意識が溶ける。
快楽。幸福。悦楽。至福。
明滅する視界に映る愛しい男の顔。
胎に注がれた灼熱の精が己を満たす。快楽の絶頂へと幾度も上り詰める。
叫んだのか、呻いたのか、啼いたのか。自分でも判然とせぬまま、ただ歓喜と情欲とが混淆した声を高々と放つ。
意識が微睡む。
視界が闇に堕ちていく。
満たされている。自分は全てを手に入れている。
愛しい男がいる。信頼する仲間がいる。頼もしい部下がいる。そして目の前にはこれからも挑むべき遙かな頂がある。
『――…本当に?』
曖昧な自我の境目に触れる、おぞましいほどに甘く、どろりと粘り着くような声。あるいは、声に似たナニカ。
まるで触手のように、恐ろしくも忌まわしい人ならざる存在の末端、その指先が意識に触れる。
『ねぇ、本当に?』
視界は漆黒の闇に閉ざされて何も見えない。しかし、見えずともわかる。臭いでわかる。その声を耳にすればわかる。
コレは、その手を無数の血で汚してきた自分よりもなお大量の血を浴び、その命を糧にしてきた怪物だ。
牡の命を喰らって生きる女郎蜘蛛のように、数知れぬ男の精を啜り、嬉々として破滅させてきた化け物だ。
間違っても、コレは人間などではない。こんな生き物が大陸に今なお生きているとすれば、国の一つや二つは簡単に亡んでいる。
国を傾ける、では済まない。玩具のように、おやつのように、手慰みに、ただただ愉悦のためだけに、国を滅ぼし、数多の民の涙と絶望を味わって何ら悔いることもない。そういう存在だ。
『あなたには美がある。愛がある。友情が、信頼が、そして情熱と忠誠があなたを支えている。――でも、足りない』
柔らかく含み笑う声。自分の無知を嘲り笑う声。
『世界は美しいものだけでなど出来ていない。むしろ、醜いものの方が遙かに、圧倒的に多い。あなたの世界には憎悪が足りない。絶望が足りない。――醜悪さが、無い』
知っている。自分の醜さを知っている。妬まれ、嫌われ、憎まれている自分を知っている。自分は今なお多くの敵に囲まれている。
それでも、足りないと?
『ええ、足りない。いえ、少し違うかもしれないわ。あなたが今のままで満ち足りているとするなら、それでも良いのかも。今のままで満足し、ここで足を止めるのなら』
でも、そうではないのでしょう?と、その声は自分を見透かすように笑う。
『知っていて? あまりに鋭く、あまりに大きく育ちすぎた牙を持つ剣牙虎は、そうであるがゆえに滅ぶ。あまりに大きく、あまりに広げすぎた翼を持つ鳥は空へと飛び立てずに地に墜ちる。あなたの周りにある強すぎる光は濃い影を落とし、そうであるがゆえに、あなたの足をその鉤爪で捕らえる』
闇が。
『ねえ? あなたは無明の闇を飼い慣らせるのかしら? あなた自身が闇にでもならない限り、無理なのではなくて?』
まるで、闇そのものが笑っているように、おぞましい声が幾重にも木霊する。
忌まわしさと厭わしさに振り払いたくなる衝動を噛み殺し、その指先を掴む。
『あら、何かしら?』
何者だ、お前は。
『――スラン。臓腑の娼姫と呼ばれたりもするわ。白く輝かしい鷹の乙女よ。いずれまた、どこかで会いましょう? そう、あなたが世界の全てに絶望し、慟哭と悲嘆の海に沈む時にでも』
その名を最後に、妖しく蟠る闇は深淵の水底へと去って行った。恐怖と不安を煽る邪悪な予言を、まるで他愛のないおまじないか何かのように言い残して。
■□■□■□■□■
【Phase-001】
暖炉で燃えている薪がパチリと小さく弾ける音が響いた。
長い銀の睫毛に縁取られた瞼が僅かに震え、そしてゆっくりと開く。澄んだ蒼い瞳が二度、三度と瞬いた。
「起きたのか、グリフィス」
白い頬を伏せていた分厚く逞しい胸板の持ち主が低い声をかけてくる。
「…ガッツ。オレはどれくらい寝ていた?」
「あー、そうだな、歩哨の鐘一つ分くらいか。大体そんなもんだろ」
三交代で夜営の見張りをする歩哨の当番が鳴らす鐘の間隔は、おおよそ3時間弱ほどか。
「意外と寝ていたな。少し寝過ごした」
そう言って起き上がろうとするグリフィスの頭を、ガッツの大きな手が押さえつける。
「もう少し寝てろ。お前が一服盛られた薬はかなりやばいヤツだったってジュドーが言ってたろうが」
もちろん知っている。そうと知っていて自分は調合させ、それを服用したのだから。そして、それをガッツも知っている。他ならぬ自分が教えたのだから。
知っていて、何も知らぬ振りをして言わないだけだ。自分に口止めされたのに秘密を守り切れず、ジュドーに思わせぶりなことを言ったのを怒られたのが余程に懲りたらしい。
「お前も意外としつこいな。もう先週のことだぞ、それは」
「もう、じゃねえ。『まだ』、先週のことでしかねぇんだぞ」
「だが、仕事は待ってくれないからな」
「お前がそう言って一向に休もうとしねぇから、いい加減にしろって見かねたキャスカとジュドーがこれからは書類仕事を代わるって言い出したのを忘れたか?」
「別に忘れてはいないが…」
そうは言っても、いきなり新しい仕事を任せれば失敗もあれば見落としもあるだろう。最初のうちは自分が傍についているべきだ。
「…お前がそう言って起き出そうとする時に備えて、あらかじめ二人に釘を刺されてるんだよ。オレは」
「何?」
「グリフィスと違って、自分達のような凡人が最初のうちは失敗するのは当然で、その失敗から学ばなければ次に進めない。失敗した責任は自分達でとる。だから天下の白鳳将軍ともあろうものが部下の仕事を奪うな、だとさ」
ガッツの手が、グリフィスの頭を撫でる。少し乱暴な手つきだが、優しく。
「オレと違って、あの二人はお前を支えてくれる。二人でも足りなけりゃ、コルカスやピピンやリッケルトも。あいつらも、これからは騎士なんだ。爵位持ちのご立派な貴族様だ。そういう書類仕事も今後は覚えさせなきゃってキャスカが張り切ってたぞ」
コルカスの野郎はすげぇ嫌そうにしてたが、と。ガッツは呟くように付け加えた。上目遣いにその表情を窺うと、ガッツはひどく穏やかな顔をしていた。まるで憑き物が落ちたように。今のガッツを見れば、キャスカも血に飢えた狂犬だの何だのとは言うまい。
グリフィスの頭に手を置いたまま、ガッツは窓の外を眺める。
「…雪が降ってきたみてぇだな。外は冷える。今日はこのまま休んどけ」
「お前がこのまま、オレと一緒にいてくれるならな」
「言わせんな。そんなクソ小っ恥ずかしいこと」
裸で抱き合う二人は睦言のように小さく囁きあう。ひどく静かで、穏やかな時間。満たされた、幸せな時間。そのはずだ。これ以上、何を望むというのか。
――本当に?
