――ジークムント・フロイト
生クリームとハニーポット(前編・上)
やわらかな日差し、さわやかな風が頬をなでる、そんな朝。
いつもの小高い丘の草原のカーペットの上、片腕を枕に仰向けになったアリスは、流れて横切る雲を指先で辿っていた。その形ときたら、同じものが何一つない。焼き立てのふっくらパンのような雲もあれば、何かの果物に似ているまん丸な雲も流れてくる。
風にゆらめいて分からないくらいのゆったりとした速さで雲の形はどんどん変わっていく。ミルク色の真っ白な雲は、するすると引き伸ばされるように広がっていき、こぼれたミルクみたいになる。
もやがかかるような、ぼんやりとした頭で空のミルクをながめるアリスの顔は何処か不安とも安堵ともとれない、色々な感情の入り混じったぐんにゃりとした表情だった。
夢見心地といえば、まさにその通りで、アリスのうつろにも近いそんな表情は目の前のそれを見ていない。アリスの目にも映らないそれは確かにアリスの中にあった。
大きな雲が陰る。まだらなそれは、まるで何処かで見たネコのようだった。ネコの顔になる雲に切れ間が入り、三日月のような形になったかと思えば、それはそれはにっこりとした口にも見えた。
「どうしたんだい、アリス」
誰かが喋ったわけではない。しかし、聞こえないその声は確かにアリスには聞こえていた。別段、何事もなかったかのように、辺りを見回すこともなく、アリスはただ空に浮かぶチェシャネコをぼんやり見上げていた。
「ボカァ、いつだって君を見ているのさ」
やはり誰かが喋っているわけではない。しかし、チェシャネコの声は確かにアリスには届いていた。
空にかざしたアリスのその手のひらが、丁度、チェシャネコの頭をなでる。
「くすぐったいよ、アリス」
もちろん、誰かが喋ってなどいない。しかしアリスは確かにその声を聞いて、ほんのり、くすくすといたずらじみた笑みを浮かべる。うとうととした目は数度、瞬きをして、遠くのそれを見つめるように細める。
「また、こっちへおいでよ、アリス」
風になびかれて、陰る雲が掻き消えるように散る。それは声だったのか、風の音だったのかはさだかではないが、アリスはぼんやり、もう何の形とも分からないような流れる雲を眺める。
「おやすみ、アリス」
はっきりとした声でそう呟くと、アリスは深く目を閉じた。
※ ※ ※
※ ※
※
アリスは、森の中を歩いていた。
一体、いつから歩いているのか、そもそもいつの間に森の中へおとずれたのかなど覚えていないし、思い出そうともしない。ただ、アリスにはこの先に何かがあるのだろうという確信だけはあった。
果たして、それがどんなもので、どんなことになるのか。アリスには分かりっこないし、分かる必要もないということくらいアリスも分かっている。
それは、期待のようなもの。胸の中で膨らんで、今にも弾けそう。じくり。針で刺すような、それがアリスの中にあった。何かがある。きっと何かが起こる。そうして、どうにかなってしまう。
アリスの心をせかすような、その胸のドキドキは収まりそうにもなかった。
森は開けて、やがて広場のような場所へたどり着く。
アリスの背の丈よりもずっと高い垣根が壁のように広がり、それは庭園のようにも見え、迷路のようにも見えた。垣根だらけの緑の迷路。右も左もろくに分からないアリスは思うままに進むが、これが不思議なことに行き止まりには行き着かない。そもそも行き止まりなんてものがないだけなのかもしれないが。
突き進んで、アリスはまた広い場所に出た。
そこは並木道のようで、何本もの植木が整列するようにキレイに並び、その一つ一つにはキレイなバラの花を咲かせていた。よほどよく手入れされているのだろう。どれもこれも雪のように白く美しいバラばかり。
ところが、アリスの立っているところから丁度反対側、並木道の向こう側のバラは赤い。正確に言えば、赤くされている。
「急がなきゃ、急がなきゃ」
アリスはどうして、と考える必要もなかった。
赤いペンキのたっぷり入ったバケツを片手に、ハケを使って一生懸命真っ白なバラを赤いバラに塗り替えている少年がいたから。
この庭園の管理を任されているのだろうか、使用人らしき少年はもう大慌ての様子でまた一つバラを赤いしては次の植木に取り掛かる。
「ねえ、君。どうしてバラを赤くしているの?」
アリスが少年にたずねる。
「女王様に怒られるからだよ。女王様は赤いバラがお好きなのに、白いバラを植えちゃったんだ。だから早くバラを全部赤くしないと」
少年はアリスの方に振り向く暇もなく、必死にハケでペタペタとバラを赤くする。
そうこうしているうちに、真っ白なバラはどんどんなくなっていき、気がつけば並木道は赤いバラばかり。
「ああ、急がなきゃ! 急いでバラを赤くしなきゃ。女王様におしおきされちゃう!」
息を切らせるも、まだ白いバラは残っている。決して少年はもたもたしているわけではないが、数が多すぎるのだ。また一つ、また一つとバラを赤くしていると、突然遠くからラッパの音が聞こえてきた。
「まずいっ! 女王様だ!」
ラッパの音のする方向を見てみると、見覚えのあるウサギが気品のある格好をしてラッパを吹き鳴らし、並木道に現れた。その後ろからは、沢山のトランプが列をなして歩いていた。その格好ときたらまるで兵隊のよう。トランプみたいなぺらぺらな集団が兵士のように行進してきたのだ。
どれもこれも似たような連中ばかり。違うとすれば、トランプの数字やマークが違うくらいだろうか。トランプの兵士たちは庭園のど真ん中あたりまで来ると、後ろの方の兵士が数人がかりで肩に抱えていた大きな駕篭をそっと下ろす。
駕篭の中から、若い女性が姿を現した。宝石がこれでもかというくらい装飾された王冠を被り、トランプのハートの模様のあちこちに散りばめられた真っ赤なドレス。その気品あるお召し物から分かることは、間違いなくその人が女王様だということくらいだろうか。
庭師の少年は、それはそれは深く、地面に頭をこすりつけるんじゃないかというくらいにハートだらけの女王様の前にひれ伏せた。その姿を見るなり、アリスは自分もひれ伏せた方がいいのだろうか、と少し悩み、とりあえず立つことにした。
「ふん……」
どうにも女王様はふんぞり返った態度で、一体何をそんなに怒っているのだろうかと疑問に持つくらい不機嫌そうな顔を露にしている。庭園の並木道をアリスの方に向かって歩いてくる。すると、それはすぐにハートの女王様の目に触れてしまう。
「むっ……? なんじゃこれは?」
ハートの女王様が手に触れたそれは、少年が塗り残した赤になりかけの白いバラだった。
「ひぃっ」
地面にめり込みそうなほど頭を低くした少年が小さく声をあげる。
ドスドスドス。地響きのような足音を立てて、ハートの女王様が少年のもとへと駆け寄る。その一歩一歩の足音が聞こえる度に、少年は肩をすくませては体を震わせ、ますます縮こまる。
「わらわの大事なバラにペンキを塗りたくったのは貴様かぁっ!」
「もうしわけございませぇんっ!!」
悲痛の声で泣きじゃくる少年の首ねっこを掴み、地面から引き剥がすようにグイっとその体を持ち上げると、ハートの女王様は鬼のような形相で少年の涙顔をギィっと睨み付ける。蛇に睨まれた蛙の心境だろう、身動きひとつ取れない少年は、ただただ涙をあふれさせるばかり。