず、半ば自分の死を望んでいるかのように無謀な無茶を繰り返し続けていた、あのガッツが。

 もう今のガッツは一人ではない。仲間がいる。部下がいる。大切なものが周りにいてくれている。

 

 ガッツが鷹の団を抜けるということは、また一人に戻るということ。せっかく手にしたはずの大切なものの全てを、それと気付かずに手放してしまうということだ。

 

「だが、ガッツにそれを気付かせるために、昔のように腕尽くで正面から叩き伏せるというのは、今のオレには少しばかり荷が重すぎる」

 

 グリフィスの見立てに無言でジュドーも賛同する。ガッツは切り込み隊を率いて真っ先に敵に殴り込み、数多の死線を越えた数だけ強くなってきた。

 いくらグリフィスが天才であっても、その剣をもってしても今のガッツを圧倒するのは難しいだろうと思う。そしてグリフィスにも叶わないのであれば、ジュドーを含めて鷹の団の誰であろうとも不可能に違いない。

 

「だから、オレにできることはガッツの弱みを握るくらいだ。…ガッツが勝手に、オレの隣からいなくなったりしないように」

 

 聡いジュドーにとっては、それでもう十分だった。

 眩しいものを見るように、愛しげに目を細めるグリフィスの横顔を見れば答えは決まっている。二人の間に何があったのかも、どうしてそうなったのかも。

 もちろん、ジュドーは相槌の一つすら口にはしなかった。自分は何も聞いていない。グリフィスの独り言など聞こえているはずもないのだから。二人の事情に口出しはしない。踏み込まない。どこまでも賢く分をわきまえているジュドーの態度がお気に召したのか、グリフィスは再び前に向き直ると話題を変えてきた。

 

「ところでジュドー、一つ頼みがあるんだが」

「何なりと言ってくれ。オレに出来ることなら」

「この遠征が終わったら、オレ達は英雄として凱旋する」

 

 さらりと言ってのけたグリフィスは、この遠征が失敗に終わるとは、あるいは鷹の団が負けるとも、これっぽっちも考えてはいないらしい。それどころか、既に勝った後のことまで見据えていた。

 これを他の誰かが口にしたのであれば酒を飲み過ぎた酔っ払いの戯れ言か、そうでなければ誇大妄想の極みと笑ってやるのもやぶさかではないところだが、他ならぬグリフィスがそう言うのであれば、きっとそうなるだろうと信じることが出来た。

 

「その時、オレ達は王城での祝賀会に招待されるだろう」

「…ん? おいグリフィス、いまオレ『達』って言ったか?」

「ああ、言った。招待されるのはオレだけじゃない。ガッツ、キャスカ、ピピン、コルカスにリッケルト…もちろんジュドー、お前も。千人長は全員が英雄として、賓客として招待され、正面から堂々と王城に足を踏み入れるのさ」

 

 そちらの方がよほど信じられないと、ジュドーは半笑いの表情で天を仰ぐ。昔は場末の酒場で安酒を酌み交わして勝利の祝杯をあげていた自分達が。今も少しは金回りが良くなったとはいえ、貴族だの王族だのといった眩しい光が当たる場所に呼ばれるグリフィスばかりで、そんな世界とは全く無縁だと思っていたのに。

 

「オレ達がねぇ…昔のオレに言っても、とても信じられないと笑っただろうな」

「さて、そんなお前達には砂糖菓子に群がる蟻のごとく貴族どもが寄ってたかって食いついてくるぞ。今まではオレだけを見ていれば良かったが、今度はオレに近付く足がかりとして使えそうな連中が新しく現れたわけだからな」

 

 ジュドーは反射的に否定を返したくなる自分を抑え、無言でグリフィスの続きを待った。

 

「オレがガッツを手元から離さず連れ歩けば、次に目をつけられるのはキャスカだろう。何しろ若く、世間慣れしていないように見える。そこらの田舎育ちの小娘がむさ苦しい傭兵団の中で同性というだけでオレに贔屓され、千人長なんてご大層な地位を与えてもらっただけ。そう考える馬鹿は必ず出てくる」

「…へぇ」

 

 ジュドーの声がごく僅かに、ほんの少しだけ低くなる。グリフィスの語る未来予想図はいかにもありそうな話で、そして現時点では単なる予想に過ぎないとしても、極めて不愉快だった。特に、ジュドーにとってはそうだった。

 

「だからな、ジュドー。そういう馬鹿がキャスカを苛つかせて余計な騒ぎを起こさせないよう、お前が目をかけておいてくれ」

「オレが?」

「そうだ。何ならオレが勉強に使った宮廷の礼儀作法の教本も貸してやる。お前なら、基本さえ押さえておけば応用は勘と要領の良さで何とかなるだろう」

「できるかねぇ、オレに」

「無口なピピンに二枚舌の貴族どもの口車に対抗しろと言えるのか? コルカスは適当な女に言い寄られたら、それだけで鼻の下を伸ばして逆にキャスカに殴られるのが目に見えている。リッケルトは、そもそもまだ年が年だからな。キャスカの隣で貴族どもの相手をするには経験が足りないし、相手から侮られるだけだ」

 

 消去法で残ったジュドーが一番の適任だ、と。グリフィスはクスリと軽く笑う。

 

「それに、お前も着飾ったキャスカを間近で見たくはないか?」

「あー…まあ、うん、見てみたいかどうかで言えば、確かに興味はなくもない、かな」

 

 そこは迂闊に否定も出来ず、ジュドーは曖昧に首を振る。

 

「寄ってくる貴族どもへの牽制と、キャスカの相手を同時に頼む。オレはガッツのお守りに専念したいから、お前に頼んでいる」

 

 グリフィスの声に、なんだか自分の内面までも見透かされているような気分になったジュドーは無駄な抵抗はせずにさっさと大人しく降参しておくことにした。

 

「わかったよ。まあ、なんだ。それもこれも遠征が終わってからの話だけどな。それよりも、グリフィス」

「なんだ」

「一番肝心なキャスカのご機嫌取りと説得、頼んだぜ。さっきも切り込み隊の連中が言っていたけど、きっとキャスカのヤツ相当にお冠だろうからな。グリフィスでないと大人しくさせるのは無理だろうし」

「ジュドー、お前…、そもそもの最初っから一番の面倒事をオレに押し付けるつもりだったな?」

 

 愉快そうに笑うグリフィスの笑い声に、ジュドーも唱和する。

 長雨が上がった木漏れ日の差す森の中に、鷹の団の将兵たちの明るい笑い声が響き渡っていた。

 

 

 ――数日後。

 

 ドルドレイ要塞の攻略に失敗した白虎騎士団は甚大な被害を出しながらも辛うじて撤退。

 これを受けて国王臨席の御前会議が開催され、激論の末に鷹の団に要塞攻略の勅命が下されることとなる

 

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