「ガッツ」
「あ?」
ゆっくりとグリフィスが体を起こし、ガッツに顔を寄せる。
「装備の新調は終わったか?」
ドルドレイ要塞の攻略戦で幕を閉じた遠征の後、鷹の団でも酷使した武器や壊れた甲冑を補修したり新たに購入したりする者は多かった。何しろ要塞攻略には成功したとはいえ、ほとんど紙一重の薄氷の上にギリギリで掴んだ勝利だった。
特にガッツは敵将ボスコーンとの一騎打ちで愛用していた段平が折れる寸前まで激しく打ち合い、知り合いの鍛冶師にも打ち直すのは無理だと言われたほどだ。
「ああ、あれはゴドーとかいう名工でもなけりゃ打ち直せないとか言われたからな。あの段平はそれなりに気に入ってたんだが」
「新しい剣にはどれくらいで慣れる?」
「そう長くはかからねぇよ。長さも重さも同じくらいのを選んだからな。半日も振り回せば問題ねぇ」
ガッツの返答に小さく頷いたグリフィスは、静かに目を細めた。その妖しい目に、ガッツはうんざりと溜め息を吐く。
「おい、グリフィス…今度は何をするつもりだ?」
「言ったろう? お前にはとことん付き合ってもらう。他の連中にはとても見せられないオレの嫌なところも、吐き気がするほど醜いところも、悍ましいところも。お前にだけは全部見せてやる」
何しろお前は、オレの夫なんだから。オレの全てをさらけ出しても、それでも妻を受け入れるのが度量ってものだろう?
グリフィスの甘い囁きに、ガッツは頭を掻き毟った。
以前のように有能な部下への、あるいは命を預ける道具に向ける信頼だのとは全く意味合いの異なる、あまりにも重すぎる粘ついた感情がグリフィスの体重よりもずしりと心臓に伸し掛かってくる。
知らないというのは、あるいは幸いなことだった。ガッツには誰かから愛されるという経験がほとんどない。圧倒的に足りていない。だから、グリフィスから向けられているあまりに重すぎる感情が世間一般に言われる愛などという代物とは程遠い、全くの別物だとは気付かない。気付けない。
戦場に行けば、腹が裂かれて糞の詰まった腸を飛び出させた死体など幾らでも目に入る。死を目前にして恐怖と苦痛のあまり糞便を漏らす兵など幾らでもいる。誰もがそうだ。誰であれ、人間であれば腹の中には汚物を貯め込んでいるのが当然だ。
しかし、だからといってそれを親しい相手に見せつけたい者などそうはいない。世の中には他人の排泄を見たり糞便そのものに性的興奮を抱く特殊な性癖の持ち主も確かにいるかもしれないが、あくまでそれは少数例。大抵の人間は、出来れば親しい相手には自分のなるべく綺麗な部分を、美点を見せたい。見られたい。良く思われたいと考える。
なのに、今のグリフィスがガッツへと向けるその感情は――それは執着であり、依存であり、妄執だ。
「どうだ、ガッツ。まさかオレから逃げ出すなんてことはするなよ。もちろん、そうなっても追いかけてやるが」
「…舐めんな。それこそ今更だろうが」
ここで逃げるくらいなら、とっくに鷹の団を抜けている。
啖呵を切るように小さく吐き捨ててみせたガッツを、グリフィスは愛しげに見つめた。
「それでこそガッツだ。オレが選んだ男だよ」
「くそったれが」
思わず漏らす悪態も、他ならぬガッツ自身の耳にさえ単なる苦し紛れにしか聞こえない。互いの顔が寄せられ、二人の唇が重なる。
「王都の外れ。この前フォス大臣に娘を引き渡したところだ。覚えているか?」
「…ああ」
「三日後の夜。鷹の団の誰にも言わずに一人で来てくれ。完全武装で。待ち合わせの相手は危険な男だ。最大限に警戒しろ。万全の状態でな」
互いの唇を繋いだ銀色の糸が顎にまで垂れ落ちるのを拭おうともせず、しっとりと艶やかに濡れた唇のままグリフィスが囁いた。
ガッツは眉を寄せ、拳を握る。まるで今は手元に存在しない愛用の剣を掴もうとするように。
「お前がそこまで警戒が必要だという相手ってのは、誰だ?」
「黒犬騎士団」
頬に張り付いた銀髪を指先で掻き上げたグリフィスは、口元を凍てつかせる微笑を崩さぬままに言葉を継ぐ。
「騎士団とは名ばかりの札付きの悪党ども、揃いも揃って極刑を言い渡された重罪人ども、人を殺し、女を犯し、略奪し、村々を焼いては次の獲物を漁る人の形をしただけのケダモノども。ミッドランド王国軍における暗部にして恥部と言われる腐れ外道どもの頭目――黒犬騎士団の団長、ワイアルド」
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【Phase-002】
王都ウィンダムから四方に伸びる主要な街道からも遠く離れた街外れ。
遙か昔に、おとぎ話の『髑髏の騎士』が根城にしていたと真しやかに囁かれる怪談の舞台となれば、あえて近付こうとする物好きも滅多にいまい。無謀な子供らが肝試しに近付こうとして、遠目からも明らかに荒廃した古い半壊した石造りの塔の残骸を眺めやっては、慌てて逃げ出すぐらいがせいぜいだろう。
今も、辺りには風に乗って甲高い女の声が断続して響き渡り、それを何も知らぬ者が耳にすればすわ死霊か亡霊の声かと恐怖して足早に逃げるに違いない。
そんな荒れ果てた塔から崩れ落ちた古い石材を椅子代わりに腰掛けて、しかもその膝の上に全裸の女を乗せた男が悠然と腰を揺らしていた。
巨漢、というほどの体躯ではない。何か特別に人目を引く身体でもない。ただ、ひどくケダモノじみた男だった。猿猴の如き異相は今現在まさに女と交わっているにもかかわらず、何ら感情を窺わせない。その目は何も見ていない。
「ひっ、ひぃっ、ひぃぃっ」
ゼイゼイと、悲痛なほどに喉を震わせて悲鳴のような喘ぎを漏らす女は春を売るのが生業の娼婦の身の上である。当然ながら男と交わる経験は人並み以上にある。
顔の美醜は問題ではない。美男でも金を支払わない相手は客ではない。醜男でも大金を払ってくれるなら良い客だ。金をもらえば誰が相手でも股を開く。客を選り好み出来るほどの高級な娼婦になれるのならその方が良いが、そこまで自分は容貌に恵まれてはいない。
だから、今夜もいつもと同じように。金と引き換えに服を脱ぎ、媚びを売り、股を開いた。ただ、それだけだ。それだけのことに過ぎなかったはずなのに。
「ね、ねぇ、もう、もう、終わりにしてよぉっ」
いつまで経っても終わらない。もう一体どれだけ延々と続いているのか、そんな時間の感覚さえもない。
確か、王都の外門近くの裏路地で金をもらって、馬に乗った男の後ろについていくことになったのは日暮れも近かったはずだ。女を買う金はあっても適当な宿に泊まる金もないのかと内心で侮蔑に近い感情を覚えたのは記憶の片隅に残っている。
人気の無い王都の外れも外れまで連れてこられて、いきなり服を脱がされて。それから、それから――わからない。何も考えられない。ずっと、ただただひたすらに男に犯され続けている。
――ただ、怖い。
そう、怖いのだ。今はただ、目の前の男が恐ろしい。
だって、この男は別に性欲の処理がしたくて自分を抱いているわけではない。
これは単なる暇潰し。座っている子供が手慰みに、手持ち無沙汰に雑草を千切って遊んでいるのと同じ。
何もせずに待っているのが退屈だから、自分を玩んで遊んでいるだけ。大して面白くもないけれど、他にすることもないからと、ただただ退屈凌ぎに自分を買っただけ。
「あー? なんだよ、もうちょっと頑張れよ。ったく、そこらの小銭で買えるような玩具は結局そんなもんだよな。安物買いの銭失いって言うのか? 堪え性ってもんがねぇ」
男がつまらなそうに呟き、アクビ混じりに腰を軽く動かす。
「ひぎっ!?」
ズンッ、と胎を突き上げられた女が悲鳴を上げて身悶える。
男の体力は底なしだった。その精力は無尽蔵だった。何よりその腕力は馬鹿馬鹿しくなるほど人間離れしていた。指先一つで簡単に女の細腕など折り曲げられてしまう。
いま男が腰掛けている大きな石の塊も、元からそこにあったわけではない。目についた適当な石を片手で持ち上げて、周囲を見回すのに都合の良い場所に置いただけだ。逆らえるわけがない。逃げる気にさえもなれない。逃げる背中に、この大きさの石を投げつけられたらと考えるだけでも足が萎えてしまう。
いっそ気絶してしまいたくもなるが、逆にそうなった時が恐ろしい。それで大人しく解放してくれれば良いが、一晩分の金をもらっていながら早々に気絶するような娼婦を、客がどう扱うか。
怒りに任せて髪を掴んで引き回すような、あるいは怒鳴りながら殴りつけて無理矢理に目を覚まさせるような酷い扱いをするような客もいるのだ。
何をされるかわからない。違う。どんな風に自分の体を玩具にされるのかがわからない。それが怖い。怖いから、気絶すら出来ない。
ただ、この苦行が、拷問が、少しでも早く終わってくれと心から願うばかりだ。
「おっ?」
何の前触れもなく、男が声を上げて腰を浮かした。
勢いのまま後ろに倒れてしまいそうになった娼婦は必死に男の首に腕を回して堪える。この男が女の体を抱き止めて支えてくれるほど優しいとはとても思えなかった。頭から地面に落ちるだけならまだいいが、そこにもし運悪く石などがあれば頭が割れて死んでしまう。
「おー、おー、こっちだこっち!」
男がブンブンと手を振る。いっそ無邪気なほどに楽しそうに。
その上機嫌な様子に、これでようやく終わってくれるのか心から安堵した女はそれだけで意識を失いそうになる。
背後から足音が二つ、硬い軍靴が地面を踏みつける音が規則正しく近付いてくる。
「約束では、そちらは一人という取り決めだったはずだが?」
男にしては高く、よく通る伸びやかな美声が鼓膜を震わせる。娼婦を貫いたままの男はわざとらしく見えるほど大仰に首を巡らせ、周囲を見回す。
「おう、ここにいるのはオレ様一人だけだ。おいらは約束は守る男だぜ?」
「……」
臆面も無く放言する男の声に、沈黙が続いた。
「かーっ、なんだよなんだよ、ちょっとした小粋なジョークじゃねえの。あれだよ。誰だって初対面の相手と話す時は少しは緊張するもんだろ? ハートウォーミングかつウィットな会話で場を和ませる優しいオレ様の気遣いってもんだよ。わっかんねぇかなぁ?」
つまらなさげに唇を尖らせた男は何気ない素振りで女の首に手をかけた。
まるで子供が小枝を折るような。ひどく呆気ない、軽い音と共に。その頸骨が折れる。
声は上がらなかった。悲鳴も、断末魔も、恨み言も、何一つ。何しろ声を出すべき気道も声帯も何もかも、それらを含めて喉を握り潰されていたので。
「おおっ、やっぱ上を絞めると下も締まるなぁ、うーっ、これこれ。これをやると壊れちまうから一回しかやれないのが難点だけどよ。ほら、要らなくなった玩具はちゃんと処分しねぇとな。オレ様は気遣いだけでなく整理整頓、断捨離も欠かさず忘れない、誰からも愛される良い子ちゃんなんだよ」
罪悪感どころか、命を奪ったという実感すらもなく。
ただ用済みの道具を使い捨てたのと何も変わらない男の声が薄れゆく意識に木霊する。
胎の中に汚濁を注ぎ込まれる感覚すらどうでもよい。
何故。どうして。自分が。
そんな疑問すら瞬く間に消え失せる。思考する自我そのものが色褪せていく。
――ただ。もし。もしも、クソの役にも立たない坊主どもが説く地獄とやらが、本当にあるとするならば。
いつの日か、この男が地獄に堕ちる時は。
自分もこの手で引きずり込んでやりたいと。
そんな恨み言だけが最後に焼き付いた。
■□■□■□■□■
【Phase-003】
「さてさて、王都で今一番ホットな最新トピックス! 話題の鷹の嬢ちゃんがオレ様に一体どんな秘密の内緒話をするつもりなのか、楽しみだねぇ。わざわざオレ様に足を運ばせたんだから、さぞ面白い話だと期待しているぜ? つまんねぇ話で興醒めさせないでくれよ?」
力を失った女の死体を無造作に脇に捨てて、ワイアルドは裸のまま会話をすることに何の羞恥も抵抗も感じていないとばかりに、愉快そうに笑っている。
「……」
ガッツは養母であるシスが流行病で死んだ直後から養父の手で戦場に連れ出された。それを嫌だと言えるような、拒める立場にはなかった。
戦場に行けば敵は、相手が子供だろうが何だろうが殺しにかかってきた。自分とて、その敵を殺して金をもらっていたのだからお互い様だ。
女だろうが男よりも強いグリフィスやキャスカのような兵士もいるのだ。女だから、あるいは子供だから殺せない、殺すのはおかしいと口にする資格は、少なくともガッツには無い。
だから、目の前で女が殺されてもそれを咎める筋合いはない。ただ、目の前の男が『そういう』存在だと認識するだけだ。
戦場でなくとも、相手が敵でなくても、自分が殺される危険がなくても。
目前の死に恐怖する相手を笑いながら、苦痛に悶える相手を楽しみながら、何の躊躇いもなく殺せる。
――それは、外道だ。
ガッツは半歩先に立つグリフィスの肩越しに、ワイアルドの顔を黙って睨む。いつでも背負った段平を抜き放てるように、右手を自由にしておく。腕の筋肉を必要以上に強張らせることなく、かといって弛緩させ過ぎることもせず。
いつでも、目の前の男を敵として殺せるように。
「本当は、色々と話すこともあったんだが」
「おお? あったんだが?」
「チューダーとの戦が終われば黒犬騎士団は用済みになる。戦の間は辛うじて目こぼしされていた蛮行も、それが終われば罪になる。そうなれば罪人どもを生かしていく必要もない。斬首なり、絞首刑なりに処されるのを待つばかりになる」
「ふんふん? それで?」
「だが、お前はそんなことはどうでもいいんだろう?」
そんなガッツを脇に控えさせたまま、グリフィスは冷ややかに告げた。
「黒犬騎士団がどうなろうと、自分が罪人の身分に戻ることになろうと、お前は全く気にも留めない。お前はただ、自分だけが楽しく遊べれば、それでいいんだろう?」
ワイアルドは前屈みになってグリフィスの顔を斜めに覗き込み、そしてゲラゲラと笑い出した。
「その通り! いやー、オレ様のことがよくわかってるねぇ、鷹の嬢ちゃんは!」
まるでグリフィスの肩を叩こうとするように愉快げに哄笑しながら親しげに手を伸ばし――その指先を純白の胸甲の留め具に引っ掛けて。
無造作に、それを引きちぎった。
「っ…!!」
ブチッ!と鳴ったのは甲冑の位置を調整する革紐が千切れた音か。
それとも、ガッツの堪忍袋の尾が弾け飛んだ音だったか。
グリフィスが止める暇すらもなく剣の柄に手をかけたガッツが抜刀した段平を右腕一本で振り下ろし、猿めいた軽業でそれを俊敏に避けてみせたワイアルドは後方に一回転してのけた。
「おやおやぁ? こいつはどういうことかな、鷹の嬢ちゃん。オレ様の可愛いお茶目に、そんな段平を振り回すなんて。連れの礼儀がなってねぇんじゃねぇの?」
「さっきのお前のジョークとやらに、こちらもちょっとした冗談で返しただけだ。軽くじゃれて遊んで見せたぐらいのことに、そう目くじらを立てることもあるまい」
引き剥がされた胸甲ごと厚手の鎧下まで引き裂かれ、露わになった乳房を隠そうともせず。
羞恥どころか怒りも笑みも何もない無表情のまま、その顔色は最初から一切変わらず、その表情筋も全く微動だにしない。
ただただ冷ややかにワイアルドを見据えている蒼い目に、異相の男は突き出した顎を太い指先でコリコリと掻いた。
「ほほぅ、なるほどなるほど。そいつはなかなか面白い。最近オレ様と遊んでくれるヤツはずいぶんと少なくなってきちまったせいで、ちょうど退屈してたところだったんだ。…ん? ん-?? そういやぁ…なんだったかな…」
そこで、何かを思い出すように虚空に視線をさまよわせ、ふと思い出したようにガッツへと目を合わせる。
「おー、おーおーおー。思い出したぞ。最近ゾッドの牛馬鹿が、気になる玩具を見つけたとか言ってやがったが、ありゃお前さんのことだったか。なかなか見所のある活きの良い兄ちゃんじゃねぇの」
その戯言に応答する価値など認めずに無言で、深々と地面に食い込んだ段平の切っ先を右腕一本で引き抜いたガッツは、そのまま刀身を右肩に担ぐようにしてワイアルドに向き合う。
うなじの産毛が逆立つ。ただ向き合っているだけでも生存本能が金切り声のような警告を発している。こいつは、危険だと。
殺意こそ剥き出しにしてはいなかったが、本気も本気で振った剣を軽々と回避してのけたワイアルドへの警戒の度合いを内心で更に高める。既に最高の警戒心で臨んでいたつもりだったが、それでもまだ足りなかったと知って。
目の前の男が、あの『不死者』ゾッドと同類の怪物だとするならば。これは警戒するどころの話ではない。殺すか殺されるか、ですらない。どうやってこの場を生き延びるか、死に物狂いで命を拾えるかどうかの問題になる。
「ガッツ」
しかし、その目の前に白い手が差し出され、彼我の動きを制止した。
違う。白い手が何かを促すように、ガッツの左肩に担がれたままのずだ袋を指差している。
「ワイアルド。お前と挨拶をするにあたって、オレは一つ手土産を用意してきた」
「へぇ?」
興味深げに、まるで新しい玩具を見つけたようにガッツをしげしげと眺めていたワイアルドは、しかしグリフィスの言葉に再び気を引かれた様子で目を戻した。
「オレ様に? 手土産を? ほうほう、そりゃ嬉しいねぇ。一体どんな素敵なプレゼントか、おいらワクワクしてきた。この期待を裏切らないでくれよ?」
無言で目配せをされたガッツは、油断なくワイアルドを窺いながら左手だけでずだ袋の口を縛っていた紐を緩め、地面に軽く放り出した。
ちょうど人間が一人分ほどの大きさに膨らんでいたずだ袋が転がり、緩んでいた口が広がり、そして、口元に革紐で轡を填められ、手足を縛られた女が顔を覗かせた。
「…んー?」
ワイアルドが身を屈め、縛られている女の顔をじっくりと眺める。一見すれば無防備なその猪首に段平を叩き込んでやりたい衝動を押さえつけているガッツを無視して、手を伸ばして女の顎に太い指を添え、さらに顔を覗き込む。
かつては侍女の手によって丹念に櫛で梳かれていた黒髪は乱れて顔に張り付き、精魂込めて侍女が化粧を施していた高い頬骨と削げたような尖った顎の細面は憔悴したように窶れて見える。剃刀の刃のように鋭く吊り上がった黒い目だけがギラギラと敵意と憎悪で光っている。
「…見たことねぇツラだが、んー…なんだ、オレ様をそんなに睨んで。なんかしたっけか?」
「お前は会ったこともないだろう。下賤な罪人風情に目通りを許すような女ではないからな。その女は、この国の王妃――によく似ているが、実は影武者の女官だ」
轡で塞がれた女の口から、声にならない叫びが上がる。何を言っているかはわからないが、何を言おうとしているかは容易に推察できるというものだ。
問題は、この場にいる全員がそれに耳を傾ける価値を認めていないという一点のみだった。本来であれば、この場にすぐさま平伏し、その声に耳を傾けねばならぬ身分賤しき者どもが。
「ほう? 影武者? なんでそんな女がオレ様の手土産に?」
「先だって王城の一角で不審火が生じてな。どうやら貴族どもが良からぬ密談をしていたらしい。何とも痛ましいことに、そこに偶々居合わせた王妃殿下もそれに巻き込まれた。逃げ切れずに全員が焼死体で見つかった」
「ほうほう」
「その女は、何をどう勘違いしたのかオレがその火を点けたと誤解しているらしい。あるいは主人である妃殿下を失って発狂したのかもしれん。妄想に狂ってオレが犯人だと思い込んでいる。オレの周囲を嗅ぎ回って、あらぬ疑いを方々にかけようとしていたわけだ」
「それはまた」
芝居の台本を読み上げるように淡々と、グリフィスは筋書きを説明する。その話を聞いているのかいないのか、ワイアルドはどうでもよさそうに相槌を打ちながら王妃――の影武者だとされた女の顔を眺めている。手足を縛られている身では逃げることも叶わないが、それ以前に細く尖った顎を摘まむ太い指の力が強すぎて顔を逸らすことも振り払うことも出来ない。
ただただ、賤しい手で触れるなとばかりに気丈に睨み付けるぐらいが関の山であった。
「オレとしては別に恨みも興味もないが、枕元に鼠がうろつかれては安眠もできかねる。捕まえたは良いが、処分に困っていたところだ。何しろ、ただオレの周りを嗅ぎ回るだけでは罪に問うことも出来ないからな」
「いやいや、今をときめく鷹の団の団長サマにあらぬ疑いをかけていたってだけでも重罪だろうさ。オレ様は正義と博愛の人だからな。そんな罪人はほっとけねぇよ。きっちりと説教して、二度とそんなことをしないようにしてやらねぇとな」
ニヤニヤと、自分でも信じてなどいない建前を口にしながらワイアルドは女の体を軽々と片手で担ぎ上げる。細いとはいえ成人した人間一人分の体重など苦にもせぬ腕力は、子猫か何かを運ぶように女の体を小脇に抱えた。
獣じみた男の強烈な腋臭に抱えられた女が顔を歪めるのも構わず、ワイアルドはグリフィスに向かって片手を上げる。
「そんじゃまあ、オレ様は早速この玩具…じゃねえ、王妃サマの影武者とやらと大事な話があるからよ。今日のところはこの辺で失礼させてもらうわ」
「そうか」
拍子抜けするほどにあっさりと、ワイアルドは背中を向けたままヒラヒラと手を振りながら古びた塔の中へと入っていく。
間を置かずして、くぐもった呻き声が幾つもの亀裂が入ってひび割れた外壁から漏れ始める。中で何をしているかなど想像力を働かせるまでもなく明らかだろう。
「思っていたよりも…いや、思っていたより遙かに危険で、単純で、そして気まぐれな男だったな」
表情を変えぬまま呟くグリフィスの肩に、無言でガッツが自分の外套をかける。行軍中の急な雨の際になど、時に雨具代わりにもなる厚手の外套がすっぽりとグリフィスの体を覆い、その胸を隠す。
「おい、グリフィス」
そして、その外套ごとガッツの腕がグリフィスの体を抱き締めた。
「どうした?」
「オレはあの野郎を必ず殺す。お前が何と言おうと、あの野郎にどんな利用価値があろうと、絶対に殺す」
明日は魚ではなく肉を食べる、とでも言うのと同じ。それは既に決定した未来図を告げる声だった。
あまりにも突き抜けた怒りは殺意すらも逆に押さえ込むものらしく、ガッツの声に激情を思わせるものは何もなかった。
だからこそ、そのあまりにも平坦で、抑揚のない声は何があろうとも絶対に覆せない断固たる決意を感じさせた。
「なんだ、そんなことか」
ずっと無表情を貫いていたグリフィスはようやく、その頬を僅かに緩めて微笑んだ。
「これは命令じゃないぞ、ガッツ。お前の意思はオレの意思だ。お前の怒りはオレの怒りだ。お前の殺意はオレの殺意だ。お前が殺したいと思うほどに怒りを抱く相手に、オレが何も感じていないと思うか?」
グリフィスの腕がガッツの背中に回る。二人は互いの体を抱き締めあう。
「あの男は利用するしないの問題じゃない。名前の通り、黒犬だ。獣だ。手を組もうにも、そもそも四本足の獣には手そのものが存在しないんだ。獣の前足を手だと思い込むのは人間の勝手だが、握った足の爪で掌を傷つけるだけだろう」
「あの野郎が犬なんて可愛いものかよ。アレはゾッドと同じ化け物だ。手を握ろうとした瞬間、その手を腕ごと引き千切られているだろうよ」
「ああ、そうだな。お前の考えはきっと正しい。それで、ガッツ。本当に、お前はアレを殺せるのか?」
グリフィスの囁きに、ガッツの全身の筋肉が隆起した。
必ず殺す、という決意に変わりはない。絶対に殺す、という結果を違えるつもりはない。
しかし、ガッツの剣士としての嗅覚は、ワイアルドの戦闘能力を正しく見積もった上で、その勝算は限りなく低いものと断じていた。
「…くそったれ。本当に、くそったれだが、今は、無理だ」
「ああ、そうだな。ゾッドの時はオレとお前、二人がかりでも辛うじて命を拾うのが精一杯だった。あの時に比べても、お前は強くなった。…それでも、まだ、あの時のゾッドを越えているとは思えない」
グリフィスの見立ても同じだった。まだ、及ばない。今は、まだ。
「――…グリフィス」
「なんだ?」
グリフィスの背中をかき抱くガッツの腕に、息苦しくなるほどに力が篭もる。背中が折れるのではないかと思えるほどに、強く、ただ強く。
いっそ、二人の体が融け合ってしまえばとさえ思う。ガッツの体に、その生命力に、直感的な野生の本能に、自分の才能が、知略が備われば、あるいは。
「オレに一年…いや、半年くれ。あと半年で、オレはあの野郎とも打ち合えるほど強くなってみせる。あの野郎がゾッドの同類だろうが、何だろうが、オレは必ず越えてやる」
その囁きは、まるで耳元で獰猛な獣が牙を剥いているかのようだった。グリフィスの背筋に震えが走った。ガッツの熱い精を胎に注ぎこまれた時と同じか、あるいはそれ以上の歓喜の念を胸の中で噛み締める。
「そうか。…たった半年で、あのワイアルドを殺せるほどになるのか、お前は」
自分は今のままで満足などしない。もっと先へ、もっと上を目指す。なのに、その自分と対等を目指そうとするガッツには、今よりも上を目指すだけの目標がいなかった。つい先程までは。
周辺諸国でも最強を謳われた猛将ボスコーンを一騎打ちで倒せるほどの剣士にまで成長したガッツは、今のままでもミッドランドにおける最強を名乗っても異議を唱えるものはおそらくいない。少なくとも、人間であるならば。
そう、人間という範疇でなら最強でも、人間を越えた怪物や化け物と比べれば必ずしもそうではない。あの『不死者』ゾッドのように、あのワイアルドのように。
だから、ガッツには目標となる敵が必要だった。今より強くなるために、強力な敵が。
「強くなれ、ガッツ。誰よりも、何よりも。ワイアルドよりも、あのゾッドよりも、もっと。もっともっと、強く」
そうであって欲しい。否、そうでなくてはならない。ガッツは、ガッツだけが自分の横に並び立つ男なのだから。
「信じているぞ、ガッツ。お前なら、きっとそうなる。必ず、そうすると」
「任せろ」
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【Phase-004】
体を内側から引き裂かれるような激痛は、徐々に、少しずつ体が慣れていくにつれ下腹部を圧迫する鈍痛に変わりつつある。それでもなお耐え難いことに変わりはない。が、それしきのこと、この胸の内側を焼く激しい憎悪に比べれば何ほどのことがあろう。
目の前の賤しき罪人どもの頭目を睨む。身の程知らずにも高貴なる王族に生まれついたこの身を犯し、あまつさえその汚濁を胎に注ぐ大罪を犯す下郎。千回の火炙りに処そうが万回の斬首に処そうとも飽き足らぬ外道。
しかし、それすらもまだ足りぬ。
「ぐぅっ、ふぐっ、ぐっ…」
あの白い鷹。忌まわしき成り上がりの小娘。思い出すだけでも胸が焼け付く。
頭が割れる。あの小賢しい白い貌が瞼の裏に浮かぶだけでも吐き気がする。ああ、憎い。憎い。憎い。
あの小娘だけではない。企みに自分を引き込んでおきながら最後に裏切った小癪な大臣も。あの小娘が想いを寄せる不遜な面構えの若造も。自分を妃に迎えておきながら妻としては見向きもしなかった王も。その王の娘も。この国の誰も彼もが全て憎い。憎らしい。
高貴なる王族に生まれついた自分が。
誰も彼もが跪き、傅き、注目し、褒め称えられるべき自分が。
何故、どうして、こんな誰も見向きもしないような廃墟と化した塔の残骸の中で、野蛮な罪人に股を開かされているのか。これではまるで春をひさぐ女どものよう、否、それよりもなお悪い。街娼どもとて汚らわしくはあるが、それでも他に手立てがないとすれば必要な生業とするに至る一定の理はあろう。
だが、今の自分はそれすらもない。ただ、ただ、この高貴なる身を玩ばれているだけだ。子供の玩具も同然に、弄ばれている。
「おー、おー、よく粘るもんだ。偉い偉い。普通は、こんだけ延々とオレ様に抱いてもらえば大抵の女は、もうダメ、もうムリ、もうやめて、とか泣き言を漏らすんだけどよ。さすがは王妃様、そこらの女とはわけが違うね。オレ様、大感激」
なんという屈辱か。いっそ舌を噛んで自害した方が遙かに楽ですらある。この轡が噛まされていてはそれすらも自由にはならないが。
それでも。あの夜に。あの塔で煙に巻かれて一度は死んだと思った我が身が、たまさか生を拾ったならば。
例え生き恥を晒してでも、あの小娘に復讐を。あの白い鷹に、あの時に自分を殺しておけばと後悔させてやるためならば。この恥辱にすら耐えよう。この苦痛すらも耐えてみせよう。
「いいねぇ、いいねえ! やっぱあの鷹の嬢ちゃんは最高だな、こんな面白い玩具をくれるなんて嬉しくなっちまう!」
足を縛っていた革紐を軽々と引き千切られた時、この下衆な男の手が足首を軽く捻った。痛みというほどのものはない。少なくとも、立ってゆっくり歩く程度ならば何とかなるやもしれない。だが、まだ子供の頃のダンスの練習中に似たような覚えがあるこの痺れとも違和感ともつかぬ疼痛は、おそらく踊るような運動には耐えられはすまい。
つまり逃げる手立てすらもない。今はただ、この責め苦が終わるまで耐え続ける他に、自分には出来ることが何もないのだ。
「くっ、…ふーっ、ぐっ、ふーっ…」
そして、ようやく疲れたのか、自分にのし掛かって延々と腰を動かしていた男が動きを止める。
ようやくまともに吸える空気を必死に貪る。次に来るであろう責め苦に備えて、少しでも息を整えようと肩で息を吸っては大きく吐き出す。
額から流れた汗が目に入って痛い。縛られた手首が痛い。犯された下腹部が痛い。苦しい。むしろ、延々と続いていた責め苦に切れ目が生じたからこそ、体が苦痛を思い出したように訴えてくる。思い出したくもないが、あの老いた王に処女をくれてやった時ですら、これほどの苦痛ではなかった。
「おーし、準備運動はこれくらいにしとくか!」
「っ…!?」
いま、この男は。何を口にした?
「んー? いま、ちょっとだけ顔色が変わったか? オレ様がこれくらいのことでへばるとか思われてたのなら心外もいいところだぜぇ?」
「ふ、ぐ…っ!」
この、下郎め。忌まわしき、身の程知らずの賤しき罪人め。自分を誰だと思っているのか。指先一つすら触れることも許されぬ高貴な王族ぞ。
精一杯の威厳と敵意と憎悪をこめて睨み付けても、この男はニヤニヤと嫌らしい笑みを崩さない。
「なあ、なあ、オレ様と王様を比べてどうだった?」
「…ふっ」
苦痛を噛み殺しながら鼻で笑ってやる。比べるも何も、政略結婚で嫁いできた自分の肌に王が触れたのは初夜の一度きり。妃に迎えたという既成事実を作るためだけに、この身の処女を奪っただけだ。比べる以前の問題で、それすら賤しき罪人ごときと王族の交わりを一緒にするなど、思い上がりも甚だしい。
「はっ、はははっ、そうか、そうか。いつもしんどそうに玉座に座ってるあんなヨボヨボの王様の持ち物がどれほどのものか、ちょっとばかり興味があったんだけどよ。…なあ、実はあんまり相手してもらってねぇんだろ?」
下種の勘繰りも極まれり。答えてやる必要すら感じない。だというのに、男はますます笑みを深めた。
「ダメだなあ、わかってねぇなぁ、王様は。女の扱いってもんがわかってねぇ。こういう時はさぁ、他の女なら顔色の一つぐらい変えるもんだぜ? 好きな男のことを思い出して、例え無意識にでもオレ様と比べちまうって考えそのものが男にとっては侮辱になるってことを思えば、そんな質問をされるってだけで心が抉られちまうもんなんだ」
そうとわかっていて、そんなことを尋ねるこの男もこの男だ。
「だーかーらー、…実は、他に男がいると見たね」
「……」
「おやおやぁ? 今度は笑わねぇの? さっきみたいに『フフンッ』って感じで、鼻先で笑わねぇの? そいつは肯定してるのと同じだぜぇ?」
いやらしい、底知れぬ獣欲で目をギラつかせる男が、最初の時と同じくじっくりと顔を、目を、心の底を覗き込んでくる。
「なぁ、誰だ? いやいや、別に誰だっていいんだぜ、オレ様は心も度量も広いって評判なんだ。優しいオレ様は、そんな細かい事なんざ気にしねぇよ。でもさ、一つだけ教えてくれよ。…なあ、もしかしてだけどよ。そいつ、あの鷹の嬢ちゃんに殺されてたりしねぇ?」
「!」
今度こそ、何も言えなくなった。
ユリウス様。あの無情な王の弟。
無骨で、厳めしく、いつもいつも不機嫌そうに顔をしかめてばかりいた記憶ばかり。
それでも、頼る者とていない異国の地で。冷たく重苦しい王城の奥に閉じ込められて。ただただ、王妃としての公務と、独り寝の寂しい寝室とを往復するだけの、つまらぬ色褪せた日々に。
例え一時の慰めでしかないとしても。それが許されぬ不義であったとしても。互いに情のない、ただ肉欲だけの繋がりであったとしても。
誰かに求められ、その腕に抱かれ、熱い精を胎で感じるあの一瞬にだけ。
孤独を忘れる事が出来た。それが錯覚でしかないとしても、誰かの情愛を向けられる悦びを知ることが出来た。
自分が、誰にも愛される価値のない存在などではないのだと、思うことが出来た。
「……」
「ん、そうか。やっぱなぁ、もしかしてとは思ったんだよなぁ。そうかそうか、うんうん」
こっちが何も言わず、瞬き一つせずに硬直しているのを勝手に独り合点して、男が顔を寄せてくる。
いやらしく舌なめずりをして、べっとりと汚らわしい唾液をなすりつけるように、その舌で頬を舐めてくる。怖気がするほどに気持ち悪い感触。
――しかし、それすらも。男が低く囁いた声に消し飛んだ。
「なあ、鷹の嬢ちゃんを殺してやろうか?」
「っ!?」
耳元で、生温かい吐息混じりに囁かれたのは、自分にとって文字通りの悪魔の誘惑にも等しかった。
「オレ様はさぁ、別に鷹の嬢ちゃんには恨みも何もありゃしねぇんだけどさぁ。逆に言えば、別に殺したくないってほどの好意も義理もありゃしねぇわけよ。…なあ、ちょっと想像してみ? オレ様が、あの活きの良い兄ちゃんを鷹の嬢ちゃんの目の前でぶっ殺すわけよ。そして、ズタボロになった兄ちゃんの死体に縋り付いて泣き喚いてる鷹の嬢ちゃんを、オレ様がその死体の目の前でブチ犯すところを」
「……っ!!」
想像した。思わず、言われるがままに想像してしまった。想像せずにはいられなかった。
これほどの屈辱を味わっている自分と、あの小娘が同じ目に遭う。それも、殺された想い人の目の前で。殺した当の男に犯される。
その悲嘆、その慟哭、その絶望。その時、あの白い頬に流れる涙は、さぞかし甘いことだろう。さぞ悲痛な声で泣き叫んでくれることだろう。
「はははははははっ!! わかるだろ? なあ、わかるだろ? 今、すっげぇ顔してるもんなあ!? めちゃくちゃ愉しそうだぜ!? そうしたくてそうしたくてたまらないって顔だ! オレ様、そういう顔してるヤツが大好き!!」
思わず、頷いた。
本当に、もし本当に、そんな光景が見られるのであれば。自分は、この悪魔に魂を売っても構わない。
「…ほら、その口で言ってみろよ。オレ様に」
男の指が、いとも容易く口に噛まされていた革の轡を引き千切る。
わかる。この男は、強い。あのユリウス様よりも、強い。あのお可哀想なユリウス様より、ずっとずっと。
「――…本、当に」
喉が掠れた。声が上擦る。口元が引き攣って、まるで笑っているように勝手に口角が上がってしまう。
口の中の唾を飲み込み、乾ききった喉を潤す。息を吸い、そして喉を震わせる。
「本当に、あの白い鷹を…グリフィスを、殺してくれるのか?」
「もちろんさ。オレ様は誠実な男だ。約束は守るぜ?」
歓喜した。今度こそ、顔が笑ってしまう。全身の苦痛すら今は忘れた。目の前の男への敵意すらどうでも良くなる。歓喜のあまり、目尻から涙さえ滲む。
「あの若造を殺し、あの鷹を恥辱と絶望の奈落の底に突き落とし、嘆きながら、泣きながら、情けなくも哀れにも命乞いをする、あの鷹を。…それでも、笑いながら、じっくりと、嬲り殺しにしてくれるのか?」
「おうとも。そして、それを目の前の特等席で見物させてやるって言ってんだよ。…なあ、どうする?」
頷いた。一度では足りなかった。何度も何度も、繰り返し頷いた。
「殺してくれ! あの若造を、グリフィスを! そうしてくれるのであれば、もし本当にそれをこの目で見ることが叶うのであれば! なんでもする、どのようなことでもしよう! この身の全てを捧げても悔いはない!!」
思わず叫んだ。喉が痛む。声が掠れる。それでも構わないとばかりに絞り出した。
「よーしよし、契約成立だ。それじゃ、まあ…手始めに何をするか、だけどよ。なあ、王妃様。男をそのお口でしゃぶったことは?」
その目の前に、男が股間を突き出してくる。血と牡の生臭い汚濁にまみれたものを、見せつけてくる。
経験などない。子を成すのは王族の務めではあるが、そのような所業は高貴なる王族がするべきことではない。男を口で銜えるなど、淫売そのものだ。
だが、しかし。
「ない。が、それをしろと言うのであればしよう」
この胸に燃える復讐のためならば、王族の誇りも火に焼べよう。
「おおっ、そりゃいい心がけだ」
唇に、醜い男の肉塊が押しつけられる。鼻を突く悪臭に吐き気がする。舌を差し出せばそれだけで屈辱のあまり怖気を震うほどに背筋が凍る。
苦み、えぐみ、塩辛さが舌を刺す。勝手に嘔吐こうとする喉を手で掴み、首に爪を食い込ませて堪える。男を見上げ、舌の上に乗せた汚濁を見せつける。
「いいねえ、いいねぇ、実にいい眺めだ」
傲岸不遜にも、王族を跪かせ、それを見下す男の股間に舌を這わせ、あまつさえそれを飲み下す。粘っこく、喉に絡みつく粘液を、無理矢理に胃の中に送り込む。
勝手に吐き戻そうとする腹を押さえ、唇を噛み締める。王族として生きてきた自分自身の体が、下賤の男に傅くのを拒もうとしている。その衝動を、意地でも耐える。
「…本当に」
「おう? さっきも言ったが、鷹の嬢ちゃんを殺すって約束に二言はねぇよ?」
「違う。あの不遜な若造めを、本当に殺せるのか? ああ見えても、チューダー最強の猛将ボスコーンを討ち取ったというではないか。それを、本当に殺せるのか?」
この男は強い。それはわかる。しかし、あの若造もまた強いのだろう。果たして、どちらがより強いのか。そこまではわからない。
男は顔に手をやると、嘆かわしげに首を振って見せた。
「――…はぁぁぁ…やれやれ、まあ仕方ねぇか。そういやあの王様も、猿山の中に混じってたタコとオレ様を比べてどっちが強いかもわからねぇみたいだったしな。あの時はオレ様のカリスマを示すパフォーマンスの場にしてやったから、全く無駄だったわけでもねぇけど…」
それから、再びこちらに目を戻すと、満面の笑みを浮かべてみせた。
――その笑顔が、何故か、とてつもなく恐ろしく感じた。
まるで、人ではないナニカが、歯を剥き出して笑っているように見えて。
「仕方ねぇ、仕方ねえよなぁ、王様も王妃様も、人生を愉しくするための刺激ってモンを知らねぇで生きてんだから。毎日毎日、変わり映えのしねえ似たり寄ったりの退屈な人生! なんとも可哀想なこったよ、人生の楽しみってモンを知らねぇんだから!」
「……」
「エンジョイ&エキサイティング! それがオレ様のモットーであり、人生を最高に謳歌する秘訣さ! そんなオレ様が、王妃様に今まで一度も味わったことのない刺激ってのを教えてやるよ!!」
男の全身が膨れ上がる。もとより筋骨逞しい骨太の体つきの男ではあった。しかし、これはそんなものではない。
「――ハ」
石造りの塔ですら容易く打ち砕けそうな巨腕。鎧を着た兵士どころか軍馬ですら易々と一呑みに出来そうな大口。肩や腹の辺りでギョロリと動く三つの目玉が、一斉にこちらを向く。
「ハ…ハ、ハ、ハハハ…」
男を、否、正真正銘の怪物を見上げたままの顔から虚ろな笑い声が零れ出る。
「んー? おーい、大丈夫かぁ? まさか、これぐらいのことであっさり頭の中が壊れちまったとか言わないでくれよ?」
太い、その指先だけでも自分の頭ほども大きな手が、自分の体を掴みあげる。
「…ああ、そうか。そうか、これならば」
「お?」
「これならば、あの若造も一捻りであろう! あの小娘すらも指一本で楽に殺せるであろう! 素晴らしい! なんと素晴らしい!!」
確信する。この化け物に敵う人間などいるはずもないと。
「おお、まだまだ元気じゃねぇの。ま、それぐらい骨のある玩具じゃねぇと、『こっち』の体じゃ遊べねぇしな」
怪物の大口が開き、一見すれば舌のように見えて、しかし断じて人や獣の舌とは同じものではないナニカが伸びてくる。
疣に覆われ、そこから分泌された得体の知れぬ怪しげな粘液が糸を引く触手めいた肉の管が、その先端がパックリと割れて、白い粘液に覆われた軟体動物にも似た異形の生殖器の本体を曝け出した。
「へへへっ、これで前の男のことなんか忘れさせてやるよ」
自分は恐怖するべきなのだろう。王族としての誇りのみならずユリウス様の記憶すら無くしてしまったのならば、自分は一体何のために、誰のためにあの小娘に復讐するのか。
自分は拒否するべきなのだろう。自分が今のままの自分でありたいのであれば。それで目の前の怪物の気分を害して殺されるとしても、まだ人のまま、人間としての最低限の尊厳を胸に抱いて死ぬことは出来るだろう。
これを受け入れるということは、もはや自分は人間ですらなくなるということだ。文字通りの意味での肉人形。怪物の玩具に自分から成り下がるということだ。王族に生まれた誇りを捨て、女として愛した男の記憶すらも忘れるのであれば、もはや何のためかもわからぬ復讐のために全てを捨て去るということだ。
――しかし。
「ああ、そうか。構わぬ。好きにせよ」
目の前にある破滅すらも、あの憎らしい鷹を地に堕とすための代償ならば安いもの。
この身の誇りも記憶も尊厳すらも、既に意味はない。ミッドランド王国の王妃は、もう死んでいる。死んだことにされている。あの無情な名ばかりの夫は、あの老い耄れた人でなしの王は、既に自分のことなど今ごろ綺麗さっぱり忘れ去っていることだろう。
自分の生死に意味などなかった。求められた王妃という役割にも最初から価値などありはしなかった。ならば、それを捨てるのに何の躊躇いがあろうか。
「おやまあ、捨て鉢になっちまったのか? オレ様、そういうのはあんまり好みじゃねえんだけどなあ。何よりそんな玩具で遊んでも面白くも何ともねぇ」
「違う」
「お?」
「この身を欲するなら捧げよう。恥を忘れ肉欲に溺れ、快楽に耽る淫売のごとくに振る舞えと言うのならそうしよう。情を交わした愛しい男の記憶を捨てろと言うならそれもくれてやろう。それでも足りぬのであれば、王家に伝わる秘事も教えてやろう。火急の危機に備えて王城の地下に設けられた抜け道でも、その先に隠された財貨の在処も」
「ほう? ほうほう? おいおいおい、そーんな美味しい話があると知っちゃったら、オレ様ありったけ全部かっさらっちまうけど、ホントにいいの?」
口角をつり上げる。ニタァッと、唇が引き裂けるように笑みを刻む。
「良い。持って行け。さすれば、王は何者が財貨を奪ったかを調べるべく兵を遣わそう。仮にも王家の隠し財産を盗んだ不届き者、放置など出来ようはずもない。――が、その兵も帰ってこなければ? その次も、さらにその次も帰ってこないのであれば、…さて、どうするであろうな?」
「んー? そりゃまあ、放置も出来ねえ、行かせた連中も帰ってこねえとなりゃ…もう何があっても大丈夫だと信頼する、とびっきりの手駒を出すしかねぇわな」
ニヤニヤニマニマニタニタと、いやらしく怪物が笑う。
「いいねえ、いいねえ。ちょうどいい塩梅に誘き寄せる餌になってくれるってわけだ」
「ついでに、殺した兵の死体を同士討ちしたように見せかければ良い。財貨を奪った盗人同士が欲に駆られて殺し合ったように」
ゲラゲラと、怪物が笑う。哄笑する。
「そりゃあいい! そんな小細工すぐにバレるに決まってるが、『その小細工を誰がしたか』は別だよなぁ? 天下の白鳳騎士団サマが王様の大切なお宝を盗んだ、なーんて噂が流れることになっちまったら、なおさら放っちゃおけねぇよなぁ?」
怪物に腕ごと体を掴まれたままの、自分も笑う。
自分が不幸になるのは、もうどうしようもない。もはや避けようがない。しかし、自分だけが不幸になるのは許せない。
どうせ不幸に死ぬしかないのであれば、一人でも多くの者に同じ不幸を。自分と同じように絶望の底に突き落とされ、悲嘆を味わい、苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて死ねば良い。
そして何よりも、誰よりも。あの白い鷹だけは。
あの若造と寄り添って、その腕を組んで幸せそうに笑い、栄光と賞賛に包まれ誰からも祝福されていた。あの小娘にだけは、絶対に。
自分と同じか、それ以上に汚辱と苦痛にまみれた最悪の死をくれてやる。
「さあ、何を欲する? 何をすればいい? 好きにせよ。この身を玩弄し、大いに楽しめ。あの鷹の小娘を同じように苦しめてくれるのであれば、何をされても構いはせぬ。喜んで全てを受け入れよう」
絶望に堕ちたミッドランド王国の『元』王妃は。
目の前に迫った異形の怪物の触手を前に自らの恥部を晒して、笑う。
人として大切なものを全て投げ棄てた何一つ救いのない、ただひたすらにドス黒い邪悪な顔で。
ただ、笑う。